〈85年6月同日 W-14ストリート・WBI事務所〉

 ヴァレアを探しに出るため身支度を済ませ階下へ下りたビレンを、ドアの開け放された所長室の中からワルターが呼び止めた。電話中のようだったので、ビレンは無言で所長室へ入る。机の上のファクシミリが震える音を立てながらじれったく紙を吐き出していた。徐々に現れる紙面をビレンはじっと見つめ、そして自分の表情が険しくなっていくのを感じた。
「ちょっと待ってくれ」
 ワルターは電話の向こうにそう言って、受信の終わった紙を破り取り、それをビレンに渡した。
「ビレン、お前の会った例の男は、それで間違いないかね?」
 ビレンは受け取った紙を両手で広げ、改めて睨むように見つめる。ファクシミリの印刷のせいで白黒で、しかも潰れがちの不鮮明な写真だったが、それでも人相はわかる。見るだけで嫌悪と怒りが蘇ってくる。あの日会った、少女娼婦の客だった男だ。
「間違いありません。この男です」
 ビレンは感情を抑えながら短く答える。ワルターは頷いて電話に戻った。紙に写っているのは正面からの顔写真だった。外傷はないが目を閉じていて、奇妙に無機質な印象を持つ。見慣れている類の写真だ。つまり、この写真に写る"もの"は死体なのだ。
「ありがとう、また連絡する」
 ニ、三言のやり取りのあと、ワルターは受話器を置いた。
「どういうことですか」
 ビレンがファクシミリの紙を所長の机に置いて尋ねた。
「彼の死体が見つかったのは、つい今日だ。今日の午前」
 ワルターは答えながら椅子に腰を下ろす。
「引き金通りをパトロールしていた警官が見つけた。銃声がして――もちろん珍しいことではないが、駆けつけたらその男が倒れていたそうだ」
「真面目な警官だったようですね」
 大半とはいかないまでも、この一帯にある程度の数いる、賄賂が通用し職務を全うしない警官を皮肉ってビレンが言う。その現状に頭を悩ませる警察署長のエドウィン=アーキン――ネッドと旧友であるワルターは、苦々しい笑いをほんの一瞬浮かべて相槌を打ち、椅子の背もたれに深く沈んだ。
「ほとんど即死だったようだよ。ゴミ捨て場に埋もれるように仰向けに寝転がった体勢で、正面から三発撃ち込まれている」
「抵抗の様子はない?」
「ああ。まだ詳しくはわからないが、おそらく泥酔でもしていたのだろう」
 ビレンはあの男のいかにも酔っ払い然とした様子と、胸のむかつくような酒の臭いを思い出して、眉根をわずかに寄せた。
「撃った人間は?」
「それはもう既に見えなかったと言っていた。報告を信用するならばの話だが」
 ビレンの脳裏に、あの東洋人の娘の姿がまたもよぎる。だが、さすがにあの小柄な子供が銃での殺しまでやるのは現実的でないようにも感じられた。第一彼女は、身体を売ることでカネを得ることができるのだ。わざわざ客を殺すメリットがあるように思えなかった。他に理由がないのならば。
「偶然、でしょうか……もちろん引き金通りで事が起こる確率を考えれば、この男が死んだのは偶然かもしれないが」
 半ば独り言としてビレンが呟く。ワルターも難しい顔をして額に手を当てたまま、それを否定も肯定もしなかった。
「その警官の報告書をこちらにまわしてもらうことは?」
「報告書よりも、直接話を聞くのがいい。せめて電話だな。頼んでおこう。だから先にヴァレアを探しに行ったほうがいい。私はここにいるから、なにかあればすぐに連絡するんだ」
 ワルターの言葉に、ビレンは当初の目的を思い出した。ホンファとその周辺に対する剣呑な疑惑がさらにつのったおかげで、それはいっそう重要なことに思われた。廊下のほうを振り返ると、同じく準備を終えたビリーが人待ち顔で戸口に立ち、こちらを向いて煙草を揺らしている。
「わかりました。申し訳ありません、所長、私の管理不行き届きでご迷惑を」
 ビレンはワルターへ向き直り、そう言って厳しい表情で目を伏せた。ワルターはそれに首を振る。
「お前だけの責任ではないよ。それよりも、ヴァレアを無事に見つけて、"そして色々なことを解決するんだ"。私はね、ビレン。ヴァレアの身が心配なのももちろんだが、まるで自分の子供たちが仲違いをしているようで、それが心苦しい。それは君たち双方に必要なことでもあるが、しかしいつまでもそのままではいけない。わかるね」
「……わかりました、ワルター」
 ワルターは肘掛けの端を両手で掴みながら、ビレンを見上げて言った。ビレンはそれに応えるだけの言葉をなにか告げようと視線を少しさまよわせたが、結局軽く唇を噛んでから、その短い返答とともに重く小さく頷くだけだった。それでもワルターはそれで充分とばかりに一度微笑んでみせてから、再び表情を引き締める。
「よろしい。では行ってくれ。ヴァレアは愚かな子ではないと私も信じているが、いささか世間知らずで、そしてなにより彼女がまだ無力な存在であるのは事実なのだから」
「はい」
 ビレンは一礼し、そして踵を返して所長室を出た。廊下にいたビリーにも話は聞こえていたはずだったが、彼はそれについてはなにも言わなかった。
「手筈はどうする」
 ビレンに先んじて裏口のほうへ歩き出したビリーが言う。
 ヴァレアがホンファに会いに行ったのはまず間違いないだろう。彼女が普段どこに潜伏しているのかを考えれば、それはやはり引き金通りの可能性が高いとビレンは思った。ヴァレアが引き金通りの中にまでは入らないとしても――自棄になったヴァレアがホンファを求めて、あるいはホンファに連れられて引き金通りへ足を踏み入れる光景も、ビレンの頭の中に浮かぶのは確かだったが――彼女たちが会うならその近辺が妥当だと判断した。
「私は南から引き金通りのほうへ行く。お前は反対の方向を頼む」
 裏口のすぐ手前でビリーを追い越し、扉を開けながらビレンは答えた。できることなら、自分がヴァレアを見つけたいと思っていた。


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