〈93年2月同日夜 自然光の差し込まない室内〉

 ビレンが認識しているヂュ=ドゥランの仲間は、彼女を除いて四人だった。すべて男で、東洋人はまだ若いのがひとり、中年がひとり。あとは白人だ。食事はほとんど白人のどちらかが運んでくる。
 今ビレンに銃を突きつけているのも、その白人の片割れだった。中肉中背でブルネットのその男は、食事のときにはビレンの手首の拘束を解く。そのかわりに、食べ終わるまでこうして銃を頭に押し当てている。
 少し見ればわかる、粗悪な模造品だ。それでも弾は出る。ビレンは下手に抗うこともせず、寒さと拘束に痺れた手で、安物の缶詰のスープを口に運ぶ。
 銃口は向けられるが、この男のときの食事は随分ましなのだ。もうひとりの男など、拘束を解かずにビレンの頭を床に置いた皿に押し付け、犬のように食べることを強要するのだから。
「お前も明日までだ」
 ビレンがスープを平らげ(正直に言って痛みのせいで食欲などなく、気を抜くと吐いてしまいそうだったが、無理矢理胃に押し込むしかないのだ)、スプーンを空の缶の中に落とすように入れた後、男がぼそぼそとした声で言った。
 無言で、視線だけを一度男に向ける。おそらく事務所と連絡を取ったのだろう。ようやく。明日まで、ということは、まだ交渉の結果は出ていないのかもしれない。
 しかしなんにしろ、"明日まで"だ。結果など関係がないに違いなかった。
 それならもはや、こうして地獄の中で生きながら捕らえられている必要もない。
 ビレンがなにも言わずにいると、男もわずかな戸惑いは見せるものの(作ったような低い声で喋るこの男は、凄みがあるようでいて、どこか気の小ささも感じられる人間だった)、それ以上は言葉を口にせずに、手首を縛る縄を手に取る。
 ビレンはおとなしく両手を後ろにやる。もう何度も繰り返してきた"作業"だ。
 だからこそ慣れゆえに、少しなおざりにもなりうる。
 ビレンが合わせる手首の高さを少しずらしていることにも構わず、男はそのまま縄を巻きつけた。

 男が立ち去っても、ビレンは壁にもたれて静かに座っていた。幸運なタイミングだった。今回の晩餐のパートナーがもうひとりの男だったなら、拘束に隙を作ることはできなかったはずだ。
 手首の位置をずらしておいたおかげで、指を最大限内側に曲げると、指先が縄に触る。
 縄が解けるようには到底思えないが、それでも手探りで縄の結び目を外側に押し、引っかき、その固い戒めを柔くすることを試みる。
 心身を蝕む邪魔な痛みを必死で押しのけながら、焦るな、慎重に、と何度も自分に言い聞かせる。
 少しずつ、根気よく。
 時間はたっぷり一晩あるのだ、と。


〈93年2月13日正午 寝具のある粗末な部屋〉

 ヂュ=ドゥランは手を止めて時計を見た。もう少ししたら、WBI事務所へ電話をするためにここを出なければならない。
 彼らの答えは、イエスだろうか、ノーだろうか。
 もしも――可能性はとても低かったが――答えがイエスだったなら、ヂュ=ドゥラン自身は、あの男を返してやるつもりだった。
 だが仲間はそれに賛成しないだろう。それならそれでいいとも思っていた。あの男が死んだところで、自分自身に不利益はない。
 それに現実的に考えて、ワルター=バーンズは要求をのまないに違いない。それも、それならそれでいい。
 この国に忠実に働く人間をひとり減らす。それで充分だ。
 少しずつ、根気よく。
 『マーマー』は、それが信条だった。実際のところ、ヂュ=ドゥラン本人は革命の志を抱いているわけでもなんでもなかった。生まれたことにすらなっていない自分を生かしてくれた『親』の、その考えに従って、ヂュ=ドゥランは生きているだけだった。
 母親が乳をくれるのではない。乳をくれたら、それが母親だ。
「母親」
 ヂュ=ドゥランは小さく呟き、封筒に文字を綴る作業を再開し、ほどなくしてそれを終える。そしてバッグから、その中に入れるべきものを探って取り出した。
 普段身につけているわけではないが、ずっと保管していたもの。
 少し微笑んで、手のひらに乗せたそれを見る。指紋のことは考えない。差出人として最初から"自分"を記すつもりだった。


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