〈93年2月 W-14ストリート・WBI事務所・所長室〉

 ワルターは所長室の椅子に座り、机の上の時計を見ていた。音のしない秒針が何度か回り、長針と短針が約束の時間を示してちょうどに、事務所の玄関が開く気配がする。わずかなやり取りの声が聞こえ、ノックの音がし、そして所長室のドアが開かれる。
「どうぞ」
 落ち着いた声で客人を案内したのは、きっちりとスーツを着込んだヴァレアだ。訪問者が部屋へ入るのを見届けてすぐ、ワルターに目礼をし、静かに下がってドアを閉める。事前にワルターから、もてなしは不要だと聞かされていたからだ。それは望まぬ客を軽んじるためではなく、目の前のこの人物がそれを望まないからだった。
「久しぶりだな」
 帽子を取り、低く抑揚のない声で来訪者が言った。厳しさを表すような深い皺を口元に刻んだ白人の男だった。ワルターと同じ年恰好だが、ワルターの髪が少し白いものが混じり始めた程度であるのに比べ、男のそれはほとんど白髪に近かった。
「ようこそ。ご足労ありがとう、アレック」
 ワルターも立ち上がり、片手を差し出しながら男の傍へ近寄った。男はにこりともせず、握手に応じる。ワルターは男ほど無愛想な様子ではなかったが、しかしそれでもどこか、二人の間には硬い空気が存在していた。
 男はアレクサンダー=ヘイウッドという名で、ワルターのかつての同僚だった。
「掛けてくれ」
 握手をしたまま、ワルターが来客用のソファへ促す。アレックはごく微かな頷きを見せてから握手を解き、帽子をドアの傍らの帽子掛けに預け、コートも脱いで同じく掛けた。
「あれが、君の新しい部下か」
 アレックはソファの前に移動すると、スラックスの膝を軽く摘んでから腰を下ろし、言った。ヴァレアを指していることは明白だった。
「確かにまだ若いが、新しい、というほどの新人ではないよ。よくやってくれる」
 ワルターはコーヒーテーブルを挟んで向かいのソファに座る。
「女性だ」
「そうだ」
 たったひとつの単語だが、そこに様々な意味合い――主に否定的な――の含まれるアレックの言葉に、ワルターが苦笑する。
「アレック。"ひとつの時代"は、とうに終わっている。あいにくと、私はその変化を大きく感じられるようになるまでいなかったがね。捜査局にも少しずつ、女性は増えてきているだろう?」
「不愉快なことにね」
 その返答に、苦笑を消さないまま、ワルターは軽い溜息とともに首を振った。
「まぁいい。君は私に、女性の雇用について意見するか、もしくは愚痴をこぼしに来たのかね、アレック」
「無駄話は好かんよ。本題に入る」
 アレックは依然くすりともせず、持参したアタッシュケースをテーブルに載せた。ロックをはずし、蓋を開けて、一冊のファイルを取り出す。そしてさらにその中から、クリップでまとめられた書類を抜いた。
「これだ」
 テーブルに置かれたそれを、ワルターは無言で手に取る。書類の一番上に、一枚の逮捕写真《マグショット》が挟んである。ワルターはわずかに眉を寄せた。数値を見ると随分小柄なその人物は、ワルターにとっては知らない顔だ。しかし、ひとつの懸念を呼び起こす写真だった。
「この人物が、この辺りに潜伏していると?」
 書類に目を通しながら、ワルターが問う。
「そう。この西の十四番街から、西の十五番街――引き金通りなどと呼ばれている場所――にかけてだ。その可能性が高い」
「なぜ私のところに持ち込むのだね? 犯罪者を狩り出すには、我々はあまりに人数不足だ。それに、国家の敵になりうると判断するなら、君たちが主導権を握るべきだ。最初から」
 ソファの肘掛けに肘をつくアレックの眉間の皺が深くなる。
「この町は、我々が常から注意を払うには"小さすぎる"。ならばこの辺りを把握している者に任せるのが合理的というものだ。それに我々は忙しい。常にだ。必ずしも小物に手を回してはいられない。特に私は定年も近いのでね」
「警察には?」
「警察? 奴らは無能だ」
 険しい目で首を振り、アレックは吐き捨てる。
「ネッドはよくやっている」
「無能な部下を持つということは、つまり自身が無能ということだ。警察に協力を求めるなら、そちらで勝手にやればいい。ワルター、私はお前に手柄をやろうと言うんだぞ」
「それはありがとう」
 苛立つ様子を見せるアレックに、ワルターは苦い笑いで口元を歪めた。アレックは気分を静めるように息を吐き、口を開く。
「心配は必要ない。我々でも、他の方面からその連中のことは探っている。そいつはあくまで、末端のひとりだろうと言うだけだ。それを捕らえたところで、有益な情報を得られるとは限らない」
「つまりは保険だな。その手段として、私たちを使おうというわけかね」
「そうだ」
 なるほど、とワルターは呟き、書類に目を落としたままソファに背を沈めた。
「そもそも、犯罪者であることには間違いない。言っただろう、脱走者だ。まさか野放しにしようとは言うまい、ワルター? お前はそこまで"先進的"か?」
 強い皮肉のこもる言葉に、ワルターは一度まぶたを伏せる。そして開かれた両目には、穏やかな厳しさがあった。
「私は確かに捜査局を離れた。だがアレック、私も君と同じように、この国を愛しているのだよ。それは今も変わらぬ事実だ。国のために、町のために、働くつもりでいる。そうでないなら、こんな事務所など構えはしない。この国に仇なす存在は、排除するとも」
 アレックは鋭く目を細め、しばらくの間ワルターをじっと見つめた。それから、ならいい、と低く呟いた。


 いくつかの情報のやり取りを終え、アレックは事務所から立ち去った。彼を見送って、ワルターはソファの傍へ戻る。置かれた書類を再び取り上げ、厳しい表情でじっと視線を注ぐ。一番上の顔写真に。
 こうしてひとりで考え込むことは無意味だとワルターにはわかっていた。自分にはこの人物に関する記憶という情報がないのだ。深呼吸のような、深く細く長い溜息を吐いて、その資料を片手にオフィスに繋がる扉を開いた。


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