暗い森、紆余の道、車軸の雨。
 雨がばたばたと激しく叩く木枝を掻き分け、泥の飛び散る地を踏み荒らす。その影はふたつある。
 影のひとつである黒い着物の女は、尼のような短い髪をしていた。けれどその着物の黒いのは、元から黒いのやら、泥にまみれて黒いのやら、森と空の暗さで黒いのやら、わからない。雨が覆い隠しているものだから、皆目わからない。
 わかるものと言えば、女の手に握られた、十寸はある剣鉈だけだ。きっと研いだばかりに違いないその剣鉈が、女を邪魔する枝を断ち切ってゆく。
 影のもうひとつであるのは、赤い着物の小娘だ。その着物は、はじめから赤いに違いない。けれどあまり美しい赤の色ではなかった。
 娘の背中は曲がっていて、二本の脚で走っているのやら、四本の脚で跳ね回っているのやら、わからない。転げるように木々を掻き分けてゆくものだから、皆目わからない。
 結髪はとうに崩れて、ほとんどほどけたところにかんざしが一本、なんとか絡まりついている。
「いい加減に、待ちや」
 娘を追う女が、雨の音に負けぬよう叫ぶ。娘が足を止めぬまま振り向く。乱れに乱れた髪の間から見えるのは、ぬうとせり出した鼻面だ。額から緩やかに、しかし長く突き出した、獣の顔だ。薄く鈍い黄金色をした狐の顔だ。
 娘は言葉なぞ吐かず、ただ歯を剥き出しにして唸った。唸り声は雨に消されて女までは届かなかったが、その唇の震えで唸っているのだと女にはわかった。娘の赤い着物の裾からは、濡れてすっかり毛の痩せた狐の尾が二本、のぞいていた。
「観念しや、この化け物、尾裂狐《オサキ》なんぞが、図に乗るな」
 女は声を張り上げ続け、二股の尾の化け狐は走りながら右手をぶんと振って太い木の枝を叩き折った。小娘だった物の怪はその枝を握ろうとしたが、鈎状に曲がったままの指では、その獣の手では、握ることができないようだった。
 尾裂狐が、雨音すら裂くような声で鳴く。そして泥を大きくはねさせ、地を引っ掻きながら、女のほうへと向き直る。
 女もまた立ち止まり、その勢いで泥水は顔まで飛び散る。けれどそれも、雨ですぐに薄れて流れていった。
 もはや四つ足になった尾裂狐は身を低く低くして、低く低く唸る。そしてもうひとたび、甲高く鳴く。それはやはりただの獣とは違う、芯から怖気立つような声であり、肌を擽られるような甘やかな声であった。
 女は剣鉈を両手で強く強く握り、強く強く尾裂狐を睨めつける。女は切った張ったのやりかたなど知らなかったが、枝を打ち払い、薪を叩き割ることになら慣れていた。
「わしの心残りは、もうおまえだけじゃ」
 叫ばずとも、少し腹から声を出すだけで届くような間合いになっている。尾裂狐がその言葉を聞いているかはわからなかったが、女はそれでもよかった。これは己のための言葉で、娘と話をするためのものではなかった。交わすための言葉などというものは、そんなものは、未練というものなのだ。
「だから、わしにはもう、なんの苦もない」
 女の頬に張り付く尼のような短い髪を、次から次と雨の雫が伝って落ちる。
 女は尾裂狐に向かって剣鉈を振り上げ、尾裂狐は地を蹴り女に飛び掛かった。
 鉈の刃は尾裂狐の着物の袖を取り、化け物の爪は女の目元から頬を薙ぐ。女の視界を濁す雨水が赤くなる。尾裂狐は唸るために歯を剥き、女は痛みを堪えて歯を食いしばる。
 重く纏わりつく着物の生地から剣鉈を引き抜き、今度は横に振るう。枝のように首が落とせればよいと女は思ったが、化け狐はそれをひらりと上に避けた。女の目の高さに、飛び上がった尾裂狐の足がある。その拍子に飛んだ泥が、女の目に飛び込む。雨水、血の色、泥の闇。
 草履をはいた尾裂狐の足が、女の顔を蹴りつける。女は呻き、尾裂狐の鳴き声にも負けぬほどの大きな水音を立てて地面に倒れる。尾裂狐は仰向けの女に跨がり、獣の顔が裂けるほど大きく口を開け、女の喉元に喰らいつく。
 女は剣鉈を振り回すが、まったくいいようには当たらなかった。雨水で滑ったのやら、力が抜けたのやら、女自身にもわからぬまま、剣鉈は手から離れて落ちる。
 女の喉に狐の牙が食い込み、女は雨音の中、皮膚が破れる音を聞いた。肌を濡らす水が、いっぺんに生温くなる。そうでありながら、身体の芯がいっぺんに冷える。
 剣鉈のことなど早々に放り、女はその両手で尾裂狐の髪を掴んだ。尾裂狐は抗うように頭を揺すり、女の喉はさらに抉られる。それでも女は毟るほどに髪を引き続け、そしてその手が、もはや滑り落ちる寸前だったかんざしに触った。
 なつかしいものだ。とても鮮やかな朱の色をした飾り玉の丸かんざしだ。よいお守りになるようにと、女はこのかんざしを持って何度も神社へ参りに行った。最後にはお百度も踏んだ。そのことを告げて贈ったら、あれはたいそうたいそう喜んでいた。
「……お咲」
 女はうっすらと口を動かし、そのかんざしを抜いて、握る。
 それからまだ辛うじてひとの肌の色を残すその娘の首筋に深く、突き刺した。
 尾裂狐の身体が強張り、止まり、悲鳴を上げて仰け反る。女の上から転がり退いて、この世のものと思えぬ声を発しながら泥の地面をのたうち回る。その音が女には聞こえる。聞くだに辛い断末魔の様相。
 安らかなものなど身のうちに芽生えもせぬことを女は思い知りながら、見えなくなった目を閉じた。
 狐憑きの娘は、逃げ去るでもなく、ただ女の傍で悶え続け、そしてだんだんと静かになっていった。
 女もすべてを聞き届け、感じ届けるように、不思議とゆっくり死んでゆく。
 女がこの世を発つころには、雨もあがっているに違いなかった。


〈了〉


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