「まだなの、アーニャ」
「もう少し待って、ターニャ」
 雪のまぶった藪の陰、耳付き帽《ウシャンカ》を被り、毛皮のコートを着込んだ二人の少女が声を潜めながらうずくまっている。
 ふたりとも少し俯き気味になり、下方へ向けて静かに静かに呼吸をする。そうしないと吐いた息が顔で凍りついてしまう。
 アーニャと呼ばれた少女は弓を持ち、矢をつがえている。弦を持つ手はしっかりしているが、矢を固定するのに少し手間取っていて、矢が弓を離れては揺れる。
「あんたって本当に段取りがどんくさいわよね、"アーニャチカ"!」
 ターニャの言葉に、アーニャの灰色の瞳だけが宙を見上げる。ほんの一瞬。
「ごめんなさい、ターニャ。もう少し」
「そのぶん、ちゃんと当てるからまだいいけど……そうだわ、私、昨日占いをしたのよ」
 しゃがむターニャの重心が変わって、雪の軋み声がする。
「どうだったの」
 アーニャは一度矢を弓から完全に離して、もう一度つがえ直す。
「私は五十二年後の雪解けの頃、なにかの事故で死ぬのですって」
 今度もまた矢尻が幾度かぶれるが、しかしようやく一体になった弓と矢がアーニャの両手に収まる。
「なぜそんな占いをしたの、ターニャ」
 アーニャの灰色の瞳は手元を見ている。
「自分の死を知ってるなんてロマンチックだわ。だからよ。準備できたのね?」
「ええ」
「いつもいつも、矢を一本射るのにどれだけ時間がかかるのかしら」
「ごめんなさい」
 それからしばらく、ふたりは言葉を交わさず、身動きもせず、息を殺して、ただじっと待つ。
「あそこよ、アーニャ」
 外気に晒されている皮膚の痛みが限界に近づく頃、藪から顔を覗かせたターニャが、ことさらの小声で雪原の先を指さす。アーニャも静かに膝立ちになり、その先を見る。遠くに野ウサギの影がある。
 アーニャは構える。引き絞る。弓が軋み弦が張り詰める。射る先の一点を灰色の瞳が一足先に射ぬく。次の瞬間には矢が放たれ、空気が裂かれ、ウサギが胴を貫かれて、雪の上を跳ねるように倒れる。
 すべてあっという間で、矢をつがえる前のアーニャと矢をつがえた後のアーニャはまるで別人のようである。
「やった! 本当にあんたって、準備以外はたいしたもんね!」
 ターニャが喜びの声をあげ、藪を飛び出、駆け足でウサギを取りにゆく。
 アーニャも立ち上がり、その後姿を見つめる。
「いつもいつも、あなたの占いは当たらないんだわ」
 アーニャは小さな声で呟き、矢筒から新しく矢を取り出し、弓につがえ、構える。音もなく、よどみなく、ゆるやかなまばたきが一度済む間に。
 そして次のまばたきをするよりも前に、ウサギよりもずっと重い手ごたえを、アーニャは手に入れる。
 矢の突き出た首を押さえ、軋むように天を仰ぐターニャ。雪の中に膝を突くターニャ。射抜かれたウサギすら手にできず倒れ臥すターニャ。
 藪の向こう側へ出ることもなく、その場で静かに踵を返すアーニャ。
「でも、これがきっと事故なのね、"タチヤーナ"」
 アーニャは灰色の瞳だけで宙を見上げる。
 足跡が、雪に残ってゆく。


〈了〉

ターニャ:タチヤーナの愛称形
アーニャ:アンナの愛称形
アーニャチカ:アンナの(幼い子供に呼びかけるような)愛称形



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