〈85年5月同日 W-15ストリート〉

 緩いスピードで、車は引き金通りを進む。ビレンが運転席に、ビリーが助手席に座り、そしてヴァレアが後部座席にいる。
「"付近"つってもな。どこからあたる?」
「人手も少ないし、改めて目撃証言でも集めたほうが効率的かもしれん」
 二人が会話を交わす間、ヴァレアは不安げな面持ちで窓から外を見つめていた。しかし件のアパートメントが前方に見え始めると、きゅっと唇を噛み、前を向く。
「あの」
 口を開き、まとまった言葉を並べようとしたらしかったが、喉が詰まり声が掠れて、呼びかけで区切られる。
「なんだい」
 ビレンが視線を上げ、バックミラー越しにヴァレアを見た。ヴァレアは自分を鼓舞するように膝の上で拳を握る。
「最初に、その……部屋を、見に行っちゃだめ?」
「あん?」
 ビリーが背もたれに肘を乗せながら身体を捻って振り向く。ビレンも無言で両目を鋭く細めた。
「部屋って、お前らが住んでた部屋か」
「うん……。その、どこから見るのでもいいなら、あの部屋からでもいいのかなって、思って……」
 ビレンとビリーは目顔での言葉を交わす。その様子にヴァレアは少し慌てて腰を浮かせる。
「ご、ごめんなさい、お仕事なのはわかってるの! さ、最初じゃなくていいわ、いつでもいいから」
「どうする」
 ビリーが、ハンドルを握るビレンに問う。ビレンは二呼吸ほどの間、思案の沈黙を続けた。
「……"付近"で見つからなければ、どうせあのアパートメントも探るんだ。構わない、行こう」


〈85年5月同日 W-15ストリート・アパートメント〉

 ビリーを車に残し、ビレンはヴァレアを連れて建物の中へと入る。
 そこは相変わらず古びて朽ちかけたアパートメントで、一階の壁は一部が欠けて鉄筋が派手に覗いている箇所もあった。
 ヴァレアは足を止め、階段の上方をじっと見つめた。幼い子供には重過ぎる不安が圧し掛かっていた日々を思い出しているのだろうか、その顔色はあまり良いものではない。
「……行こうか。足元に気をつけて」
 それでも、ビレンは一度目を伏せてから彼女を促す。ヴァレアは微かに頷き、ビレンの後に続くかたちで階段へ向かう。
 だが階段の一段目にも足が掛からぬうちに、二人の動きは止まった。階上から下り来る足音が届いたからだ。
 ビレンは素早く階段の脇へ退き、いつでも抜けるように懐の銃に手を添え、厳しい眼差しで上を窺う。ヴァレアも慌ててビレンの背後に隠れ、おそるおそる顔を覗かせる。
 足音は重く、忍ばせる様子もなく、体重をいちいち踏み出した足に掛けるような、だらしない歩みを感じさせる。
 姿を見せたのは案の定、"いかにも引き金通りの住人らしい"ひとりの男だった。汚れてほつれたブルネットの髪に、何日も着たままであることが容易に想像できる痛んだ服。酒も入っているのか、伸び放題のヒゲを上機嫌に撫でながら下りてくる。
「お、おー、おお。だん、旦那、景気はどうだい。おれぁなんにもやってねぇよ」
 ビレンに気づいた男は、驚きで上半身を仰け反らせながら、ろれつの回らない口調で言う。互いに知らぬ顔ではあったのだが、ビレンが同類でないことは、その身なりから男にも判断できるはずだ。引き金通りの人間にとって、そういった"外"の人間は大抵警戒すべき存在だった。
 後ろ暗いところなどなにもない、と言いたげに両手を肩の位置まで挙げて振りながら、おっかなびっくり距離を縮めてくる。
 ビレンはなにも言葉を返さず、ただじっと男を見据えている。男は卑屈な笑いを浮かべたまま少しおどけたように肩をすくめて、そしてビレンの後ろにいるヴァレアに気が付いた。
「な、なんだ、へへ、なんだ、そういうことか」
 途端に男は、大げさとも言える様子で首を上下に動かす。にたにたとした笑みをビレンに向けた。
「旦那もか、そうか、そうか。よかったよ、へへ」
「……どういうことだ」
 不明瞭な言葉とひどくいやらしい笑いに、ビレンは不快そうに眉を寄せ、ようやく口を開いて言葉を吐き出す。ヴァレアも何事かはわからないなりに、漠然とした怯えを感じた様子で、覗かせていた顔を引っ込める。
「はは、お、おれは野暮じゃあないんだぜ、これでもよぉ。ごゆっくり、へ、へ」
「待て」
 ふらつく足取りで立ち去ろうとする男の二の腕を、ビレンが乱暴に掴む。黒い革の手袋が微かに軋んだ。
「なん、なんだ」
「この辺りで、東洋人を見かけなかったか」
「あん、あんたの後ろにいるじゃないか、へへ」
「この子じゃない、この子は東洋人じゃない。他に――」
「う、上にいるよ、わかったこと聞くなよ」
 ビレンは片眉を上げ、視線だけをわずかの間階上へ向ける。それから男を解放し、外へ向けて顎をしゃくる。
 男は面倒に巻き込まれなかったらしいことに喜ぶ笑みを浮かべると、もう一度ヴァレアのほうを見てから建物の外へ出て行った(あるいは外にいるビリーに捕まり、またなにかあれこれと聞かれる面倒に見舞われるかもしれなかったが)。
 ヴァレアは怯えた眼差しでしばらく立ち去る男の背を見ていたが、その姿も消えると、掴んでいた上着を離しながらビレンを見上げた。
「……よかったの? 今のひとに、案内してもらうとか……」
「……あんな、ほとんど前後不覚に近い状態の人間を連れても邪魔なだけだ。騒がれても困る。部屋数だってそう多くない。それに今の男は、『わかったことを聞くな』と言っていただろう」
 ビレンも上着から手を抜き、再びヴァレアに自分の後ろへつくよう促しながら、階段を上り始める。ヴァレアも素直にそれに続く。
「うん」
「あれを信じるとすれば、"居て当たり前"なんだ。それならば最低でも痕跡は見つけられる。それでもひとまずは充分だ。なにより、あんな男は不愉快極まりない」
 その不機嫌で冷ややかに切り捨てるような口調に、ヴァレアは少し哀しげな顔をした。
 二人は無言で階段を上る。ビレンは二階をまず見渡す。生活のにおいが感じられない荒廃した空間だ。このアパートメントはほとんど無人なのだろう。そのまま三階へ進む。この建物は三階建てだ。そしてヴァレアたちが住んでいたのは最上階である。
 二階と同じように、三階の部屋の並びを見渡し、ビレンの目の動きが止まる。なかほどのドアのひとつがわずかに開いていたからだ。
 そしてビレンの記憶が正しければ、その部屋はまさにカーク一家がいた場所だった。
 確認のためにビレンがヴァレアを見下ろすと、ヴァレアも驚いたように目を見開いていた。ビレンの視線に気づき彼を見上げて、ぎこちなく頷いてみせる。
 行こう、とビレンは唇の動きだけでヴァレアに伝えると、少し姿勢を低くして、ことさら足音を殺し、その部屋に近づく。ヴァレアもそれに倣う。
 扉の脇の壁に背をつけ、中の気配を窺う。そこには確かに人間の存在が感じられた。空き部屋の扉が偶然開いていたというわけではないようだ。
 ビレンは静かに懐から銃を抜く。片手でヴァレアを壁に押し付けるようにして、動かないようにと目顔で伝える。ヴァレアも緊張に身体を強張らせながら頷いた。
 そしてビレンはやおら片足を伸ばすと、革靴の先でドアを素早く蹴り開けた。
 それに反応して、中から短い悲鳴が聞こえる。この国の言葉ではなかった。声は女の声、いや子供の声だった。


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