〈84年1月同日 W-14ストリート・WBI事務所・キッチン〉

 WBI事務所の二階には、共同のキッチンがある。同じ階にビリーの私室、三階にはビレンの私室があり、その隣は長らく空き部屋だった。そこを、今はヴァレアが使っている。
 コンロの上の鍋をかき混ぜるビリーの横で、ヴァレアはオーブントースターの前に張り付いていた。
 トースターの中では、二枚の分厚いトーストに乗ったベーコンがじりじりと脂の音を立てている。
「ねえ、もういいかしら? まだかな?」
 トースターの熱で火照った頬を片手で押さえながらヴァレアが聞く。ビリーは少し上半身を後ろに反らすようにしてトースターのほうを遠目に覗き込む。
「あぁ、もういいだろ。焦げる。皿に出せ」
「わかった」
 ヴァレアがトーストの熱さに何度も小さな声を上げながら皿に移している間、ビリーも鍋の中身をすくってそれぞれ皿に盛った。煮込まれた野菜の食欲をそそる香りが湯気とともに昇る。
 のんびりとしたビリーの周りをヴァレアがちょこまかと動いて、食卓の準備はあっという間に済んだ。ベーコントーストと野菜スープがそれぞれ二皿、チリソースの掛かったボイルされたソーセージ、そして水の入ったコップが二つ。
 ヴァレアは椅子に座り、コンロの火を消すビリーのほうをそわそわと見る。
「……お前、また飯食ってなかったのか?」
 いかにも腹を空かせた子供めいたその様子に気づいて、ビリーが呆れたように言った。
「え、えっと……二人が帰ってきてからにしようと思って……」
「だから先に食ってろよ。火がなくても食えるもんもあんだから。ガキが晩飯食う時間じゃねぇだろ」
 ビリーは言いながらヴァレアの向かいに腰を下ろす。ヴァレアもある程度料理はできるのだが、やはりひとりきりで事務所にいるときには火を使わないよう取り決めてあった。
「だって、なんだか落ち着かないから……」
 ヴァレアが眉を下げて俯く。彼女はなにかと、外出する彼らの帰りを『待つ』傾向があった。
 それは普通の子供が留守番を寂しがる様子とは少し違っている。ヴァレアは明言しないが、引き金通りのあの一室で両親の帰りを待ち続けた記憶を引きずるがゆえのものだろう。
 ヴァレアは学校にも通っていないため、どうしても事務所か、もしくは兄の入院するロングフェロー診療所(ヴァレアの兄であるリードが入院してからもう二ヶ月以上経っていて、彼も随分回復はしていたが、まだ退院には至っていなかった)で過ごすことになる。
 診療所にいる間は、リードはもちろんのこと、温和な人柄の医師ロバートや数人の看護婦たちの存在がある。彼らは必ずそこにいる存在である。
 しかしこのWBI事務所に関してはそうもいかない。彼らが揃って仕事で外出してしまうことも往々にしてある。
 ワルターたちもなるべくヴァレアをひとりにしないようにはしていた。特に世話好きのリサなどはヴァレアのために事務所に顔を出す機会や留まる時間を増やしてもいる。しかし彼女はもともと週に数日しかやって来ない。実際のところ彼女は研究職に就いている人間で、この事務所にだけ関わっていることができないのだ。
 だからどうしても今日のように、ヴァレアがひとりきりで誰かの帰りを待たねばならない場合が出てきてしまうのである。
「まぁ、腹が減ってんのを我慢できるならそれでいいがね。帰ってきて腹減りで倒れてたら指を差して笑ってやるさ」
 そのことを認識したうえで、ビリーは敢えてそういった物言いしかしなかった。別段謝罪は口にしない。ヴァレアがひとりで過ごすことによって心細い思いをするとしても、それはビリーが謝意を感じるべき事柄ではないからだ。彼はそんな割り切り方をする人間だった。おまけに彼らの国には(正確には彼らの国の大半の州には)、幼い子どもだけを家に置くことを禁じる法律もない。
「だ、だいじょうぶだよ」
 ヴァレアもそういった対応がかえって居心地よいのだろう、少し恥ずかしそうにするだけだ。彼らには彼らの仕事があることを、ヴァレアは理解していた。違う見方をすれば、そういった理屈を超えて感情に訴えることができるほどには、彼らはまだ気安い存在ではなかった。
「本当かねぇ」とビリーはからかうようににやつきながら、フォークでソーセージを刺して口へ運ぶ。少し甘みの強いチリソースがソーセージと合った。
 ビリーは無神論者ではなかったが、食事の前に祈る習慣はない。
 いっぽうのヴァレアは、両手を組み合わせ目を伏せて、「ありがとう、感謝します」と口にする。それは神への言葉とは少し違っていて、自分たちの家の習慣だったと彼女は説明したことがあった。カーク一家は信仰は特別持っていなかった様子だが、その言葉は自給自足の暮らしをする人間(彼らはあまり商売をせず、自分たちが食べて暮らしていくことに重点を置いた農耕酪農をしていたらしかった)特有の食物に対する感謝の考えの表れなのだろう。
「ビリーって、なんでこんなにお料理上手なの?」
 感謝を終え、野菜スープに入ったたっぷりの甘いキャベツを口に押し込んでから、ヴァレアが改めて感動したように言った。
「あ?」
 ビリーがベーコントーストをかじる手を止め、目を輝かせているヴァレアを見る。
「お料理どこかで習ったの?」
「あぁ……まぁ習ったようなもんか」
「お母さんに教えてもらったの?」
「違う。最初の女がレストランのコックだった」
「おんな……えっと、こ、恋人ってこと?」
「おい、なに照れてんだ、このエロガキ」
 赤くなったヴァレアの額を、腕を伸ばしたビリーが一度指で弾く。ヴァレアは小さく悲鳴を上げて額を押さえた。
「わ、わたしそんなのじゃないわ」
 ビリーはその否定をまるで聞いていないという素振りで、トーストを大きくかじりながら話を続ける。
「まぁ、レストランって言ったって場末の三流だったけどな。それでも素人よりゃ、ずっとコツでもなんでも知ってるもんだ。仕事以外でまで料理なんかしたくない、でもまずいものは食いたくない。だから俺を仕込んだわけさ。俺も料理はよくしてたし、助かったと言えば助かったな」
 熱いトーストを平らげて、ビリーもスープをスプーンですくう。キャベツに玉ねぎ、ニンジン、ジャガイモなど、大きく切ったありふれた野菜がたっぷり入っている。
「野菜のスープが、いつも最高においしいわ」
「お袋の好物でよく作ってたからな。慣れだ」
「ふうん……?」
 ヴァレアがわずかに不思議そうな面持ちで首を傾げた。ビリーの物言いがどこか引っかかるのに、明確に疑問として形にならない、そんな様子だ。
「肉類を入れても旨いが、まぁこれは野菜だけのほうがいい」
 だからビリーがそれとなく話題をそらしたことにも、ヴァレアは気が付かなかった。
「うん、野菜の味がすてきだわ」
「けどお前、家で野菜なんかも作ってたんなら、この辺のマーケットで手に入るもんなんてたいして旨くねぇだろ。俺は街育ちで、特別新鮮な素材ってのがそもそも縁遠いからな、どこまで違うのか知らんが」
「うぅん……それは、そうだけど。でもお料理としておいしいと思うわ」
 ヴァレアはまた首を傾げながら、そう口にする。ビリーはヴァレアがおそらく意図的に自分の家庭の料理の話を避けていることに気が付いたが、なにも言わなかった。
「まぁ、旨けりゃそれでいい。実際お前は旨そうに食うしな。食わせ甲斐もある。ビレンの奴は駄目だ」
「……駄目、かどうかはわからないけど。でも、そうね」
 スプーンを半ば咥えたまま、ヴァレアが同意して呟く。無味乾燥なビレンの食事の様子を思い出しているようだった。
「あいつはものを食うことに、エネルギー補給以外の意味を見出せねぇんだ。仕方ない。あれでも昔よりはよっぽどマシになった」
「そうなんだ……」
 ヴァレアの食事の手が止まる。ビレンの話題になったからだろう。
「所長が、俺たちと飯を食うことをしてくれ始めた頃からな」
 ワルターは、クリスマスや新年といった日をビレンやビリーと過ごす。彼は独身だが、両親は高齢ながらもまだ健在だ。にも関わらず、ワルターはビレンたちといて、ともに食事をすることを優先的に選ぶ(もちろん両親と過ごす時間も作ってはいる)。
 それは彼ら三人が、上司と部下であるという関係を離れれば、家族のような結びつきを持っているという証だ。ワルターにとって二人は自分の息子同然であり、二人もワルターを『父親』として深く敬愛していた。実の"それ"よりも。
 そして昨年からは、ヴァレアもそういった特別な食事に同席するようになった。その温かで穏やかな時間を思い返し、ヴァレアは幸せそうな、それでいて切なげな表情を見せた。
「それにあいつはあれだ、食い物がまずいお国柄もあるんだろうがな」
「お国柄?」
「知らなかったのか? あいつの生まれは海の向こうの老大国だぜ」
「この国のひとかと思ってた……」
 ヴァレアが目を丸くする。ついでに思い出したように冷めかけたトーストを取り上げ、かじりつく。
「発音が違うだろ。あの独特のお堅い喋り方はあっちの人間だろうが。直す気ねぇんだよ、あいつ」
「だ、だって、あんまりそういうのわからないから……」
「今後はそういうことも判るようになれ。必要なことだ。にしても俺も仕事で行ったことがあるが、なんであの国はああも食い物がまずいんだ? どこで食ってもろくなもんじゃない」
「そんなにひどいの?」
「ひどいね。まぁ食い物屋のレベルは、この国もたいしたもんじゃねぇが」
 ヴァレアはあれこれと想像する様子で、ざくざくとトーストをかじる。噛み切りそこねたベーコンが垂れそうになるのを、慌ててパンで受けて口の中に入れた。
「……ビレンにも、いろいろ……お話、聞きたいな」
 時間を掛けて咀嚼し、飲み込んでから、呟くようにヴァレアが言った。
「聞いてみりゃいい。向こうが話すかどうかはわからんが」
 コップの水をあおりながら、ビリーが言う。ヴァレアは少し言葉を詰まらせるが、それでも小さく頷いた。
「仕事中は、だめだし……部屋に行ったらやっぱり迷惑かなぁ……」
 残ったトーストの耳をもぐもぐやりながら、ヴァレアは軽く足を揺らす。ビリーもヴァレアのそれは答えを求めているものでないことがわかっていたので、口を挟むことはしなかった。
「なんかね、いつも自分の部屋に戻ったりするときにおもうの。すぐ隣の部屋にビレンがいるのに、挨拶もできなくて、さみしいなって。こわくなっちゃう自分が情けないなっておもうから……そうおもうのに、でもやっぱりだめなの。好かれてないのわかってるから、迷惑なのわかるし……でも、やっぱりもっとちゃんと謝って許してもらいたいし、仲良くしたいの」
「俺からはなんとも言えんな」
 食事を終えたビリーは、また上着のポケットから煙草を取り出して一本咥えた。彼は咥え煙草がトレードマークになりうるほど、よく煙草を咥えているが、それに火を付けていないことも間々ある。要は煙草の香りとフィルターの感触を楽しんでいるのだ。もっともヘビースモーカーであることは確かで、事実今はライターを取り出し、手の中でそれを弄んでいた。
「吸っていいよ」
「……いや」
 気付いたヴァレアが申し訳なさそうに言うが、ビリーは首を振った。ライターを出したのは無意識だったらしく、いささか惜しそうにそのままポケットに戻す。彼はまだ子供であるヴァレアの前ではあまり煙草を吸わなかった。
「あぁ、そういや」
 おそらくはヴァレアが気に病む間を与えないために、ビリーは思いついたように切り出す。
「なぁに?」
「ビレンの誕生日が、もうじきだな」
「誕生日! いつ?」
「今月のちょうど終わりだ」
 身を乗り出すヴァレアに、ビリーが壁に掛かったカレンダーを遠目に見ながら答える。
「例によって、所長と揃って飯を食うだけだが」
「な、なにかお祝い……お祝いしたいわ」
「すりゃあいい。あいつはそういうの大嫌いだけどな」
 その言葉に、ヴァレアが喉で引っかかったような声を漏らす。
「で、でも……」
「お誕生日おめでとう、なんて言葉と一緒にプレゼント差し出したりした日には、奴はまず間違いなく嫌な顔をする。賭けてもいい。まぁしかし、話しに行くきっかけくらいにゃなるんじゃねぇか」
 ヴァレアは一瞬ぽかんとした顔をして、それから何度も深く大きく頷いた。
 ビリーはその様子に鼻から息を抜いて小さく笑う。皮肉めいた笑いだったが、嘲りの色はない。ビリーの笑い方は大抵そうだった。
 それから彼は立ち上がり、テーブルの上の空になった皿を流し台へ運び始める。
「わたし! わたしがやる!」
 それを見たヴァレアは慌てて椅子から飛び降り、両腕を振るジェスチャーで主張した。
「あぁ、なら頼むわ。俺はもう寝る」
「うん!」
 ヴァレアの申し出をビリーは受け取り、流しで手だけを洗った。そしてすれ違いざまにヴァレアの肩を叩いておやすみと挨拶をし、キッチンを出てゆく。
「ビリー、ありがとう!」
 その背に嬉しげな様子でヴァレアが言葉を投げる。ビリーは振り返らず片手をひらひらと振るだけでそれに答え、自室のほうへと消えた。
 ヴァレアはしばらくビリーの部屋のほうを眺めてから後片付けを始める。
 その表情は期待と不安がない交ぜになった、高揚した子供の笑みだった。


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