〈93年2月同日 W-15ストリート・アパートメント一室〉

 ヴァレアは指先の震えを必死で抑えながら、コートの内側に左手を差し入れ、上着の胸ポケットから取り出すべきものを取り出した。ヂュ=ドゥランから送られてきた、ピルケースにも近い鈍い金色の"入れ物"。
「この中身が、私のお母さんだって、そう言うのね」
 指先に鎖を通してロケットをぶら下げ、ヂュ=ドゥランのほうに突き出してヴァレアは言った。
「そう書いたでしょ。そうよ」
「説明」
 声が揺らぐ。しかし一度歯を食いしばってその声を立て直す。
「説明して。母がいなくなったのは、あなたに会う二年も前よ。あなたはいつから母のことを知ってたって言うの?」
 ヂュ=ドゥランは両手を少し後ろについて体重をかけ、唇を尖らせながら天井を見上げた。
「……よく、覚えてないわ。はっきりとは覚えてない。でもヴァレアが二年前だと言うんなら、わたしもその頃に会ったんでしょう。わたしはまだ引き金通り《ここ》にはいなくて、別の町で客を取ってた。もちろん管理されながらよ」
「……『ご主人』と言っていたひとに?」
 ヴァレアは過去の記憶を手繰り、彼女の言葉を思い出して尋ねる。ヂュ=ドゥランはあからさまに唇を歪めて笑った。
「そうそう、そう呼んでたわ。あの男は、わたしにとっては主人でもなんでもなかったけど。売春と、クスリの一部を管理するのが彼の仕事だった。あなたのママも、彼に連れてこられたのよ。さらった場所でそのまま商売はできないからね」
「ちょっと待って」
 頭から血液が引いて、酷く冷えてゆく感覚に陥る。
「どういうこと?」
「そのままの意味よ。わたしはあなたのママと、仕事仲間になった」
「いつ!」
「だから、あなたのママがいなくなったのは、わたしと会う二年前なんでしょう。ならその頃からよ」
 ヂュ=ドゥランは少し面倒そうに溜息を吐いて、片手で自分の髪を梳いた。
 ヴァレアの頭の中で、可能性が構築されてゆく。この部屋を出た母は、すぐに殺されるような状況に陥ったのではなく、かどわかされたのだ。
 ヴァレアが十歳の頃の母親は、まだ三十代半ばといったところで、確かに女性としての価値を充分に利用されうる年齢だ。その場で犯し殺すだけでなく、金銭を生み出すために生かして捕らえられる可能性もあることは、ヴァレアも世間の知識が伴うにつれて考えるようになっていた。しかしそれが何者に、何者らによってなのか、その情報を得ることができずにいたのに。
「……お母さんは、"あなたたち"にさらわれたって言うの……」
 ヂュ=ドゥランを問い詰めるようでいて、独白でもあるような口調で、ヴァレアは呟く。
「そうね」
 他人事であるような口調で、ヂュ=ドゥランが答える。
 自分の中にあるどの感情を掴み出せばいいのか、ヴァレアにはわからなかった。
「あなたのママ――あぁ、面倒だわ。ディウよ、そうでしょ?」
 ヂュ=ドゥランが口にした名に、ヴァレアはびりりと眉を震わせる。この国の人間としては珍しいそれは、確かにヴァレアの母の名だった。ディウ=カーク。
「あの頃、わたしみたいに国から渡ってきたのももちろんいたけど。適当な、消えたって足のつかないような人間を狙って、生かしたり殺したりして稼いでもいたのよ。裏通りの類には、そんな人間ごろごろしてる。ディウもこんなところをひとりで出歩いてたんだもの、目をつけられもするわ」
 ヴァレアの沈黙を肯定と受け取ったのか、あるいは確認するまでもなくそれが本当だと知っているからか、ヂュ=ドゥランはそう続けた。
「ディウはあなたよりももっと東洋系の色が濃かったし……彼女ハーフなのね。だから仲間になるかもしれないとも、あの男は思ったみたい。実際はわたしたちの言葉もほとんど通じなかったし、国も思想も違ってたわ。だからすぐに他の、この国の人間たちと同じように、ただおカネのために身体を売らせた」
「……母は」
 ヴァレアは、自分の母の境遇に、胸がきりきりと締め付けられるようだった。
「母は、どうしてたの?」
「何度も逃げようとしてたわ。でも『ご主人』が逃がすわけないじゃない。クスリ浸けにして稼がせてた。長生きさせる必要なんてないからね」
 お母さん、とヴァレアは心の中で何度も呼んだ。ロケットの鎖をそのまま握りこみ、震える拳を額に当てる。
 辛くてたまらなかった。深く愛している母親の苦しみを認めたくなかったから、そのことを想像したくなかった。だがヂュ=ドゥランから語られるそれは、いつも真意の読めない彼女から語られているはずのそれは、酷く現実味をもってヴァレアを襲う。自分のいないところで、自分の知らないところで、肉親が、愛するものが苦しんでいたと後から知るほど辛く苦しいことが、他にいったいどのくらいあるというのだろう。
「でもディウは、わたしに優しかったの」
 ヂュ=ドゥランはまぶたを半ばまで落とし、白い脚をぴんとつま先まで伸ばしながら言った。
「たぶん、あなたに重ねてたんでしょ。ディウはいつもあなたたち家族の心配をしてた。わたしの前では母親ぶってたけど、それでもわたしの前ですらときどき泣いてたわ。わたしはディウに優しくしてもらって嬉しかったし、かわいそうなディウが可愛かった。わたし彼女を愛してた」
「……私を、娘だと知ったのはいつ?」
「それは難しいところね。ディウは、家族の名前は絶対に言わなかったの。ファミリーネームも口にしなかったくらい。彼女用心深いわよね。わたしに、わたしと同じくらいの娘がいるって教えてくれただけ」
「じゃあ、あなたがこの部屋にいたのは偶然だとでも?」
「いいえ。わたしが引き金通り《ここ》に来ることになったときに、ディウから住んでいた部屋を聞き出したわ。誰にも内緒でこっそり様子を見てきてあげる、って。ディウもその頃はもう、わたしには警戒が緩くなってたから、わりあいすんなり教えてくれた。まぁ当然、部屋にあなたたちはいなかったけどね。だからわたしはそのまま、仕事場のひとつとして使ってた。そこへあなたが」
「待って」
 現実に疲弊する頭で、ヂュ=ドゥランの言葉を聞いていたヴァレアは、はっとして彼女が喋るのを遮った。気付くべきではなかったことに気付きかけている気がする。知りたくないことを言われている気がする。問うために、言葉で踏み出すことを恐ろしいと感じる。
「……あなたは、私のお母さんをみとったと言ったわね。私の死んだ母親と書いたわね。私のお母さんは、死んだと言うのね? それは、いったいいつのことなの?」
 ヂュ=ドゥランは沈黙した。酷く長い沈黙を。いや、ヴァレアがそう感じただけなのかもしれない。ヂュ=ドゥランの沈黙は、ほんの一呼吸か二呼吸の間だったのかもしれない。
「――わたしがあなたと別れてから、一年くらい経った頃よ、ヴァレア」
 ヴァレアはついに自分の足だけでは立っていられなくなり、おぼつかない足取りで後退して、閉じた扉に背中を預けた。
 あの頃、自分がホンファと過ごしていた頃、まだ母親は生きていて、"そしてホンファはその居場所を知っていた"。
「……嘘」
「うそじゃないわ」
「ならなんで黙ってたのよ!」
 ヴァレアはつかの間引き金から指をはずし、銃のグリップの底を扉に打ちつけた。
「わかってたんでしょう、私はこの部屋に来たわ、この部屋に住んでたのと、お父さんとお母さんがいなくなったのとあなたに言ったわ、私の髪の色も瞳の色も、顔立ちだってお母さん譲りよ! 私がディウの娘だって、すぐにわかったでしょう、ホンファ!」
「わかったわ。まさかと思ってたら、ここに住んでたなんていうんだものね。少し驚いた」
 ヴァレアの激情にも、なに食わぬ顔でヂュ=ドゥランは答える。膝をひと撫でし、脚を組む。
「でもわたし、確かに最初はなにも言わなかったけど、知らないとうそはつかなかったでしょう。それにあのときには言った」
「なに?」
「あなたがわたしと離れたくないと言うから、そのときに言ったわ。言ったでしょ?」
 ヴァレアは一瞬空白の間を感じて、そして次の瞬間には小さく声をあげていた。
 ホンファと離れ離れになってしまうのが悲しくて、しかしワルターたちのもとから去ることはできなくて、そしていなくなった父と母を待たねばならなくて、それでもホンファの誘いの言葉はとても抗いがたいもので。理論だった考え方などなにもできなくなるほどに苦悩した、あの倉庫でのひとときを思い出す。
 彼女が口にしたが、ヴァレアには理解できなかった一言を思い出す。『パパとママはいいの?』
「そんな……だって……あれは。あれは!」
「ほら、覚えてる」
 ヂュ=ドゥランが鼻先と口元を指で覆ってくすくすと笑う。何度目かわからぬめまいがする。
「覚えてる……でも、あれは、そんなことだなんて、……よくないから一緒に行けないんだって私言ったじゃない! なのにあなたはなにも言ってくれなかったでしょう! そんな、ことだなんて……考え付くわけないじゃない……あなたはなにも知らないんだって、そう思ってたのに」
「馬鹿ね。一緒に」
「やめて!」
 ヂュ=ドゥランに改めて口にされることがとても恐ろしかったので、ヴァレアはまた無理矢理言葉を遮った。
 一緒に行けば、会えたのだ。
 あんなにも求めていた母と会うことができていた。あの日、ホンファの手を取ってさえいれば。
 だがそれは、あの頃でさえ扱いかねていた天秤が、さらに重くのしかかったであろうことも意味していた。
 だから知らなくてよかったのだ。知らなくてよかった。子供の頃の自分が知るべきことではなかった。ヴァレアはそう心の中で言い聞かせた。それが、途方もない後悔の念から自己を守るための精一杯の言い訳だった。
「……お母さんは、私があなたと会っていたことを知ってた?」
「いいえ。言わなかったもの。子供たちが無事に生きてるなんて知らずに死んだわ。でもいいでしょ、わたしが一緒にいたんだから。最期も、そんなに苦しまなかったし」
 それはとても悔やまれることだったが、しかしそのことを口にする気力もなくなっていた。それに、母は深い苦痛と完全な孤独の中で死んでいったのではないのだとも、確かに思えた。彼女の言葉を信じるのであれば、母にとって、ヂュ=ドゥランの存在はひとつの救いだったはずだ。
「……お父さんのことは、知っているの? このロケットに、なにか意味が?」
 ヴァレアは俯き、左手を力なく掲げて掠れた声で尋ねた。
「どっちもいいえ。でもまず死んでるわ」
 もう問い詰める力もなく、ヴァレアは黙って嘆きに首を振る。
「女と子供、それにまぁ、よほど見目のいい男なら、囲っておいてもカネになる。でもそれ以外は、大抵バラして売り飛ばされるだけ。あなたのパパだって、こんな場所には似合わない人間だったでしょ。標的にされたに決まってる。……そのロケットは、そういう連中から集めた金目の物の中から、適当にわたしが失敬してただけの物よ」
「そう……」
「あなたのパパの形見だったらさまになったのにね! 人生、そうドラマティックにはいかないものだわ」
「そうね」
 薄く、けれどどこかあどけなく、冗談のように笑うヂュ=ドゥランに、ヴァレアは静かに頷く。
 そして右手のグロックを、ヂュ=ドゥランに向ける。
「教えてくれたこと、感謝するわ。あとは降伏しなさい、ヂュ=ドゥラン」
 ヂュ=ドゥランと呼ばれた彼女は、見慣れた微笑で、双眸を細めた。


 ベッドに横たわるヂュ=ドゥランは、裂いたシーツで両手を覆うように拘束されつつある。すぐ横に腰掛けるヴァレアがその作業をしている間も、ヂュ=ドゥランはおとなしかった。
 彼女はヴァレアが銃を構えてゆっくりと近づいたときも、ベッドに腰掛けたまま動かなかった。
「……どうして抵抗しないの?」
 シーツの軋む微かな音をさせながら、何重にも結び終え、ヴァレアは囁くような声量で言った。
「わたし、いつも捕まるときはおとなしいの」
 ヂュ=ドゥランは微笑んだまま答えた。そういえば最初に会ったあのときも、彼女はなんの抵抗もなく捕まってみせ、そして逃げ出してみせた。
「一旦捕まってから逃げるんでしょう」
 事実今の彼女も、脱走者の立場だ。
「逃げるのは得意ね」
 ヴァレアの言葉を否定も肯定もせず、冗談めかして言う。
 ヴァレアの中ではもう怒りの波も悲しみの波も静かになっていた。感情に翻弄されることに疲れ果てていたからだ。だから穏やかな気分だった。
 グロックは手放していないが、引き金からは指をはずしていた。この至近距離では、さすがに誤射の可能性が高くなりすぎる。指を掛けたまま拘束の作業をすることなど、危なっかしくてとてもできない。それに実際、引き金を引かないのに指を掛けたままでいることは、滅多にないことだけあって、とにかく神経をすり減らすし、指も緊張で疲れてしまうのだ。
「今度こそ逃げられては困るわ。私が直接捜査局まであなたの身柄を連行する。もちろん捜査局に連絡して、途中も護衛してもらいます。拘束されたあとだって、あなたに脱走の前歴があることも向こうはわかってる。警戒は強くなる。諦めたほうがいい」
 ヂュ=ドゥランの完全に見えなくなった手元から手を離し、彼女を見下ろす。彼女は笑っていて、なにも答えなかった。別にそれでもよかった。
 ヴァレアが携帯電話で事務所に連絡を入れている間も、ヂュ=ドゥランは妙におとなしい表情で、ヴァレアを見つめていた。銃を向けられていることも気にしていない様子だった。
 ヴァレアはこの期に及んでもなお、彼女の眼差しに心がさざめくことを認めざるを得なかった。彼女の動向を警戒するためにヴァレアも彼女を見続けていたが、きっと自分はただ彼女を見つめたいのだということもわかっていた。
 ヴァレアが電話を切ると、静寂が訪れる。すぐに動く気にはなれなかった。聞こえるのは自分とヂュ=ドゥランの息遣いだけで、そう思ってはいけないとわかっているのに、それでもヴァレアはこのひとときを、少し心地よく思った。
「……わたし、ディウとは寝てないわよ」
 シーツに包まれた両手を顔の前にやりながら、ヂュ=ドゥランが不意に呟く。ヴァレアは視線を彼女の目元に動かしたが、しかし目は合わなかった。
「ディウには、わたしやあなたみたいな指向がなかったから。ないのがわかってたから、誘ってもいないわ。愛してたのに」
 ヂュ=ドゥランは笑うでもなく、声も静かだった。
「……そう」
「でも、あなたとは寝たわ」
「そうね」
「……それが言いたかっただけ」
 ヂュ=ドゥランは目を閉じ、軽く身体を縮めた。
 ヴァレアはそんな彼女を見つめながら、少し妬む。本当なら自分たちと一緒にいるはずの母と過ごしていたホンファを。そして、ホンファに愛された母を。
 愛情の種類も嫉妬の種類も違うのに、それらすべてがひとつであることがおかしかった。
 そしてもしかすると彼女も、ある意味では同じだったのかもしれないと、ヴァレアは思った。それぞれに対する、愛情と嫉妬。
 それはとても傲慢なうぬぼれかもしれなかったが、きっとまったくの的外れではないはずだった。
「ヴァレア」
 またしばらくの静寂があったのち、ヂュ=ドゥランがそう呼びかけながら仰向けになった。オイルランプの鈍い灯りに照らされた黒い髪は溶けるように広がっていて、その中に浮かぶような白い肌と赤い唇の対比が、とても美しいとヴァレアは思った。
「なに?」
「キスがしたいわ、ヴァレア」
 ヂュ=ドゥランの眼差しは、まっすぐヴァレアを見上げていた。
 ヴァレアは一度唇を引き結び、緩やかに首を振り、そしてまっすぐヂュ=ドゥランを見つめ返した。
「できないわ」
「それは、わたしがあなたたちの敵だから? それとも裏切れない今の恋人がいるから?」
「両方よ」
 ヴァレアは眉を下げて微かに笑み、それを見たヂュ=ドゥランは、これまでどおり、真意の窺えない笑みを浮かべた。
 そしてヴァレアは、誰にも明かせない"もしも"を、心の中で呟く。
 父よりも母よりも先に、誰かに救われるよりも先に、自分が医者を探しに外へ出ていたらと。


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