〈93年2月12日 W-14ストリート・WBI事務所・所長室〉

 ワルターとビリー、そしてヴァレアは朝から所長室に詰めていた。時刻はもう昼を過ぎる。
 ワルターは自分の椅子に、ビリーとヴァレアは来客用のソファに向かい合って座っている。表情は皆、似たように厳しい。部屋の中にはワルターの葉巻とビリーの煙草の煙が濃く漂っていて、慣れていなければむせ返りそうだった。
 ヂュ=ドゥランからの連絡はまだない。二、三度電話は掛かったが、いずれも彼女からのものではなかった。
 ヴァレアは両手で顔を覆い、大きく吐き出しそうになる溜息を堪えながらソファに背中を沈めた。
 所長室の時計は秒針が音を立てずに回る。
 まったくの無音と、一定で刻まれ続ける秒針の音と、どちらに耳を侵されるほうが苦しいだろうかと、ヴァレアは思った。

 時計が十四時をさしてから数分。電話機の呼び出し音で空気が動き、ヴァレアははっとして顔をあげた。待ち遠しくもあり、恐ろしくもあった。
 ワルターは静かな動きで、しかし二度目のコールが鳴り終える前に受話器を取る。ビリーが立ち上がり、ワルターのデスクに近寄った。ヴァレアもそれに続く。
「こちら、ワルター=バーンズ調査事務所」
 ワルターの応対に答えるように、受話器の向こうで微かな女の声がした。ビリーがすかさず電話機に手を伸ばし、ボタンを押してスピーカーに切り替える。
『ワルター=バーンズ?』
「そうだ」
 ワルターも受話器をデスクに置き、両手を組み合わせながら答える。彼の声は重厚だ。
『はじめまして。話をする準備はできているかしら?』
 ワルターが確認するような視線を向けてきたので、ヴァレアは無言で小さく頷いた。スピーカーを通した声は少し違って聞こえるというのに、それは紛れもなくヂュ=ドゥランの声だった。
「私はてっきり、こちらが話を聞くだけなのかと思っていたよ。対話をしてくれるのかね?」
『失礼、それもそうね』
 淡々としたワルターの皮肉に、ヂュ=ドゥランも取って付けたような笑い調子で答えた。
『要求を聞く準備はできている?』
「その前に、私の部下の無事を聞かせてもらいたいな」
『そのことなら、昨日、"あなたの別の部下"に聞かせたはずよ』
 びくりと身体が一瞬震えてしまったことをヴァレアは酷く恥じた。両肘を強く掴む。この程度のことで動揺してしまう。彼女の口から自分の存在が語られただけで。
 だがそれも、今は瑣末な問題だ。
「昨日から状況が変わっていないとも限らないのでね」
『変わっていないわ。でも電話に出せと言われても無理よ。ここにはいないから。というよりも、わたしがそこにいないから。"ファーストコンタクト"だから警戒しているのよ、わたし』
 ヂュ=ドゥランの平坦な口調でのジョークには、その場の誰もくすりともしなかった。ヂュ=ドゥラン本人を含めて。
「なるほど。……それで、そちらの要求は?」
『難しいことじゃないわ』
 わざとらしい友好を作ったヂュ=ドゥランの声が言う。
『見て見ぬふりをすればいいのよ。わたしたちのすべてを、すべてのわたしたちを』
 ワルターの眉が険しさでいっそう歪められた。ビリーも苦りきった表情で電話機を睨んでいる。
「いつまでだね」
 ワルターは組んでいた両手を解き、灰皿から吸いかけの葉巻を取る。
『わたしたちが目的を達成するまで。つまりは、"いつまでも"よ』
「君たちの目的は?」
『説明しなければわからないとでも?』
 いまさらなにをと言わんばかりに、ヂュ=ドゥランが笑う。
「……いいや、結構。つまり君たちが我々の国にとって害悪であるという事実だけが存在すると」
『そのとおり。とてもシンプル。その前提について疑う必要はないわ。それについて議論する必要も。わたしたちは互いを悪とし、互いの正義を振りかざしていればいい』
「……こちらが判断を下すための時間はもらえるのかね」
 ワルターは結局、手にした葉巻を一吸いしただけで、灰皿に強く押し付けた。
『必要なのならあげてもいいわ。一日でいいでしょう』
「構わない」
『それなら明日、同じ時間にまた連絡する。"あなたの別の部下"にも伝えたことだけれど、こちらを下手に探ろうとしないでね。部下を無駄死にさせたいのなら別だけれど』
「わかっている」
『それじゃあ、明日』
 それを最後に、通話はぶつりと唐突なほどに切られた。
 そして少しの間、誰のひとりも、溜息ひとつ吐かなかった。
「一日もいりませんよ、所長」
 最初に言葉を発したのはビリーだった。ワルターは難しい顔で顎に手を当てたまま、返事をしない。
 ビリーはデスクに手をつき、ワルターのほうへ身を乗り出す。
「……あんただってわかってるはずだ。俺たちがなにを望むのか、なんのためにあんたの下にいるのか」
 ビリーの表情は珍しく切迫していて、憤っているようで、そして苦しげですらあった。
「国に忠誠を誓うあんたのために俺たちはいるんだ! あんたの自発的な意志なら従うさ、だが"俺たちのために"あんたがそれを曲げちまったんなら、本末転倒もいいところだ。俺たちの今までの人生を否定する気か? 俺たちはあんたのために生きると言った、それをいまさらガキの戯言だったとなかったことにする気か?」
 ワルターは手を額のほうへずらし、表情を隠す。ビリーが声のトーンを一段階上げた。
「ワルター、あのくそったれアカどもへの答えはノーだ! それでビレンが殺されちまって、だからどうした? 要求をのんだって帰ってくる保障なんざないんだ。身代金と交換して終わりってんじゃねぇんだぜ、あいつらがビレンを無事に帰すメリットがどこにある? どこにもない、最初から全部決まってたんだ。ならこっちの答えだって決まってる。ノーの一言だ!」
 ビリーは吐き出すようにそれだけ言うと、一度深呼吸をし、唇を引き結び、踵を返してオフィスへと戻っていった。
 閉まる扉の音が痛みを含んで響く。ヴァレアはゆっくりと強く目を伏せた。
「君は……君の意見はどうだね、ヴァレア」
 少しの後、ワルターの静かな声が届いて、ヴァレアは目を開ける。彼はまだ片手で表情を隠したままだった。
「……私は」
 久しぶりに出したような気がする声が、喉に絡みついた。煙草の煙のせいだと思いたかった。喉に手を当て、唾液を飲み込む。
「私は……私も、そう、そう思います」
 胸で嫌な動悸がする。額に嫌な汗がにじむ。それでも、これ以外の言葉を口にできないのだ。
「ビレンも、それを望むはずですから」
 ワルターは、そうか、と重い相槌を打って、額から手を退けた。椅子に深く身体を預ける。両目を伏せているのでその瞳の色は見えない。
 大きな両手が肘掛けを緩やかに覆っていて、しかしよく見ると指先には力がこもっている。
「……我々のうち、誰かひとりでも」
 天井を仰ぐような角度で頭を背もたれに沈め、ワルターが言った。淡い自嘲の笑みが浮かんでいた。
「利己心の対象が、自分自身だけであればよかったと思うよ」
 それは現状へのやるせない、そして優しい皮肉と諦めだ。忠誠という枠で作られたアイデンティティに依存し、そしてそれを自覚して生きる、ワルター自身を含んだこの事務所の人間たちへの。
「……私も、そう思います」
 ヴァレアも苦い笑みを微かに浮かべて、同じ言葉での同意を繰り返した。
「そして私だけが、覚悟の足りないまま現状を享受している」
 ワルターがゆっくりとまぶたを上げて言う。眼差しの色は暗かった。
「丸一日、時間が必要な程度には」


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