〈93年2月同日13時47分 建物地下〉

 監禁されていた部屋を出たビレンは、警戒しながら進んだ廊下の一点で立ち止まった。右には上に続く階段があり、左奥からはくぐもった銃声がする。争いの様子ではなく、それでいて何発も繰り返されている。射撃の訓練だろう。いるのはひとりか、ふたりか。それともそれ以上?
 周囲の構造と、独特の静けさから察するに、ここはおそらく地下だろう。部屋に窓がないのも道理だった。だとすれば、出口を求めるなら階段を上るべきだ。
 だがビレンは階段の前を通り過ぎた。武器が必要だと思ったからだ。しかし銃は確かに必要なものだったが、それもまた建前でしかないことを彼は理解していた。
 ビレンは復讐したかったのだ。偽りない欲求を言えば、ひとり残らず皆殺しにしてやりたかった。ヂュ=ドゥランの所属する集団の証人を得るために、できればそれは避けるべきだったが、それでもせめて、あの忌々しい連中を痛めつけてやりたかった。
 だから出口よりも、人間を求める。
 階段横の壁に、小さな凹型の物置スペースがあった。廊下自体が薄暗くてよく見えないが、がらくたが積みあがっている。よもや火器の類などないにしても、素手よりましなものがあるかもしれないと手を伸ばす。あまり派手にひっくりかえすわけにもいかないから、なるべく物音を立てないように探る。
 棒状のものがいくつかあった。大抵ブラシなどの掃除用具であったが、その並びの奥に冷たく硬い手触りのものを見つける。重い金属だ。周囲を崩さないように慎重に抜き取る。
 そして手にしたそれを見て、ビレンは思わず小さく笑った。なんともいえぬおかしさからであり、一種の高揚感からであり、呆れからでもある。
 ビレンの右手に握られたのは、おそらく老朽化でもしてどこかから取りはずされた鉄パイプだった。
「悪くない」
 ほとんど唇の動きだけで呟き、パイプがまとうざらりとした黒い埃を持ち手の部分だけ払う。
 こんな悪趣味なものを他人を傷つけるために握るのは、くだらない喧嘩が恥ずかしげもなくできた少年時代以来だ。
 ビレンはパイプを片手に持ち、廊下を奥に進んだ。目的の部屋に辿り着いて間もなく、中から聞こえていた銃声がぴたりと止む。気付かれたのかと肝を冷やしたが、どうやらそうではないようだった。終わったのだ、おそらく。
 いいことだ、とビレンは思う。人生に必要なものは幸福をもたらす大きな幸運ではなく、状況を打破するための小さな幸運だ。
 その種の幸運に恵まれることは、こういった世界で生きる人間にとって重要な才能のひとつだ。生きた歳月が積み重なれば重なるほど、その才能を持っていることが当たり前になる。
 ビレンは扉の横に張り付いて、耳をそばだてる。内容は聞き取ることができないが、会話を交わしている気配がする。女の声はしない。ヂュ=ドゥランはいないのだろうか。
 それを残念に思い、また、安心もした。そしてそれについて考えることをやめにした。
 自分の握力を確かめるように、力を込めて鉄パイプを両手で握り、中の連中が出てくるのを待った。時折階段のほうにも注意を向けながら、ビレンは気長に待つつもりだった。
 実際は扉はさほどの時間を待たずに開き、それもまた幸運のひとつだったことを彼は知らなかった。
 中から出てきたのは、腰のベルトに銃を差した、もうひとりの白人男だった。この男に対する憎悪は比較的小さかったが、かといって手心を加えようと思うほどでもない。
 廊下の暗さのために、男はすぐにはビレンに気付かなかった。部屋から身体をすべて出してようやく、男ははっとしたように振り向こうとし、その動きがいくらも進まないうちに、ビレンが鉄パイプで男の側頭部を殴打した。鉄が骨に叩きつけられる鈍い音。
 男は喉から叩き出された悲鳴とともに、開いた扉に派手に身体をぶつける。同時に部屋の中から、この国の言葉ではない、しかし驚きや警戒によるものだとわかる声がする。
 ビレンは頭を押さえて崩れ落ちかける男の身体を引っ張り上げ、パイプを握ったままの左腕で羽交い絞めにしながら、男の銃(食事の際にいつも突きつけられていたあの粗悪な銃だ)を抜き取った。そして男の身体を盾にして、部屋の中に銃を向ける。
 室内には、東洋人がひとりいた。若いほうだ。素早く視線を巡らせてみるが、他にひとがいる様子はない。
「おまえ、なにしている!」
 若者は明らかに動揺した様子で叫んだ。今のヂュ=ドゥランや中年男のほうと違って、発音や言葉の選びがほとんど片言だ。その手には銃があったが、もう片方の手にはマガジンが握られていた。訓練を終えて、弾を込めなおしていたのだろう。
「なんでここにいる!」
「私は幸運に恵まれ、お前たちは幸運と人材に恵まれなかったからだ」
 ビレンは男を羽交い絞めしたまま、若者にまっすぐ銃口を向ける。腕の中の男は、頭に一撃を食らったせいと、落ちる寸前まで絞められている首のせいで、息を詰まらせるような声を漏らして空気を手で掻くことしかできずにいる。
 若者は慌ててマガジンを銃に戻し、両手で構えてくる。ビレンは動じなかった。それは自棄の心境であったからでもあるし、若者へのはったりでもあるし、根拠もあった。
 ビレンは若者から視線をはずさないまま、顎で軽く彼の背後を指し示す。
「お前に当てられるのか?」
 射撃の訓練が行なわれていたといっても設備が整っているわけではない。少し離れたところにある的は、板切れで急ごしらえされたような代物だが、幾重にも重なる正確な円はきちんと描かれている。そしてそこに残る訓練の痕跡は、お世辞にも好成績とはいえないものだった。
 若者の顔がにじんだ汗でてらてらと光り、銃口のぶれが視覚できるほどに手が震え始める。冷静さと精神力の不足だ。それが若さゆえのものなのか、彼個人の資質に足らぬものがあるからなのかはビレンにはわからなかった。
「私なら、ここから、この体勢で、真ん中に命中させられる。お前の頭ならそれより近い、大きい。簡単だ。とても。お前はどうだ?」
 多少鎮痛剤が効いてきたとはいえ、ビレンのコンディションは最悪もいいところで、それに手にしている銃もどの程度信頼できるものかわからない。だからこんな言葉はこけおどしに近い。だがビレンには、最低でもこの二人を道連れにする自信だけはあった。
 若者の喉が苦しげに動くのが見えた。引き金に指は掛かっているが、引くことができないようだった。状況を決める覚悟か、もしくは自分の技量に対する自信がないのだろう。ある意味でそれは仕方のないことだ。
「私は具合も機嫌も最悪なんだ。"私と同じ目"に遭わされたいのか? 降伏するか、抵抗するか、さっさと選べ」
 ビレンのその言葉で、若者は雄叫びに近い声をあげた。肘を曲げ、ビレンに向けていた銃口を跳ね上げるように自分に向けた。大きく開けた口に銃身を突き入れ、そして引き金を引いた。弾丸が男の後頭部から血と脳漿とともに飛び出していった。
 すべては一瞬のことだった。

 ビレンは二呼吸ほどの間、床に倒れる死んだ若者を無言で見ていた。絶望して死んだのか、自分たちの秘密を守るために死んだのかはわからない。自分の手で殺したかったと思うべきか、勝手に死んでくれたおかげで証人として生かさずに済んだと思うべきかで少し悩んだが、それは無意味な思索だったのですぐに放棄した。
 いつの間にか腕に掛かる重みが増していたので様子を見ると、白人男は気を失っていた。ビレンは男を離し、床に転がす。重い鉄パイプも捨てた。手持ちの武器は多いに越したことはないが、正直にいって今はできる限り荷物を減らし、身軽でいたかった。銃の一丁が限界だ。なにがあるかわからないからこそ、自分の身体には少しでも余裕が必要だとビレンは思った。
 男のベルトを引き抜いて、両手を後ろで縛る。手首はきちんと揃えておいた。
「なるべく生きておいてくれ。話ができる程度に」
 気絶した男にとってはさして意味のない言葉を、ほとんど独り言に近い調子で言いながら、銃のマガジンを確認し、それからスライドを引いた。薬莢ごと弾丸が排出されたので、改めて的に向けて一発撃ってみる。
 弾は的の真ん中よりもひとつだけ外側に当たった。
 予想したより悪くないとビレンは思い、その銃を片手に部屋を出た。


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