〈83年11月同日 W-14ストリート・ロングフェロー診療所・廊下から駐車場〉

 二階の病室を出たビレンは、地下の駐車場へ続く階段へ向かって無言で廊下を進む。
 しばらくは普段通りの歩調で歩いていたが、後ろの足音が少し忙しないことに気づいた。足を止め、上体をわずかに捻り反らして肩越しに振り向く。
「わ」
 するとほとんど駆け足に近い状態でついてきていたヴァレアが、驚いた猫のように身体を跳ねさせて立ち止まった。
 なるほど確かに走る少女の足は速かったが、走ることと歩くことは別だ。彼女のそれはやはり子供の足でしかないのだ。
 性別にしろ体格にしろ自分を基準に考えてはいけないことに、いまさらながらビレンは思い至った(しかも彼はもともと歩くのが速い性質だった)。
 子供に接する経験もろくになければ、そういった気遣いの類も得意でないビレンは、眉を寄せ、こめかみを手首の内側で一度叩く。
 ヴァレアはまだ驚きで心臓が暴れているのか、胸の前で拳を握りながら、強張った顔でビレンを見上げていた。そもそもビレンが立ち止まり振り返っただけで驚いたのも、かなりの緊張を感じたまま彼を追っていたからなのだろう。
「……エレベーターで行くかい」
 少し考えた末、ビレンはそう提案する。しかしヴァレアはふるふると小刻みに首を振った。ビレンは溜息を吐き、少しゆっくりとを心がけながら再び歩き出した。
 その後ろを先ほどよりは余裕を持って、それでもやはり大股の早足でヴァレアがついて行く。


 ビレンは自分たちの車の前へ辿り着くと、後部座席のドアを開けた。ヴァレアが乗り込むのを待つ間、視線は自然と周囲を巡る。
 自分たちが今降りてきた階段の方向、エレベーターに駐車場の出入り口。そういった最低限の警戒は、危険のあるなしの可能性に関わらず、ほとんど無意識に行なわれる。
 彼らはたとえばボディーガードのような仕事もしたし(実際今はこの少女を護衛しているようなものだ)、自分たちが銃を持つ以上、"銃を持たれる"ことも覚悟しなければならないからだ。
 一通り見渡して異常がないことを確認する。しかし同時に、それだけの時間を置いてもなお、少女が車に乗り込んだ気配はなく、自分に視線が注がれていることにも気づく。
 ビレンが視線だけでヴァレアのほうを窺うと、やはり彼女は開いたドアの前でビレンをじっと見上げていた。
「……なにか」
 ビレンは車のドアに手を掛けたまま、改めて少女を見下ろす。少女は慌てたように目をそらし、口をぱくつかせた。
「え、あ、あの、……さ、さっきは……」
 ヴァレアは俯き、言葉を選び出すことに苦心している様子だが、ビレンはワルターのように声をかけて先を促してやることもしなかった。
 無言で見下ろす自分が少女に威圧感を与えていることも彼には分かっていたのだが、だからといって空気を和らげるようにも振舞えないし、そうするつもりもなかった。
 ビレン=ガートランとはそういう人間だった。
「さっきは……その、ごめんなさい」
 それでもヴァレアは自らを奮い立たせたようで、怯えの色は残るもののしっかりとした声で言った。
「さっき?」
「その……だから、……会ったとき、の……」
「あぁ……」
 ビレンは納得したように指先で一度ドアのガラスを叩く。"出会い頭に銃を突きつけ合ったこと"だ。
「気にしなくていい、とは言わない。我々は君に撃たれていたかもしれないし、そうなっていたら我々は――少なくとも私は君を撃っていた。たとえ本当に撃つつもりがなくても、指が掛かっていれば緊張で必要以上に力が入り、引き金を引いてしまう可能性は充分にある」
 ヴァレアは自分の行ないと、そしてぽっかりとあいた穴で死というものを具体化するあの恐ろしい銃口を思い出したのか、震えるように二の腕を握った。
「まぁ、しかし――」
 ビレンはコートごと上着の前を少し開く。少女から取り上げた銃は、彼がそのまま腰のベルトに差していた。敢えてその銃を抜いてみせる。ヴァレアは視覚できるほど明らかに身体をびくつかせたが、ビレンは構わず片手に銃を構えた。もちろん引き金に指は掛けていないし、銃口も天井を向いている。
「君の持っていたこれは、君が持っていた状態では、君にそう簡単に引き金は引けない」
 ビレンの意図的な回りくどい表現に、少女は怯えを湛えたままながらも疑問に眉を下げて彼を見る。
「引き金というのは"重い"んだ。比喩的な意味じゃない、物理的な意味でだ。君の銃は撃鉄《ハンマー》も上がっていなかった。これは撃鉄を起こさなくても撃つことのできる銃だが、その状態で引き金を引くにはかなり力がいる。子供の君の力でとっさに対応するのはあまり簡単なことじゃあない。わかるかい」
 ビレンの問いにヴァレアは難しい顔をした。少し考える間を置いて、自信の足りない様子で頷く。
「そうでなければ、所長だってああ悠長に君から銃を受け取ろうとはしなかったはずだ。相手が違えば、君は銃を持っていながら、なにもできないうちにその相手に殺されていたかもしれない。――なにも知らないなら、銃など持つものじゃない。自分が死ぬだけだ」
 ビレンはそう言って、銃をベルトに戻す。ヴァレアは深くうなだれるように頷いて、ごめんなさい、と先ほどよりも重く口にした。
「わかればいい。さぁ、乗ってくれ。事務所へ行こう」
 顎で軽く車内を示すと、少女はまた小さく頷き、四つんばいに近い姿勢を取りながら乗り込んだ。ビレンは大きく扉を閉め、それから自分も運転席に回る。
 バックミラーで窺うと、ヴァレアは膝を抱えるようにして俯いていた。しょげているのか、反省しているのか、それとも他のなにかを思っているのか、ビレンには判断がつかなかった。
 車にキーを差し込みながら、子供は苦手だ、とビレンは思う。子供を子供として扱うことがうまくできない。
 だがビリーならいくらかましだろう。彼は自分と違って、ひととの関わり方がうまい。
 事務所で留守番をしているはずの相棒のことを考え、ビレンはエンジンをかけた。


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