〈84年1月下旬 W-14ストリート・WBI事務所〉

 ありふれた町のありふれた通りがある。ワルター=バーンズ調査事務所は看板とも言えぬ看板を掲げ、ひっそりとそこに在る。
 三階建てのその建物には今、三人の人間が住んでいた。
 所長であるワルター=バーンズの部下、ビレン=ガートランとビリー=マイヤーの二人は、長くそこの住人だった。
 だが三人目が加わったのは、つい最近の話だ。まだ三月《みつき》も経っていない。

 その夜、ビレンとビリーは裏口から帰宅しようとしていた。ともに出ていたわけではなく、たまたま事務所の傍で顔を合わせたのだ。
「疲れた」
 挨拶のかわりに、ビレンは愛想のない短い言葉を口にする。
「そう見える」
 ビリーはそれに対して、咥え煙草を揺らしながらにやにやと笑う。
 ビレンはその日、警察署へ射撃のインストラクターとして出向いていた。彼はまだ二十五歳で、彼自身が指導を受ける立場にあるときもあるが、それでも技術の未熟な新人警官へ指導をするには充分な腕を持っていた。
 几帳面な彼は基礎をしっかりと身に付けており、妙な我流の癖がなく、その点が警察という組織の新人指導にはうってつけなのだ。
 もっとも、本来ひとと関わることを好まない性質のビレンにとっては、何人もの他人を相手にする指導行為などかなりのストレスを強いられる仕事だ。
 そしてそれを知っているから、ビリーは笑うのだった。
 ビリーのほうがそういったことをそつなくこなすのだが、あいにく彼はひとに指導できるほどには、射撃が上手くなかった(そのかわり、素手やナイフを用いての格闘術ならビレンの射撃と同程度に指導できるし、実際それを行なっていた)。
「ミスター・アーキンが回してくれる、安定した収入源だ。文句は言えんが……」
 ビレンはワルターの旧友である警察署長の名を溜息とともに口にしながら、ズボンのポケットから鍵を取り出す。
 ビリーも当然鍵は持っているはずだったが、こういうとき、面倒くさがりの彼が率先して行動しないことをビレンは知っていた。事実、ビリーはコートのポケットに突っ込んだ両手を動かす気配すらない。
 ビレンが裏口の鍵穴に入れた鍵を回し、ノブを捻る。中から光が漏れ、その幅が広くなってゆく。
「あ、お、おかえりなさい!」
 扉の開きが、二人の姿を収められるだけの広さになるのと重なって、出迎えの声が少し上方から飛んだ。まだ小さな少女の声だ。
 黒い髪を肩まで垂らし、東洋系の面影を持つ少女。ヴァレア=カーク。彼女が、このWBI事務所の新しい住人だった。
 ヴァレアは二階へ続く階段の途中に座って、彼らの帰りを待っていたようだった。建物に暖房は入っているが、場所柄それでも少し寒いのだろう、紺色のダッフルコートを羽織っている。
「……ただいま」
 ビレンは少し間を置いてから、愛想も素っ気もなく答えて中へ入る。
「お前、まだ起きてたのか」
 ヴァレアの姿を見て、上着の内ポケットから取り出した携帯灰皿に煙草を押し込むビリーがビレンの後ろから言う。それから彼も中へ入り、さすがに扉を閉めて鍵を掛けるくらいのことはした。
「う、うん……だって留守番は、したいと思うんだもの。二人ともおつかれさま、えっと、なにか食べるか飲むか、する?」
 ヴァレアは立ち上がってたんたんと跳ぶように階段を下り、どこか遠慮がちな雰囲気も伴いながら、二人のほうへと駆け寄る。
「……いや。私はいい」
 しかしビレンは、軽く一度ヴァレアのほうへ視線を走らせそう答えただけで、彼女とすれ違うように階段へ向かった。
「あ……」
 引き止めることもできず、マフラーを解きながら階段を上っていくビレンの後姿を、ヴァレアは情けない顔で見送る。ビリーも、当たり前の光景を見るような様子半分、呆れたような様子半分に眉を上げた。
 ヴァレアがここへ来てから、クリスマスも新年も過ぎた。その間に、ヴァレアも幾分肩の力を抜いて生活できるようになっていた。
 ヴァレアはワルターを恩人として慕っていたし、普段のワルターは穏やかで人当たりが良いため、関係も良好だった。
 ビリーはヴァレアをよくからかったが、それが逆に幼い少女を打ち解けさせる効果を持った。
 事務方として週に何度かやってくるリサ=ロイドという女性も、明るく子供好きで、なにかとヴァレアを可愛がった。ヴァレアもそれに照れながら、男所帯の中で唯一の大人の女性としてリサを頼りにしていた。
 だがビレンとだけは、当初に開いた距離が縮まらずにいた。なにかと素っ気ないビレンの対応に、ヴァレアはすっかり萎縮してしまっているのだ。
 ビレンの背が見えなくなってから、ヴァレアはしょげたようにビリーを見上げた。
「あいつはああいう奴だ。あとは、お前がびびってるから余計だろ」
 ビリーがヴァレアを見下ろして言う。
「び、びびってるわけじゃないわ」
「嘘は吐くなら上手くなってからだ。あいつだって、なにを向けられてるか解らんほど鈍かねぇってこった」
 ビリーの言葉を否定しきれず、ヴァレアは俯いた。ヴァレアがビレンにある種の怯えを抱いているのは事実だった。
 彼の持つ冷ややかな威圧感や、初めて会ったとき目の前に見た彼の構える銃口、そしてそのとき自らが行なったことへの罪悪感などに。
「……こわがりたいわけじゃ、ないの」
「まぁ、そりゃそうだ」
 ビリーは手の中で弄んでいた携帯灰皿をポケットに戻すかわり、新しい煙草を取り出して一本咥えた。ただし火を付けることはしなかった。
「お前がどうしたいか考えて行動してりゃ、そのうちどうにかなる。良くなるか悪くなるかは知らねぇし、どっちにしろ俺は助けないけどな」
 唇の片端を上げて言うビリーに、ヴァレアが情けなく眉を下げて、いじわると呟く。そういったやりとりは、すでに二人の間にコミュニケーションとして成立していた。
「"決めた"んだろ、ここで暮らすことを? ビレンとの関係をどうにかしたいなら、お前がどうにかするしかない。あいつは周りのお膳立てでどうにかなるような、そんな易しい攻略対象じゃねぇからな。ナバロンの要塞さ」
「ナバロン?」
「映画でも観ろ。おい、そろそろ上がろうぜ」
 ビリーは軽く指を鳴らし、注意を喚起してから階段を上り始めた。ヴァレアも慌ててそれに続く。
「ねえ、ビリーはなにか食べる? 簡単なものなら、わたしがつくるわ」
「俺が作ったほうが旨い」
 ビリーの返しにヴァレアが不服そうに仔猫のような唸り声を上げる。
 だがビリーの料理が実際美味であることをヴァレアは既に知っていたので、しまいには少し嬉しそうに笑いながら、彼の後をついて二階のキッチンへと向かった。


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