時は江戸、国は大坂、処は新町。
 苦界に住まう、それは狩りびと、狩られびと。


 解けた豊かな黒髪を肩に乗せ、襦袢の襟を掴む女の手は震えている。それは冬の寒さのせいだけではない。
「ほな、身請けはでけん、言うことですな。みな、嘘やった、言うことですな」
「……嘘やぁ、ない。わしは東雲(しののめ)、ほんまにお前に惚れとる。ほんまや。しやけど……」
「聞きとうない、聞きとうあらへん。客に惚れる女郎が阿呆やと、笑ろておったんやろうが。嗚呼、わたいが阿呆やった」
 女は化粧台に飛びついて、一筋閃く剃刀を取った。
「この世はあかんか、あかんのやったら。来世でこそ、わたいはあんたと惚れ合うてみせる」


 小さな部屋の畳の上で足を崩し、指には爪をはめ、女の手は琴を弾く。
 名は常葉(ときわ)。新町の天神(最高位の太夫の次の位の遊女)だ。
「あねさま、あねさま、大変や」
 常葉の部屋に、禿が駆け込んで来る。
「なんや。やかましぞ、夏虫(なつむし)」
「あねさま、東雲太夫が心中しはった。多々良屋の旦那とや」
 常葉は顔色も変えず、しかし爪で、びん、と強く琴を弾いた。
「なんや騒がし思たら、そのせいかいな、このさぶいのに。……阿呆やなぁ。太夫にもなって、あの女。よう客なんぞにうつつ抜かすわ」
「あ、あねさま、せやけど、同輩やったて。わたいらみたいな禿の時分から、姉妹みたいな仲やったて」
「そないなもん、昔の話や。さ、そろそろ仕度せなな。今日は大事な大事な、日野屋の旦那が来よる。よう騙されて、ようカネ運んでくれる大事な大事なな。夏虫、手伝え」
 琴の爪を乱暴に外しながら、常葉はさっと立ち上がる。夏虫は泣き出しそうな顔で、化粧道具を引っ張り出しに行った。

 
 時は移る、季は変わる。日の高い頃には、新町の地面にも陽炎が立つ。夜には暑さもましにはなるが、その分不快に、誰彼構わず纏わりつくようになる。
 皆が汗をかいていた。その狭い部屋で、遣り手も、禿も、何人もの男衆も、それに押さえつけられた男も。傍に転がる、ご法度の刃物さえも。
 ただ、薄い襦袢をまとってすらりと立つ女郎だけが、汗ひとつ滲ませていなかった。
「お、お前の、お前のせいや、常葉ぁ。わしの店はもう、どないもならんようになった、死ぬしかのうなった。お前も道連れじゃ」
 日野屋は、押さえつけられる圧迫感に息を詰まらせながら、それでもそう喚き立てる。
「人聞き悪いなぁ。わたいが、店潰してまでわたいのために使てくれて、言うたか。言わんやろ。おどれが自分で使たんやろが。女郎の愛しい恋しい、信じる阿呆が悪いんやで。死ぬんやったらあんたひとりで、好きに首でも吊ってんか」
 首に掛かる髪をすくい挙げ、手団扇でうなじに風を送りながら常葉は目を伏せた。怯えもしない、しょげもしない、泣きも怒りもしていない。
「おどれ……おどれぇ。お前ら女郎なんぞ人やない、この畜生め、犬畜生め、くたばりさらせぇ」
 恨みの篭る日野屋の声に、ほ、と常葉が笑った。男なら惑わされずにはおれぬ、カネを千両万両差し出さずにはおれぬ、酷く艶やかな笑み顔だった。
「わたいら女郎は、犬より猫やな。ほいと猫に捕まってみ、じわじわ、じわじわ、死ぬまで甚振られてしゃぶり尽くされんど。生半に猫を捕まえてみ、添い遂げんかったら、途端に化けて祟り殺されんど。色町全部猫だらけ。それを知らん男どもが、あっちゃこっちゃで阿呆やらかしよる。ええ勉強でけたの、日野屋。来世でよう活かしぃや」
 常葉は右手をくいと曲げ、にゃあお、と猫の鳴き声を真似てみせた。そして打ちひしがれた男の前で、けたけた、けたけたと、いつまでも笑っていた。


 時は江戸、国は大坂、処は新町。
 苦界に住まうは、何物か。



犬神サーカス団『猫町』より


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