〈85年6月初め W-14ストリート・WBI事務所・オフィス〉

 ビレンは顎に手を添えて、難しい顔をしていた。時計の秒針の音が耳につき、それが積み重なるほど眉間の皺が深くなってゆく。
 時刻が十七時を過ぎると、ビレンの苛立ちも限界に達する。手慰みに持っていたペンを机に叩きつけるように置いた。リサが少し驚いたように顔を上げ、ビリーはそ知らぬ顔で雑誌をめくっている。
「どうしたの?」
「ヴァレアはいつになったら帰ってくるんだ?」
 椅子を回し、乱暴に立ち上がりながらビレンは言った。その言葉にリサは目を大きくして、壁の時計を見上げた。
「ヴァティったら、まだ帰ってないの?」
「ああ、帰っていないとも。帰ったときはオフィスに顔を出すように言ってある。せめてノックの音でも、ましてや階段を上って行く足音すら聞いたか、君は? お前もだ、ビリー!」
 ビレンはビリーの後ろに立つと、彼の読んでいる雑誌を苛立たしげにひったくった。ビリーは眉を寄せてビレンを見上げたが、特に雑誌を取り返そうとはしなかった。
「俺も知らんね、気配もしなかった」
「アルバイトは――とっくに終わってるわよね。どうしたのかしら? あ、もしかしたら家に来てるのかも」
「いいや、どこに行くにしろ、連絡は入れるはずだ。今までもそうしてきたし、彼女はそういった決まりごとを守る子供"だった"」
 ビレンは取り上げた雑誌をばらばらと乱雑にめくってから(もちろん読むつもりなどまるでなく、ただ苛立ちを紛らわせるための無意識の行動だ)、それを壁際のコーヒーテーブルに放った。
「それが最近はどうだ? なんの断りもなく帰りは遅くなるいっぽうじゃないか。確かに先月辺りから少し遅くなることが続いていたとも。だからといって最近のありさまはなんだ? 彼女はいったい何時間散歩をしている気だ?」
「健康的だな」
 気を散らす対象をなくしたビリーは気のない様子で言った。ビレンが不機嫌の極みといった表情で彼を睨み、その気配を察してビリーは両手を広げ肩をすくめながら顔を真上に向ける。
「だいたい、帰りが遅くなるどころか、無断外泊だって繰り返してたような俺に言われても困る」
「お前とは事情が違うだろう!」
「寄り道にしたって、この辺はたいして遊ぶところもないし……お小遣いだってそんなに持ってないはずよね。なにかあったのかしら?」
 リサが心配顔で眉を下げながらペンを回した。ビリーは咥えていた火のついていない煙草を灰皿に置く。
「いつも時間通りに帰ってきてたのに、今日に限って遅い、ってんなら俺も気にするがね。最近は少々遅いのが当たり前になってる。帰って来たって、別にどうって様子もねぇだろ。なら、帰るのを後回しにするだけのなにかが外にできたのさ。それだけのこった。ガキが仕事先と家をひたすらに往復するだけのほうが不健全だ」
「まぁ、それもそうね。友だちでもできたのかも。それならいいことだわ。遊ぶ場所やなんか、ちょっと心配だけど……。今まで決まった先以外には出ない子だったからあまり気にしてなかったものね、改めてそういう注意をしたり、門限を決めたりするいい機会じゃないかしら」
 ビレンは立ったまま腕組みをして、二人のやり取りを聞いていた。弾くように親指の爪を一度噛む。些細な言葉がひっかかり、ある懸念をビレンの中に生んだ。
 なるほど、ヴァレアに友人ができたのならば、確かにそれは喜ばしいことだろう。彼女はひとと触れ合うべきだとビレンも思っていた。だが、その友人となりうる人物はいったいどこの誰だろうか。比較的内気なヴァレアが、毎日それなりの時間をともに過ごすほど打ち解ける相手だ。
 ビレンは"あのとき"に見た、ヴァレアの強く惹きつけられたような眼差しを思い出す。
 その眼差しの先にあった異国の少女の姿が、ビレンの眼前にまでちらつくようだった。警察から逃げた、あの忌々しい東洋人。
「とにかく、お説教だ。この調子で、際限なく帰りが遅くなられては困る」
「それは賛成するところね。なんなら、あたしがしましょうか?」
 腹立たしい幻影を払うためつま先で自分の椅子を軽く蹴るビレンに、リサがそう申し出た。正式な養子としてではないにしろ、リサは既にヴァレアの兄のリードを引き取っていたから、そうした憎まれ役としての『親』の立場を肩代わりしようと思ったのだろう。
 だがビレンは首を横に振る。リサでは、自分が懸念していることを追及できないからだ。ヴァレアのあの眼差しを知っているのは、ビレンだけだった。
「まぁ、さすがにそう経たないうちに帰ってくるだろ。裏口で待ち構えときゃいいんじゃねぇの」
「ああ、そうしよう。そうするとも」
 椅子のキャスターを滑らせて先ほど取り上げ放られた雑誌へ手を伸ばすビリーに対し、ビレンは自棄になったように早口で答え、そのままオフィスを出て行った。

「なに笑ってるの?」
 扉の閉まる音をバックに、妙ににやついた笑みを浮かべているビリーをリサが見とがめる。
「いや、なに。人生わからんもんだと思ってよ」
 ビリーは椅子に落ち着き、煙草を咥えなおし、膝の上で雑誌を開いた。
「あいつが保護者面なんてするような人間になったのかと思うと、おかしくってしかたないのさ」


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