〈93年2月16日夜 W-14ストリート・WBI事務所・ヴァレア=カークの私室〉

 ヴァレアは部屋の窓から外を見た。街灯と車のライトが目立ち初めている。
 久しぶりにすっきりした気分だった。頭も身体も。外の風景を少し眺めてから、さっとカーテンを閉める。
 一度錯乱状態に陥ったことが、かえってよかったのだろう。酷く取り乱してしまったことは恥ずかしかったが、あれは自分に必要なことだったのかもしれないと思った。
 今の状態と比較して、昨日までの自分には明らかに限界が来ていたのだと改めて感じる。
 ヴァレアはワルターに取りすがって泣き喚いて、エネルギーを完全に使い果たした。記憶は途中で曖昧になり、気付くと自室のベッドの上だった。傍にはワルターが座っていた。
 言葉を構築できる程度には冷静になってワルターに自分の苦悩を吐露し(途中でまた少し泣いてしまったが、ワルターは父のように優しく抱きしめてくれた)、それでようやく気分が落ち着いた。ビリーが腕をふるってくれた、豪華ではないが美味しい夕食を三人で食べ、一週間ぶりに物の味を感じることができた。シャワーを浴びて、再び一晩ゆっくり睡眠を取り、一週間ぶりに眠りというものを実感した。
 朝は少し遅めに起き出し、しかし面会時間一番にビレンに会いに行った。そして昨日自分が考えたこと――自分は彼を愛しており、彼を支えたいと心から思っていること、そして謝罪――をビレンに伝えた。ビレンは言葉少なだったが、ぎこちない小さな微笑を浮かべ、確かな意思を持ってヴァレアの手を握り、ありがとうと言ってくれた。ヴァレアは彼にキスをし、彼を抱きしめ、しばらく穏やかな時間を過ごしてから診療所を出た。
 事務所に戻ってオフィスに顔を出すと、今日は一日休むようワルターに言われた。ヴァレアもそれに素直に従った。体力と気力を完全に回復させておかねばならないと思ったからだ。今日という日には、その理由があるからだ。
 そして日が暮れ、今、ヴァレアはとてもよい気分だった。身体を休めたおかげで、気持ちに余裕があった。この状態が続くとは思えなかったが、余力があるのはいいことだ。
 ヴァレアは下着姿になり、クローゼットからスーツを出し、着替え始めた。
 考えることは、たくさんある。
 たとえば自分たちが引き金通りにやってきたことだ。子供の頃には、特に歳よりも未成熟だった自分にはわからなかったが、自分たち家族が住居を追われたのは、明らかに土地のトラブルだ。長じてから思い返して、また兄のリードにも話を聞いて、それがわかる。両親はおそらく、自分たちの農場を広げるか、もしくは売却するかしようとする中で、地所を不当に手放さなければならなくなったのだ。法的に訴え出る余裕もなく、遠く離れた街の引き金通りのようなスラムに逃げ込まねばならないほどの状況に陥ってしまった。
 両親は同情のみを注がれるべき純粋な被害者だったのか、被害を受けても仕方がないと思われるほどになにも備えない無知で浅はかな田舎者だったのか、今となっては知るすべもないのかもしれない。
 だがヴァレアにもこれだけはわかる。両親は、自分たち兄妹のことをいつも思っていてくれた。自分たちが成長したときのために農場の規模を広げようとしていたのかもしれないし、学校に通わせ街暮らしをさせるために農場を売ろうとしていたのかもしれない。彼らは子供たちのためになにかをしようとしていたのだ。
 ヴァレアとリードの二人にとって、両親は愛情にあふれた、愛すべき、善良な人間だった。自分たちに惜しみない愛を注いでくれた、大切な存在だった。
 そんな彼らが、危険なスラムの片隅に我が子を残したまま、突然に、もしくは苦しんで死を迎えなければならなかったのだとしたら。
 それは世界中で起こりうる、珍しくもない、しかしとても残酷な現実だ。そう、カーク一家を襲ったものは、ありふれた出来事ばかりだった。だがありふれているからといって、その悲劇が軽くなるわけではない。
 両親の気持ちを思うと、胸を締め付けられる。ヴァレアはその痛みに耐えながら、スーツの上着に腕を通した。あんなカードと"遺髪"だけで、納得などできるものか。
 ヴァレアは鏡の前で髪をポニーテールに結い、コートを着た。それから小振りなショルダーバッグに、点検の終わった愛用のグロック19を入れる。結局ヴァレアは、十四の頃に始めた訓練以来、この銃を使い続けていた。
 机の上には、あの鈍い金色のロケットがある。ヴァレアはもう一度蓋を開け、母のものと"そっくり"の髪の束を、そっと指先で掻き分けた。その下には白い小さな紙片が敷いてある。気付いたのは今朝だ。
 紙片のサイズに合わせて、書かれた字もとても小さなものだ。しかしはっきりと読み取ることができる。筆跡は署名やカードのものと、これもまったく同じだった。
『会いましょう』
 いつ、とも、どこで、とも書かれていない。だが、少なくともどこに行けばいいのかはヴァレアにはわかっていた。ロケットを閉じ、それを上着のポケットに入れる。
 彼女に会わねばならない。聞かなければ、話さなければならない。
 ホンファは、ヂュ=ドゥランは、もたらしてくれる者なのか、奪ってゆく者なのか、ヴァレアはずっとわからずにいる。昔から。


〈93年2月同日 W-14ストリート・WBI事務所〉

 ヴァレアは足音を忍ばせ、裏口の扉に手を掛けようとした。しかしそうする前に呼び止められる。
 振り向くまでもなかった。声も、気配も、そして状況からも、その主はビリー以外にない。
「面会時間はもう終わってるぜ」
 彼は地下へ続く階段の途中にいて、そう言いながらヴァレアの傍へやってくる。ヴァレアは答えることができず、彼から目をそらした。
 ビリーは道をふさぐように、ヴァレアと扉の間に立つ。
「他に、どこへ行く気だ?」
 彼はわかっているに違いないと、ヴァレアは思った。今ヴァレアがこそこそと出かける目的など、ヂュ=ドゥラン絡みだけだと容易に想像はつくだろう。もしかすると、それを見越して待ち伏せていたのかもしれない。それなら下手なごまかしは、すべてにおいて無駄だ。
「窓から抜け出すより、ましだと思わない?」
 ヴァレアは俯き気味に首筋を伸ばして、小さく笑いながらジョークめかして言った。そういえば自分は昔も、ホンファのために無鉄砲な行動を取ったのだと過去を振り返る。
 だが今日のこれは、あの日のように反抗と熱情からくるものではない。
「戸締りするぶんだけな」
 ビリーはポケットから煙草を取り出し、火をつけた。彼の口調は普段からすべてがジョークのようでもある。そのくせ、なにかと機微に聡いのだからかなわない。
 ヴァレアはバッグを掛け直し、ビリーの身体の脇からドアノブを握った。ビリーは動かない。ヴァレアもノブはまだ回さない。ヴァレアの間近、目の高さに彼の煙草がくゆっている。
「お前のその、いざってときに向こう見ずなのは直らねぇな。そういうところはビレンとそっくりだ。お似合いだよ、お前ら。おかげで俺は二人分のフォローをしなきゃならん」
「ありがとう。ごめんなさい。でも私だってなにも考えていないわけじゃないのよ」
「わかってる。考える方向と出す答えが俺と違うだけだ。ひとりで行って、なにをするつもりだ?」
 ヴァレアは一度視線を手元に落とした。それからすぐにビリーを見上げる。
「ビリーは、私がなにをすると思ってるの。復讐のために相打ち覚悟で彼女を殺すとか? それともまだ裏切りを疑ってる?」
 煙草の根元を親指と人差し指でつまんで、ビリーは紫煙を細く勢いよく吐き出した。
「正直に言って、可能性はゼロじゃないと思ってるさ。こういうのは理屈じゃねぇからな。だが限りなくゼロに近いとは思ってる。お前が人生で一番優先してるものは、俺と同じだ。俺も、ビレンも、お前も同じだ。そうだろ?」
 ヴァレアは一瞬唇を結び、そして小さく微笑んだ。
「……それが解ってもらえてるなら本当に嬉しいわ。ありがとう」
「だが、それとこれとは別だ。リスクが高すぎる。お前ひとりで、ヂュ=ドゥランを捕まえられるってのか? 無謀も」
「私以外の誰が、彼女を捕まえられるっていうの? 警察なんて二度も彼女に逃げられてるのに」
 いいところだ、と続くはずのビリーの言葉を、ヴァレアは珍しく遮った。普段ならビリーのほうが浮かべるようなシニカルな笑みを作り、口調はしたたかですらあった。
 ビリーはわずかに眉を動かし、ヴァレアの目をじっと見つめた。ほんの数秒会話が止まってそして、ビリーは短い息を吐き出しておかしそうに笑った。
「違いねぇ」
 ビリーは再び煙草を咥え、扉の脇に退く。
「お前も生意気言うようになったもんだ」
「だってもう十年近くもビリーと一緒にいるのよ」
 ヴァレアはゆっくりとドアノブを回し、扉を開く。途端に外の空気が"刺し込んで"くる。
「生意気ならビレンの奴のほうが得意だぜ」
「じゃあ、私はそれだけエリート教育を受けたってことだわ」
 コートの胸元を掴んで合わせながら、ヴァレアはその冷たい外気の中に出た。それからビリーを振り返る。
「そう、"教育を受けた"の。確かに私は、私個人として彼女に会いに行く。でも、たかだかひとりのテロリストに屈するつもりもない」
 その言葉にはもうジョークのニュアンスはなく、しかし根底には強がりのような危うさがあり、それでいて確固たる意志を含んでいた。
 若さゆえにか、人格ゆえにか、彼女が同時に内包しうる固持と揺らぎは、独特のエネルギーを生んでヴァレアを形作る。
「……信用してるさ」
「ありがとう」
 逆光で暗く映る戸口のビリーの姿に、ヴァレアは今度こそ、彼女らしい、少しはにかむような穏やかな微笑を向けた。


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