鳴子《なるこ》は憂鬱な気分だった。朝の電車は五分遅れて階段を走って昇り降りしなければならなかったし、執筆途中の修士論文は今日も指導教授から駄目を出されたし、今しがた学食で食べた親子丼は玉ねぎが生煮えだった。
『玉ねぎはよく火を通したほうが美味しいと思う』
 お茶を飲みながら鳴子は携帯を開き、同じ院生で友人の綾《あや》に、そんな唐突なメールを送る。三分も経たずに、『生玉ねぎたっぷりのサラダウマー』と顔文字付きで返事が来た。
 玉ねぎの好みは合わないが、こうやってのってくれる綾のことが鳴子は好きだった。だから、恋人同士だった時期もあった。
 永遠に続く恋愛関係などそうそうないという例に漏れず、些細なことの積み重ねで別れてはしまったが、幸いなことに友人関係は続けられている。
 鳴子が食べ終わった食器を返却し、食堂を出ようとしたところで、片手に持ったままだった携帯が震えた。今度はメールではなかったが、表示される名前は綾のそれだ。
「なに?」
 食堂の入り口脇に退いてから、鳴子は携帯に出る。
『ナルち? 今どこ、食堂?』
「そうだけど。今出たとこだよ」
 電話の声はやはり綾だったが、鳴子が答えると一旦声が遠のいた。少し携帯から離れて、誰かと会話しているような空気が伝わってくる。違う女の子の低い声がかすかにした気がした。
「ちょっと、なに?」
『あー、なんでもないない。ナルちは次、学部の講義出るんでしょ?』
 ぱっと綾の声が耳元に戻ってくる。次の時間は指導教授が担当している講義があるので、鳴子も毎週聴講しているのだ。
「出るよ」
『オッケオッケ、あたしは今日はもう帰るから。次大学来るのは明後日かな。また明後日ねー』
 ああ、うん、と鳴子が腑に落ちないものを感じるまま相槌を打つと、綾からの通話はそれで切れた。
 唇を軽く尖らせ、なによ、とちょっとした悪態を口の中で小さく転がして、鳴子は携帯を鞄に戻しながら校舎への道を歩き始める。
 途中、少し小柄な女の子とすれ違った。昼休みで人通りは多いのにその子が目に付いたのは、見覚えがあったからだ。
 ふわふわのパーマで明るめの茶髪はちょこんとしたシニヨンにまとめられていて、派手ではないものの今風の垢抜けた子だ。しかし別段鳴子の好みのタイプではなく、目を惹かれたことがあるから覚えているのだとも思えない。
 あまりまじまじと見ても妙だろうからと、その子から視線を外して、鳴子は記憶を手繰る。
 おそらく学部の学生だと思うが、学部時代サークルにも入っていなかった鳴子にはあまり後輩らしい後輩もいない。研究室繋がりの学生ならさすがにもっと明確に覚えているだろう。
 あの子の記憶はひどく曖昧なのに、改めて思い返してみるとよく見かける気がする。だから覚えている。聴講している講義で一緒なのだろうか? 大教室での講義で、人数も多いけれど……。
 そんなことを考えながらその大教室に向かう鳴子の少し後ろ。反対方向に歩いていっていたはずのその女の子がいつの間にか方向転換をして、絶妙な距離を保ちながら鳴子の歩く道をなぞって来ていることを、彼女は知らなかった。


 講義が始まる十分ほど前に教室について、鳴子は最前列に座った。時折アシスタント扱いで教授に講義を手伝わされることがあるからだ。
 それとなく教室を見回してみたが、先ほどの姿は見当たらない。既に教室は割合混んでいたし、五分もすると教授がやってきて、後ろを向いて露骨に人探しもしていられなくなった。
 だが実際、その子は鳴子の座る場所から三列ほど斜め後ろを、しっかり陣取っていた。


 九十分の講義が終わり、鳴子は伸びをする。講義を聴くのは苦痛ではないが、長く集中しているのはやはり消耗する。
「先輩」
 ノート類を鞄に戻し、立ち上がったところで背後から呼びかけられた。振り向くと、百分前に探していたまさにその姿が立っていた。
「え……私?」
「えっと……はい」
 少し緊張したように頷くその子は、小柄で可愛らしい外見にしては少し意外な、ややハスキーな声をしていた。しかしそれでいて甘さも含む声質で、そのバランスが妙に魅力的だなと鳴子は思う。エッチの時のこの子の声を聞いてみたいな、と思う程度には、惹かれるものがある。
「なに?」
「あの……わたし、先週の講義休んじゃって。レジュメのプリントがあったみたいなんですけど、この講義友達もいなくて……先輩、余り持ってませんか?」
 プリントの配布があるときは、鳴子がそれを教授のかわりに配布することが多い。というよりも、そういった仕事のために最前列に座っている。
 だからこの学生が鳴子に声を掛けてきたことは別段不自然ではない。だけど、と鳴子は思う。
 だけど、そういえば先週、この子の姿を見かけなかった……? 列の端に座っていて、直接プリントの束を手渡したような気がしない?
 いや、それほど特徴的な見た目の子ではないし、他の誰かと勘違いしているのかも……。
「あの、先輩」
 困った顔のその子が口を開いたことで、鳴子は思わず相手を凝視しながら考え込んでしまっていたことに気付く。
「あ、あぁ、ごめん。プリントどうだったかなと思って。今は持ってないけど、先生の研究室行けばあると思うよ」
「連れて行ってもらえませんか? わたし、高橋先生の研究室、行ったことなくて」
「ん、それはいいけど。私もどうせ行くし。え……と、お名前は? 何さん?」
 鳴子は鞄を肩に掛けながら、机の列から抜け出る。その子もすぐ後についてきて、一緒に教室を出る。
「二年の小田美由《おだみゆ》です」
「小田さんね。ん、二年生? さっきの講義三年向けじゃなかった?」
「でも、興味のある講義なので。聴かせてもらってるんです」
「へー。熱心なんだ。偉いね」
 教室から研究室まで数分掛かる。当たり障りのない質問をしても避けようのない、初対面の(はずだと、鳴子は思う)相手との少し居心地悪い間と戦う数分は長い。
「鳴子先輩は、院で大変ですよね」
「あぁ、まぁねー、修論が今やっぱりしんどくて……あれ、私のこと知ってるの?」
「……高橋先生が、名前を呼んでたときがありましたから」
 鳴子のフルネームは、三浦鳴子だ。教授からは三浦さん、と呼ばれている。下の名前で呼ばれることは、まぁ、ない。
「あったっけ?……あー、もしかして最初のと」
「最初の講義のときに紹介してらっしゃいました」
 鳴子を遮って、美由が言葉を被せる。確かに最初の講義のとき、院生の三浦鳴子さんです、とかなんとか、教授が紹介していたような気もする。
「あ、ああ、うん、そうだった。でもよく覚えてるね」
「はい、覚えてます」
 ここで、「ただ単に人の名前覚えるのが得意なんです」って言ってくれたら、少しはすっきりするのになと、鳴子は妙な違和感を抱え続けながら思った。


 研究室で美由にプリントを渡すと、彼女は丁寧に頭を下げてくれて、しっかりしたその態度には好感が持てた。
 その場は和やかに別れたし、帰りに歩いていた大学構内と帰りの駅のホームの両方で彼女に似た姿を見かけたことも、気のせいか偶然だと鳴子は思うようにした。
 大学なんて広いようで意外と狭いし、同じ顔をよく見かけるなんて、そんなに珍しいことじゃないんだ。
 綾だって、そうやってよく見かけてるうちにどちらからともなく友達になって(自宅近くのコンビニに綾がバイトとして入っていたことが、決定的な交流のきっかけだ。なんて偶然!)、そして私が彼女を好きになって、思い切って告白したくらいなんだから……。


 翌々日、昼休みより一つ前の空き時間。鳴子は綾と学食で落ち合い、美由の話をした。
「普通偶然だよね……ちょっと自分の自意識過剰っぷりに嫌気さした」
 鳴子はまた親子丼だったが、よく火を通してもらうように頼んだので、今日の玉ねぎはしんなりして甘くて美味しかった。
 綾は鳴子の向かいに座り、具体的な返答をせず、オニオンスライスのたっぷり入ったサラダをつついている。
「でもあれじゃない、フラグ立ったんじゃない? 出会いイベント発生、みたいな」
「やめてよ、そういう言い方……」
「ナルちは鈍いんだからさ。色々気付かなきゃ幸せになれるタイプなんだよ」
「なにそれ、どういう意味?」
 綾が妙なにやにや笑いをするので、鳴子は箸を動かす手を止めて、少し身を乗り出す。
「だってあたしのこと好きになったでしょ?」
「え、あ、うん、いや、そう……だったけど……でもそれは別に」
 綾に対する未練があるわけではなかったが、本人から言われると動揺してしまう。鳴子は顔をやや赤くして、コップの水をちびりと飲んだ。
「あたしも同じことしてたのに、気付かずラブってくれたわけだし。その子のこともナルちの方からラブになっちゃうかもよ」
「……いや、そんなことは……え、いや、ちょっと待って、何言ってんの」
「あ、みゆみゆー、みゆみゆー」
 綾が何を言ったのか、わかるようでわからない。わからないようでわかる。妙な汗がじわっと額に滲んだ鳴子は綾を追求しようとするが、綾は突然、鳴子の後方へ向けて片手をひらひらと振った。
 みゆみゆ?
「綾先輩」
 鳴子がぱっと振り向いた先にいた『みゆみゆ』は、もはや予定調和のように、小田美由だった。小柄な身体、ハスキーな甘い声。
「鳴子先輩も、こんにちは」
「こ、こんにちは。……綾、知り合い……なの?」
「うん。友だち。ね」
「はい。綾先輩とは仲良しですよ」
 鳴子が綾に美由の話をしたとき、彼女の名前は出さなかった。なのに美由と鳴子が顔見知りであることを不思議がる様子は綾には微塵もなくて、まるで最初から、話題の人物が美由であることを知っていたかのようですらあった。
「鳴子先輩、隣いいですか?」
「あ……ど、どうぞ」
 美由は律儀に頭を下げてから、鳴子の隣に座る。彼女の持つトレイには、親子丼がのっていた。
 鳴子は美由の親子丼を見下ろしながら、色々と考えることを止めたくなっていた。
「先輩と、おなじもの食べたいですから」
 親子丼に注がれる視線に気付いたらしい美由が、鳴子を見上げて小さく微笑む。一昨日声を掛けてきたときのような、緊張した様子はなくなっていたが、声はやっぱりとても魅力的だったし、その笑顔も意外と可愛かった。
 なるほどなににも気付かなければ、この一場面だけを切り取ってみれば、確かに自分は美由のことをたった今好きになっていたかもしれないな、と鳴子は思う。
「色々気付かなきゃ、幸せになれるって。あたしたちも付き合ってる間、すごく幸せだったじゃん。ね、ナルち」
 じゃあ、気付くと幸せになれないんじゃないか。自分がすごく浅はかなまま、状況に流されかけている気が、鳴子はとてもした。
 無言で食事を進めるしかできなくなっている鳴子の横で、美由は割り箸を割り、親子丼を一口、口に運んだ。
「わたしも」
 ゆっくり噛んで飲み込んで、美由はまた鳴子をじっと見上げた。
「わたしも、玉ねぎはよく火を通したほうが美味しいと思いますよ、鳴子先輩」
 そう言って笑う美由は、ときめくには充分なくらい可愛らしかった。
 ああ、でも「わたし"も"」だなんて、なんで私のそんな細かい好みを知ってるの?
 食べ物の好みが合うのは大事だよね、と綾も向かいで笑っている。
 この共犯者どもを、どちらも可愛いと思っている今の自分の能天気な馬鹿さ加減が、鳴子は一番怖いと思った。


〈了〉


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