「ユナ」がイラストSNSのpixivに登録したあと、初めて見たイラストが彼女のものだった。
 それはただの偶然だ。登録を済ませ、トップページを開き、新着の下段中央にあったサムネイル。シンプルな水彩画風の絵に見えた。その周囲の投稿はどれも知らない作品のファン創作であることが明確だったのもあり、ユナは「032」というタイトルのそのイラストをクリックした。
 サムネイルの段階では少女が目を閉じ眠っている絵に見えていたが、実際に開いてみると睫毛の影が落ちるほど伏せ気味の両目を、しかし確かな意志を含んでこちらに向けて立っている女性の絵だった。水彩画風、ではなく実際にアナログの水彩画であるようだった。とても上手で、とても綺麗だった。少なくともユナにはそう見えた。写実とイラストの中間的な画風、女性の姿は至って現実的で、地味ではあるがおしゃれに無頓着なわけでもないといった風情のシンプルな格好をしている。臙脂色のマフラーを押さえる指先が驚くほど繊細で艶っぽいが、絵の中に性的な誇張は一切感じられない。真っ白だと思っていた背景には淡い淡い薄青のグラデーションが載せてあった。
 ユナは投稿者のプロフィールに飛んだ。名前は「リンネ」とあり、性別「女性」住所「日本」とあった。埋まっていたのはその三項目だけで、そういえば今の絵のキャプションも空白だったなとユナは思った。作品一覧を見てみる。全て同じような水彩画らしきもので埋まっていた。「001」から始まって、今回の新着までぴったり32件だ。
 ユナは投稿を最初から丁寧に追うことにした。全ての絵を原寸サイズで舐めるように見た。かなり大きいサイズでアップしてあり、画用紙の質感をそのまま映す水彩絵の具の凹凸もよく見えた。ユナは絵に詳しいわけではないのではっきりとはわからなかったが、線画はおそらくペンで描いてある。くっきりした黒の線に、ふんわりした水彩の彩り。どれも淡々とした綺麗な女性の絵だった。
 閲覧を終えたユナは、もう一度「032」の絵に戻った。どの絵もすごく綺麗だったけど、やっぱりこの絵が一番好きな気がする、と思った。それはこのたった三時間――投稿をひとつひとつクリックし、原寸サイズを表示し、ためつすがめつして、丁寧に名前をつけながらファイルを保存していたせいで、そのくらいはゆうに経っていた――のなかで生まれた“思い入れ”だ。一目惚れが生み出す、あやふやだが抗えない強い力だ。
 ふわふわした高揚感を抱いて、ユナはその「リンネ」というアカウントをフォローした。


 それから数日、ユナはpixivに入り浸った。綺麗な絵、かわいいイラスト、面白いマンガ、色々なものを見た。好きな作品のファン創作も、思いつくままにあれこれ漁った。好みのものもあればそうでないものもあった。気に入ったアカウントはいくつかフォローもした。それでもやはり、「リンネ」の絵は特別だった。
 ある程度pixivに慣れてから気づいたことだが、「リンネ」の絵はほとんど評価されていない。オリジナルで、アダルト要素もなく、流行りの作風でもない。「リンネ」の描くようなシンプルなただの一枚絵は、pixivでは大抵埋もれてしまう。改めて投稿を見直してみても、評価点数はだいたい10から30といったところだ。0もあったし、高くて50点。「リンネ」自身によって投稿作品に付けられているタグも『創作』『水彩』という簡素な二つだけだ。人目に触れようもない。
 ユナは、そういえば自分は評価を入れていなかったと気づいて、慌てて全てに点数を入れて回った。もちろん全部10点だ。もっと入れたかった。ランキング入りの投稿に『10点じゃ足りない』というタグがついているのをよく見る、まさにそういう気持ちだった。
 ブックマーク機能というものも使ってみようかと、ユナは思った。でも一気に全部ブックマークなんてしたら、なんだかストーカーじみていて気味悪がられるんじゃないかと考えて、やめた。
 「リンネ」の投稿にコメントが付いているのも見たことがない。書いてみようかと思ったが、勇気が出なかった。
 悩んでいるうちに、「リンネ」の新しい投稿があった。033だ。ショートカットのフェミニンな女性が、物憂げに佇んでいる絵だった。ユナはまたその絵をじっくり見て、HDDに保存し、10点を入れた。
 何日かしてからその投稿を再び見てみたが、評価は20点だった。どこかで見た『もっと評価されるべき』というタグをユナは思い出した。まさにそういう気持ちだった。


 ユナは頻繁に「リンネ」の絵を眺めながら、彼女のことを考えるようになっていた。彼女、というが本当に女性かどうかは定かでない。書いてある情報を鵜呑みにしない程度の心構えはユナにもあった。それでも女性であるような気はしていた。女性であればいいなと思うからだった。
「リンネ」の人となりは、まったくわからない。彼女の発信する言葉をひとつも見たことがないのだ。プロフィール欄は名前と性別と日本住まいという情報だけだったし、イラストにコメントもつかないので、それに対する「リンネ」の返信を見ることもない。コメントに返事をするタイプかどうかすらわからない。「リンネ」のフォロー先やマイピク欄も空っぽで、好みや交友関係の情報もゼロだ。
 ユナの中に、「リンネさん」にコンタクトを取ってみたい気持ちが育っていった。仲良くなりたい、とまでは思わない。でもせめて、こんなにも熱心なファンがいるんだと伝えてみたい。もしかしてそれはおこがましいこと? でもだって、作品を発表してる以上、感想を貰えたら嬉しいんじゃないだろうか。感想をコメントしたら喜んでくれないかな? でも感想を歓迎してるなら、もう少し何か、そういうアピールをするかもしれない、それがないってことは……。
 でも、でも、でも、とそうやってぐるぐる何日も考え続けて、ユナはついに「リンネ」の投稿にコメントを書き込んだ。少し悩んで、最初に見た「032」にした。やっぱりこの絵が一番好きなのだ。

「はじめまして。とても素敵な絵ですね。
 マフラーの色と手が特に綺麗で見惚れてしまいます。
 この絵をHDDに保存して、PCの壁紙にしてもいいですか?」

 何度も何度も推敲して、投稿ボタンの上にカーソルを置いた状態で10分ほどまだ悩んでから、ユナはそんなコメントを残した。それからやっと、初めて「リンネ」の絵をブックマークした。
 そしてすぐに「今はじめて見つけたみたいな顔をして書き込んじゃったけど、そもそもとっくにアカウントはフォローしてるじゃない!」と、頭を抱えた。

 それから数日は、生きた心地がしなかった。頻繁にチェックしたが、返事はなかなか来ない。気を悪くしただろうか、気持ち悪がられただろうか。そもそもコメントに返事をくれるひとなのかどうかもわからないし、あまり気にしてちゃだめだ、と自分に言い聞かせながら、ユナはpixivの水色のロゴとのにらめっこを続けた。

 5日ほど経ってユナがpixivを開くと、ページタイトルに見慣れない「(1)」という表記が加わっていた。画面上部にも赤く数字の1が付いている。pixiv内で自分に関連する何かがあったときに表示される通知欄だ。慌ててそれをクリックしてみると、『リンネさんがあなたのコメントに返信しました。』とあった。『ありがとうございます。...』と、省略された冒頭も表示されていた。
 ユナは緊張で心臓に痛みを感じた。モニタの前で顔を伏せてから、意を決してコメントページに飛ぶ。

『>ユナさん
 
 ありがとうございます。
 個人で使用される分にはご自由にどうぞ。』

 それが「リンネさん」からの返信の全てだった。
 その素っ気なさにユナは少しだけがっかりしたが、反面、イメージを壊すような妙なテンションの返事が返って来なかったことに安堵もした。これはまさに「リンネ」からの返事だ。これがリンネさんなんだ。このアカウントの中で他のどこを探しても見ることのできない肉声なんだ。
 なかなか返事を貰えなかったこともあり、嫌がられていたのではないかと思ったが、直後に新しい絵の投稿があったので、用のあるときにしかpixivにアクセスしないひとなのかも知れないと思えて、少し心が軽くなった。あまり考えすぎもよくない。新作も良い絵だった。「もっと評価されるべき」だと思ったし、でもあまり注目されて欲しくない気持ちも、少しだけ生まれてきていた。


 ユナは「リンネ」の新作がアップされるのを毎日心待ちにしながら過ごし、毎回点数を入れて画像をローカルに保存し、ときどきブックマークをして、更にほんのときどきコメントを残した。なるべく丁寧に、しかしくどくなりすぎないように気をつけながら感想を書き込む。迷惑ではないかとそればかり気になるが、それでも我慢はできない。向こうも、早くはなかったが必ず返信をくれた。素っ気ない内容なのは相変わらずで、しかし徐々に少しだけ「リンネさん」そのひとが垣間見える返事も増えた。『背景のグラデーションがすごく綺麗です』という内容に対して、『初めて使うメーカーの絵の具です。わりといいです。』といったふうな。
 一度『スカートの赤い色が綺麗ですね。』と書いたら、『こういう色お好きなんですね。マフラーとか。』と返ってきたことがあり、ユナは喜びのあまり声が喉でひっくり返るかと思ったものだった。
 その頃には「リンネ」のアカウントの投稿数は47件になっていた。ユナはふと最古の「001」と最新の「047」を見比べ、「001」が明らかに稚拙であることに気がついて驚いた。初めて見たときは「001」も他と変わらず上手くて綺麗だと思っていたのに。「リンネ」という「絵師」の上達にも驚いたし、それを認識できるようになっていた自分にも驚いた。そしてどちらも嬉しかった。
 そのとき初めて、ユナは自分も絵を描いてみようかな、と思った。

 しかしそれ以降、「リンネ」の投稿はぱったりと止んでしまった。


 ユナは買い揃えた手頃な値段の透明水彩絵の具と筆とスケッチブックを抱え、「リンネ」の新作を待ち続けた。それまでは五日に一度は投稿があったのに、最新は一ヶ月前の「047」で止まり続けている。
 pixivで「創作 水彩」というワードを検索するのが習慣になる。綺麗な絵がたくさんある。でも「リンネ」の絵に敵うものはないとユナは思う。
 彼女はもしかしたら私のコメントが迷惑で投稿を止めてしまったんだろうか。私が余計なことをしなければ、まだ彼女の絵を変わらず見続けることができたんだろうか。それとも彼女に何かあったんだろうか。
 しばらくユナは夜毎に泣いた。誰のために泣いているのかはわからなかった。
 泣きながら絵も描くようになった。鉛筆で女性の絵を描いてみるが、紙の上には理想とは程遠いものが生み出されるばかりだった。絵の具を溶いてみても、べっちゃりと濁った色が広がるばかりだった。


 ユナの心臓が再び鷲掴みにされたのは、二ヶ月目の夜だった。変わらず眺めていた「創作 水彩」の検索結果のなかでひとつだけ浮かび上がるようなサムネイル。水彩の女性画。ユナは殆ど反射的にクリックした。それは確かに「リンネ」の絵だった。髪の長い、物憂げな微笑みを浮かべる女性の絵。ペンのタッチも塗りのタッチも「リンネ」のそれだ。ひとつ違うのは、女性の足元に水面が、背景に空が広がっていること。それまでの「リンネ」の絵には背景の類は一切なく、グラデーションやせいぜい抽象的な模様が散らされている程度だった。
 プロフィールに飛ぶ。名前は「akmahu」、やはり性別「女性」住所「日本」とある。ただ、自己紹介もある。「転生垢」という三文字だけの。
 間違いない。リンネさんはアカウント変えたんだ。なんで?
 ユナは確信と疑問を同時に抱きながら、しかしさほどのショックはなかった。自分の迷惑行為が原因じゃないかという疑いと心配は薄れたからだ。
 「akmahu」のプロフィール画像は、一枚の絵から一部分だけ切り取った雰囲気のものだった。臙脂色のマフラーを押さえる指先だけが写るアイコン。
 どれだけ見たかわからないほど見た絵だ、すぐにわかるし間違いようもない、「リンネ」の「032」だった。ユナが最初に見た彼女の絵、初めてコメントを残した彼女の絵。ユナが褒めたマフラー、それを「リンネ」も覚えていた臙脂色のマフラー。
 ユナは「akmahu」の投稿作品に戻る。まだ1件しかない。鼻先がつくほどモニタに顔を寄せてその絵を見る。
 透明な、透明な、透明な、涙が出るほど透明な美しい水。きらきらと光って見えるが、ほんのり夕焼けのような赤暗い影が落ちている。どうやったらこんなものを、不透明な紙の上に描き出せるんだろう?
 視線を上へずらして女性の姿も隅々まで追う。久しぶりに見た「リンネ」の絵に、今までとは違う感情が呼び起こされる。どうやったらこんな、滑らかに太さを変える線を引くことができるんだろう? どうやったら骨と肉と美しい皮膚がそこに確かにあることを、こうも伝えることができるんだろう? 感情を映す表情、ただの線と色でどうやってそれを形にできるんだろう?
 一枚絵としての美しさがサムネイルからも伝わりやすいものだったからか、その絵は既に「評価回数9 総合点90」となっていた。9人が入れた10点満点。
 ユナは少しだけ迷ってから、100点目になる評価点を入れた。
 そしてpixiv上でのブックマークやフォローはせずに、「akmahu」のページをブラウザのお気に入りに入れた。


 ユナはパソコンの電源を落とし、スケッチブックを開いた。
 私も絵を描こう。私も絵を描くんだ。
 私は可愛らしい女の子の絵を描こう。スケッチブックに水彩絵の具で。
 形になったらpixivに投稿するんだ。『創作』『水彩』というタグの二つだけをつけて。
 アカウントも変えよう。「『ユナ』『絵を見るのが好きです。ROMです』」と書いたあのアカウントではなく、新しいものをつくろう。私もやるんだ、アカウント転生。
 名前は「032」にしたいな。ストーカーみたいで気持ち悪いかな。
 でもいいよね? そのくらいいいよね? 私が絵を描くのは、あの絵に出会ったからなんだから。
 絵を描こう。たくさん描くんだ。下手でもいい、描いていればきっと少しは上達もするはずだ。
 たくさん描いてたくさん投稿し続けていたら、いつか彼女が私の絵を目にする日がきたりしないかな。
 ろくにpixivにアクセスしてなさそうな彼女が、偶然私の水彩画を見る日がきたりしないかな。
 臙脂色のマフラーの女の子の絵なんか描いたら、その確率がほんのほんのほんの少しだけ上がったりするかもしれない。
 万一彼女が私の絵を見ても、コメントなんて絶対くれないだろう。ブックマークもしてくれないだろう。彼女のブックマーク欄はずっと空だった。
 だけど、もしかしたら、もしかしてって思いながら、評価だけ、そう、7点くらい。入れてくれたりしないかな?



〈了〉


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