〈84年1月30日夜 W-14ストリート・WBI事務所・ビレン=ガートランの私室〉

 日は落ちていても、まだ眠るには早い時間。ビレンは自室の机で本を読んでいた。
 読書に耽る、というほど熱心なものではない。実利を重んじる彼はノンフィクションや実用書の類を好む。小説も読むが、教養のために知識として取り込む、という意味合いが強かった。どちらにしろ必要があるからページをめくるだけの話だ。ビレンはあまり情緒的な人物ではなかった。
 多くの人々にとって重要な、人類の財産である芸術というものを否定はしなかったが、自分自身の精神にとっては特別必要なものではない、と考える性質なのである。
 彼は感情の起伏に乏しい――正確に言えば、ひとに親しみを感じさせうる感情に乏しい。喜びは他者の気分をも明るくさせ、悲しみはその種類によりシンパシーを呼ぶ。だがビレンは基本的にそういったものを持ち合わせていない。それでいてプライベートでは、怒りや不快感を、人並みか、ときにはそれ以上にあらわにすることもある。要は非常に付き合い辛い類の人間だ。
 もっともビレン自身ひとと付き合うことを好まないのだから、自分のそういった性格について苦悩するようなことはなかった。
 生涯変わらぬであろうほんの数人の友人(つまりはワルターやビリーであり、彼らのようなある種の盟友的関係でこそないがリサも気の置けない親友と言える)がいればそれで充分であると思っていた。
 だから、いくら同じ建物に住む人間が増えたからと言って、その友人まで増やすつもりはビレンにはまるでなかったのだ。
 自分から歩み寄ることはもちろん、受け入れることも、別段しないつもりだった。

「いま……その、えっと……いい、かな?」
 ノックの音で読書を中断することになったビレンは、中途半端に開いた扉から遠慮がちに覗く少女の顔を振り向き見ていた。
 受け入れるつもりのないその存在を。
「構わないよ、どうぞ」
 一瞬、訪問を断ろうかという考えがビレンに浮かんだが、過剰に邪険に扱う必要もないと思い直した。
 抑揚のない声で答えながら手元に視線を戻し、本にしおりを挟んで閉じる。
「あ、ありがとう」
 緊張と安堵を含んだ声でヴァレアは答え、部屋の中へと入ってくる。扉を閉めるべきかどうか悩むようにビレンのほうを見たが、ビレンがなにも言わないので結局閉めることにしたらしかった。
「見ての通り、お客を迎えられる部屋ではなくてね。そこで悪いが、座ってくれ」
 ビレンはヴァレアのほうへ椅子の向きを変えて座り直しながら、傍にあるベッドを指差す。ビレンの部屋には、ソファや余分な椅子など来客に対応する家具の類がない。もっともそれに関しては、ビリーやヴァレアの部屋も似たようなものだ。あまり広い造りではないし、事務所と建物を同じくするため、プライベートな客を部屋に招くことはまずしないのである。
 ヴァレアは初めてきちんと足を踏み入れたビレンの部屋を見回したくなる衝動と闘っているようで、視線をいずこかへ動かしかけては止めながら頷いた。早足でベッドに近づき、緊張した面持ちで腰を下ろす。安物のパイプベッドには、きちんと黒いカバーが掛けてあった。
「……それで、なにか用件が?」
 揃えた膝の上に手を乗せ、いささか固まった様子のままのヴァレアを見て、ビレンは自分から話を向ける。ヴァレアは慌てたふうに顔を上げ、言葉を探して二言三言意味のない声を発し、それから深く深呼吸をした。
「よ、用件っていうか……その……あ、明日、誕生日だって聞いたから」
「……明日なら、食事は下のキッチンだよ。ビリーが作るらしいからね。所長も同席する。時間は仕事が片付いてからだから、正確に何時とは言えないな」
 ビレンは身体を半ば机のほうへ戻し、閉じた本の上に片手を乗せた。話を切り上げそうな彼の様子に、ヴァレアが腰を浮かせる。
「ち、違うの、そうじゃなくて! そういうことじゃ、なくて……」
「言いたいことは、簡潔に言ってもらえると助かる」
 ヴァレアが惑い、言葉を探す焦りが、ワンピースの上に着たセーターの裾を引っ張る拳の震えに表れている。それでもビレンは眉ひとつ動かさず、いよいよ机に向き直り再び本を開こうとした。
「仲良くしたいの!」
 ヴァレアの叫びに、ビレンの手が止まる。さすがにいささか面食らい、ビレンは少女のほうへ顔を向けた。
 ヴァレアも簡潔に口にしたはいいものの、後が続かない苦しみと、単純な恥ずかしさが襲ったようで、わずかに俯けた顔を赤くしていた。
「え、ええと……だから、その。な、仲良くしたいから……さきに、誕生日おめでとうって、言いにきた、の」
 既にすっかりベッドから立ち上がってしまっているヴァレアが、相変わらずたどたどしく言葉を補う。ビレンは無言のまま、首の向きをヴァレアのほうから正面へ戻した。
 その沈黙を、不興を買ったゆえのものだとヴァレアは解釈したらしく、唇を噛んで眉を下げる。
 しかし実のところ、ビレンはただ反応に困っていただけだった。
 無音の時が少し流れ、ビレンは不意に前髪に指を通して苛立たしげにかき混ぜた。その動きにヴァレアがびくりとする。少女は泣き出しそうになるのを堪えているようだった。
 ビレンは視界の端でその様子を見てから、大きく溜息を吐き、そして口を開く。
「……大抵、偏屈扱いされるが。私は誕生日というのが嫌いでね。あれをなにかと派手に祝う人間の気が知れない。幸いにも今の私の周りには、私のそういった考えを理解して尊重してくれる人間が揃っているから、煩わしい思いもしなくて済むんだが」
「ビ、ビリーから、聞いた、わ」
 ヴァレアの言葉が詰まる。これまでのような動揺が生んだものではなく、泣くことを必死で堪えているがゆえの途切れ方だ。それはビレンにもわかった。
「明日も、ただ普段とたいして変わらない食事を、揃ってするというだけのことだ。本来ならそれも必要とは思わないが、その辺りは昔ワルター……所長と話し合って決めた。だから無下にはしない。それだけだ」
「嫌がる、って、聞いた、から、プ、プレゼントも、持ってこなかった」
 いつしゃくりあげながら泣き出してもおかしくない様子で、それでも無理矢理にそれを抑え込みながらヴァレアが言う。
 子供にしてはなかなかの精神力だとビレンは思ったが、「それはありがたい」と皮肉の色すら含まない平坦な声で返すだけだった。
 彼の中にもまた、静かな戸惑いがたゆたっていたからだ。
「でも、だ、だけど、お祝い、嫌がるって聞いてたけど、でも、だって」
 ヴァレアの言葉はいよいよ支離滅裂に近づいて、顔の筋肉は緊張し、眉間の皺は深くなる。
「……泣かないでもらえると、助かるんだが」
 ビレンは少し身体を沈めるように椅子の背もたれに重心を移し、開くわけではない本を手慰みに片手で弄る。
「泣いてない! 泣か、ない……泣い、たら、ビレンに、もっと嫌がられる、もの……っ」
 ヴァレアの主張は危ういところで事実を保っていた。彼女は確かに、泣いてはいなかった。
「それは、確かにそうだが」
「泣かない、から、絶対泣かないから! 嫌がること、今日のお祝いだけに、する、から。だか、だから……わたしと、おはなし、して、ください。今日だけじゃなくて、これからさき、も」
 少女を見ていないビレンの瞳がわずかに揺らぐ。不快感ではない、純粋な困惑が、内から外へと漏れ始める。
「わたしも、ビレンのこと、こわがってばっかりで、す、すご、すごく、失礼で……。あの日の、あの日のことだって、もっとたくさん、あやまらせて、ください。わかりもしない、のに、銃なんて、振り回して、ごめ、ごめん、なさい。あんな真似、して、ごめんなさ、い。わたし、ほんとうに、ひどいこと、して……考えれば、考えるほど、ひどいこと、して、……引き金、引けないって、ビレンは言ったけど、でももしかしたらワルターやビレンのこと撃っちゃってたかもしれなくて! 考えたら、ほんとうにこわ、くて……ビレンが、おこるのだって、あたりまえで……」
「……別に、怒っていないよ」
 本のページを大雑把に落とすようにめくる、ばらばらという重い音を立てながら、ビレンはそう答える。それが精一杯だったからだ。
「……おこって、ない? わ、わたしの、こと、ゆるして、くれます、か」
「怒っていないのだから、許すも許さないもない」
 ビレンは腰を一度浮かせて座りなおし、低くなっていた姿勢を元に戻す。
「あ、ありが、……」
 感謝の言葉を口にしかけた辺りで、ついにヴァレアは低く唸るような声とともに、その場にうずくまってしまう。膝を抱え、顔を埋めて小さくなる。それでも「泣いてないから」とくぐもった声で繰り返した。
 ビレンは軽く額を押さえ、その姿を見下ろす。だがヴァレアはすぐに顔を上げ、ビレンは少しばかり驚いて身を引いた。
 ヴァレアはやはり、辛うじて涙を流していなかった。そのままなにか言葉を発しようとしたが、涙声になってしまいそうなのを危惧したのだろうか。立ち上がり、乱暴に目元を袖で擦った。やはり涙は少し滲んでいたようで、慌ててわざと喉を鳴らし、勢い良く空気を飲み込む。そうするとようやく、感情が少し沈静したようだった。
「……ゆるして、もらえるなら。これからはもっと、おはなししたいの。ずっとそう思ってたのに、部屋だって隣なのに、あいさつもできない自分が情けなくて、いやだったの。でも、もう、こ、こわがらないから。迷惑かもしれないけど、でも、すごく迷惑になるくらい話しかけたり、部屋に来たりはしないわ! だけど、今より、もうちょっと……仲良く、してほしいの。それだけなの」
 少女の声は切実なものだった。実際は、彼女は彼女自身の欲することを、そのままビレンに要求しているにすぎなかった。
 それでもなぜか、ビレンはそれを不快には思わなかった。完全に心動かされ、ただちにヴァレアに対して好意的な感情を抱くわけではけっしてない。
 だが、ヴァレアの求めが、ビレンに微弱な影響を与えたことは確かだった。
 この感覚には覚えがある、とビレンは思った。これはおそらくきっかけだ、とも。誰かを受け入れる予兆。
「……話すことがない」
 ビレンは机の上の本を少し奥へ押しやりながら、呟くように言った。その言葉にまたヴァレアの表情が少し強張る。
「いや、違う、そういう意味じゃない。なにを話していいのかわからない、ということだよ」
 それを見たビレンは、肘をつき、こめかみを手のひらで押さえながらヴァレアのほうを見る。わずかに慌ててしまった自分を自覚し、彼はそのことを少し苦々しく思った。
「……えっと」
 ビレンの返答にヴァレアは安堵の息を吐いたが、同時に困ったような顔もした。ヴァレア自身も、さほど会話が得意なほうではないのだ。
「あ、それなら! それなら、えっと、勉強、教えて。たまにでいいの」
「勉強?」
 ヴァレアの思いつきに、ビレンは少し怪訝な表情をする。
「わたし、今のところ学校も行ってないでしょう? これから先、行くにしても行かないにしても、やらなくちゃいけないと思うの。そうしないと、ワルターの役にだって立てないと思うし……」
 ビレンの両目が、密かに少し鋭く細まった。ワルターの役に立とうという、少女の言葉に。
 ヴァレアがこの事務所へ来た日、ビレンとビリーが感じたことは、確かに事実となりつつあった。"この少女は、やはり自分たちと同じになるのだ"。
 ビレン自身は、ワルターに出会い、彼のために働きたいと思い、そして実際にそうしている現在は、それ以前と比べてとても幸福だった。
 だがこの少女にとっても同じであるかどうかは、ビレンにはまだ判断がつかない。
「それに、ビレンはとっても成績がよかったって、ビリーから聞いたわ」
 ビレンの思惟をよそに、ヴァレアは続けた。だからビレンも、それ以上考えることはやめにした。無意味な思考だと思ったからだ。
「"とっても"、かどうかはわからないね。別に首席を取っていたわけではないし。それに私もハイスクールを中退しているから、どこまで上手く教えられるかはわからないな」
「わたしは、小学校《グレードスクール》に通うような歳よ」
「そうだった」
 ビレンの声が、わずかに――本当にほんのわずかに、笑いを帯びた。ヴァレアの表情が、これまでになく明るくなった。
 喜びを隠そうとしてか、両手で顔の下半分を覆う。
「それじゃあ、なにから教えればいいのかな」
「アルファベットは、このごろもうほとんど覚えられたの」
「……アルファベットも駄目だったのかい?」
 片眉を上げるビレンの問いに、ヴァレアが恥ずかしそうに小さく頷く。
「よ、読むのは結構できてたのよ、でも書くのは、ちょっと……だからリサが、文字の練習の本を買ってきてくれて、それで覚えたわ」
「単語は?」
「やさしいのは、書けるようになってきたけど……」
「なるほど。教え甲斐はありそうだ」
「教えて、くれる?」
「構わないよ」
 その短い答えを聞いて、ヴァレアはひどく嬉しそうに笑った。それから何度もありがとうと口にする。
 ビレンのほうはけっして笑顔ではなかったが、それでもその無表情は、それまでよりも少しだけ、柔らかかった。


 少女は自らの感情に気づいていないし、あるいはそれはまだ存在していないのかもしれない。
 存在していたとしても、ワルターに対する想いともビリーに対する想いとも異なるその感情は、しょせんは自己が確立しきる前の、未成熟な代物だ。
 子供の抱く、不確かで曖昧なものでしかない。
 いっぽうの青年に生まれた感情は、まだ頑なな彼を変えるほどのものではない。彼はあくまで、受け入れへの拒絶を崩しただけだ。
 しかしそれでも、とてもわずかななにかが、確かに存在し始めた。

 芽生えた"それら"は、まだ青く、淡い。


〈2〉84年1月――芽生えたそれはまだ青く、淡い。(了)

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