私はノートパソコンの前に座って、ビデオチャットの映像を眺める。でも画面内にひとの顔はなく、時折慌ただしく行き来する彼女の膝の辺りが映るだけだ。
『猫背!』
 彼女の膝は細くて綺麗で好きだなぁと、そう思っている最中に彼女の顔がアップで映って叱責の声が飛んでくる。私は慌てて背筋を伸ばす。姿勢のことはいつも注意されている。なかなか直らない。
「ねー、業者さんくるのいつだっけ」
『二時間くらいあと』
 すぐに画面の外に消えてしまった彼女に聞こえるように、大きめの声で語りかける。遠い声が返ってくる。
 二時間後。そのあとはもう、この部屋を背負った彼女と通話をすることもなくなるのか。
『よいしょっ。ちょっと休憩!』
 画面に彼女が戻ってくる。彼女は座るなりボトル飲料を開け、喉を鳴らしてあおる。鎖骨の辺りが波打つのを見る。
「おつかれ」
『はー。お茶ぬるい。おいしくない』
「この季節じゃね……」
『もう冷蔵庫なんて片しちゃってるからねー』
 彼女とはいつもこうしてネットで繋がっている。別にずっと喋ってるわけじゃない。お互い繋ぐだけ繋いで、黙って好きなことをしてる時間が大半だ。気が向けば喋る。同じ空間にいないけどいる。そういう感じ。
「……ハルちゃんが引っ越しちゃったら、もうこうやって通話しなくなるよね」
『まぁそうだろうねえ。でも環境が変わるってのはそういうことでしょ』
「うん……」
 思わずしんみりした声を出してしまった私に、『なんで寂しいのー』と彼女が声を上げて笑う。
「だってさ……寂しくない? ハルちゃんとこういう過ごしかた、もうできなくなるんだよ。寂しいよ」
『いやその感覚はわからん』
 ばっさりやられて、私は眉を下げる。
 私のこの気持ちはやっぱりおかしいのか。
 一緒にいない彼女と、空気を共有する時間。彼女の部屋と私の部屋が小さなパソコンの画面で繋がって、このまま行き来できそうな気がして、でもそれはできなくて。その満たされるような、もどかしいような、曖昧な時間。私はそれが愛しい。
『ってか、なに? 不満なの?』
 彼女との通話の思い出を、孵化する卵を抱えるような気持ちでいつくしんでいた私は、彼女の不機嫌な声で我に返る。
「え」
『ねえ、不満なの? 嫌なの?』
「え、え、違う、違うよ」
『いいってば、本当はヤなんでしょ? 気が進まないんでしょ? あーもーいい、ふーんだ』
 彼女はとても(わざとらしい)拗ねた口調で、だから本気で怒ったわけではないのはわかるけれども確実に拗ねた口調で、パソコンの前から離れてしまう。
「待って、待って、違うの、違うよ、ハルちゃん」
 ごめん、ごめんなさい。私は背中を丸め声を張り上げて謝る。返事は返ってこない。
 こんなときばかりは、彼女がネットの向こうにいるのがもどかしい。
 あとで、あとで手をとって謝ろう。謝れる。
 彼女は今日、画面の向こう側の部屋から、猫背の私の部屋に引っ越してくる。


〈了〉


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