〈93年2月19日朝 W-14ストリート・WBI事務所・所長室〉

 ヂュ=ドゥランを捕らえて数日後、ヴァレアはひとり所長室に呼ばれ、そして彼女が死亡したことを聞かされた。


〈93年2月同日 W-14ストリート・ロングフェロー診療所〉

 ビレンは少し高くしたベッドに頭を預けて、病室の天井を見上げていた。痛みは徐々に軽くなってはいたが、それでもまだ身体に不快感が残る。
 読書をする気も起きず、テレビやラジオをつける気にもならない。かといって思案にふけることもまた憚られた。不愉快な記憶と、陰鬱とした考えに覆い尽くされるに決まっているからだ。それくらいなら、血が沸くような怒りに支配されているほうがいくらもましだ。しかし悲しいことに、その気力もあまりわかなかった。
 だからビレンは頭をからっぽにし、なにも考えないように努める。そうやって回復してゆくことが今の自分には必要だと思っていた。去勢された犬になるのはごめんだった。
 外は快晴だ。レースのカーテン越しに差し込む光で、室内も眩しいほど明るい。いまさらのようにビレンは目を細めた。
 ヂュ=ドゥランが捜査局に引き渡されたことはビレンも聞いていたが、別段なんの感情も浮かばなかった。ヂュ=ドゥランを捕まえたのがヴァレアだと聞いて、彼女はいったいどんな思いでヂュ=ドゥランと対峙したのだろうと考えただけだった。
 病室の扉が静かにノックされる。
「どうぞ」
 返事の後、扉を開けて姿を見せたのは、そのヴァレアだった。彼女は毎日必ず見舞いに来ていた。
「具合はどう?」
 ヴァレアがコートを脱ぎながら尋ねる。ビレンには、そう口にする彼女の顔色こそよくないように見えた。
「悪くない。変わらないよ」
 彼女が傍に来るのを待ってから、ビレンは答える。ヴァレアは少し眉を下げ(変わらない、とビレンが言ったからだろう)、でも悪くないならよかった、と微笑んだ。
 ヴァレアはビレンの身の回りの世話を一通りし、着替えをバッグに詰めてから、ようやくベッド脇の椅子に腰を落ち着けた。
「今日は、また報告があるの。大丈夫?」
「大丈夫だ」
「その……彼女のことなのだけれど」
「構わない」
 ビレンが頷くと、ヴァレアは少し伏し目がちに手元を見下ろす。唇が開かれてからも、言葉が出てくるまでにほんのわずかな間があった。
 彼女にとってよくない報告か、自分にとってよくない報告かのどちらかなのだろうと、ビレンは思った。
「ヂュ=ドゥランが死んだわ」
 そしてこれはいったいどちらなのだろうと、ビレンは思った。
「……詳細を」
「捜査局の留置所で自殺したの」
 ヴァレアの声も表情も、一見して冷静だ。しかし膝の上に重ねた手が微かに震えているのを、ビレンは見逃さなかった。見逃さず、無視をした。
「ヂュの扱いには多少なり慎重になっていたはずだ。どうやって?」
「舌を……舌を噛み切って」
 その内容に、ビレンは眉を寄せる。舌を?
「それで死んだ? そんなことが?」
「わからない。でも、ヂュ=ドゥランはそうやって死んだわ。彼女は、壁を向いて座っていた。人目に背を向けて、じっと座って……舌を噛んで、その血と肉で、喉が塞がれるまで。長い間、身動きも、咳き込みもしないで、看守が気付いたときには、もう手遅れだったって。そう聞いた」
 狭い留置所の中、寡婦のような格好をしたヂュ=ドゥランが人形のように座り、閉じた口から血液を溢れさせている姿が、ビレンの頭の中に描き出された。それは激しい苦痛も人体の生理反応も無視した壮絶な姿で、とても不可能なことのように感じられたが、それでいて不思議と、ヂュ=ドゥランなら可能にするかもしれないとも思えた。
「間違いなく自殺か?」
「私も、それは考えたわ。でも、捜査局がわざわざ彼女を不当に"黙らせる"メリットも、あまりないように思えて。それよりは、彼女の意志だったと思うほうが、納得がいくの。だって」
 ヴァレアの言葉が、一瞬途切れる。眼差しは硬く、ビレンを見てはいなかった。
「続けて」
「だって彼女、私に言ったわ。『わたしは、"あなたにとってのワルター=バーンズ"のために働いている』って。それなら、彼女が彼女にとってのワルターを守るために死んだっておかしくない」
 ビレンは、銃で自殺した東洋人の若者のことを思い出す。あるいは彼らは、守秘のために死ぬことを義務付けられているのかもしれない。それが強圧的に課せられているものなのか、彼ら自身の意志で遂行しているものなのかはわからない。しかしその言葉からすると、少なくともヂュ=ドゥラン個人は後者だったのだろう(唯一生かして捕らえることができた白人の男は、死なずに取調べを受けているようだったが、有益な情報などろくに知らない可能性が高いらしかった。ビレンが殺したもうひとりの白人と同じく、雇われ者程度の存在であったに違いない。それゆえ死ぬ必要もないのだ)。
「わざわざ舌を噛んだのも、たぶん意思表示なのよ。たとえ自殺は失敗しても、なにも喋らないって、そう言いたかったんだわ、きっと。……わかるの」
 ヴァレアは落ち着かない様子で指を組み合わせている。軋みが聞こえそうな、力のこもったぎこちない動きだ。
「そうだな」
 ビレンは目を閉じ、静かに肯定する。ヴァレアと同じように、ビレンにもヂュ=ドゥランのことが理解できた。もっとも、ビレンはヂュ=ドゥランに対して遺恨がありすぎて、その理解を共感に結びつけるには至らないのだが。
 どちらにしろ、ヂュ=ドゥランと自分たちがある種同類であったことは皮肉な話だと、ビレンは思う。
「今日の報告は、それだけ。とにかくもう、今回の件での私たちの仕事はひとまず終わったわ。またこの近辺に誰かがやってくるなんてことがない限り」
「ああ。あとは捜査局や情報局の仕事だ。終わりだ、すべて」
「そう、終わり。全部終わりよ」
 ヴァレアは終わりという言葉を繰り返し、強く目を閉じた。
 そんな彼女を前に、ビレンはまだ迷っていた。彼女の苦しみを受け入れることを。
 今のヴァレアの苦しみは、ヂュ=ドゥランというかつての恋人を喪った苦しみだ。現在の恋人であるビレンが負わされた傷に対する罪悪感から、その苦しみをあらわにできずにいることを、ビレンはわかっていた。
 だが、彼女の苦しみを受け止めるには、ビレンはあまりにもヂュ=ドゥランのことを憎んでいた。ヴァレアの心が未だヂュ=ドゥランにも残っていると見えることも、その憎悪に拍車を掛ける。
 恋人を労わりたいという気持ちと、自分の身に降りかかった現実への苦悩と、それをもたらしたヂュ=ドゥランへの怒りと、そしてヂュ=ドゥランにだけ感じ続ける嫉妬と。ビレンの中にはそれだけのもの(いや、おそらくビレン自身も説明のできない、もっと深く混濁したなにかも含めて)が存在していて、なかなか決断が下せない。
 ビレンはヴァレアを見た。彼女はもう目を開けていて、しかしどこかぼんやりとした眼差しでシーツを見つめていた。報告を終えて緊張の糸が緩んだのかもしれない。
 ビレンは少し上体を起こし、腕を伸ばしてヴァレアの手を取った。病室の暖房にも関わらず彼女の指先は冷えていた。ヴァレアが緩慢な動きでビレンのほうへ顔を向ける。表情はないように見えるが、ひどく頼りなくも見えた。
 そしてビレンは、今の自分の精神状態に感謝した。怒りや苛立ちを彼女にぶつける気力など沸いてこないことに感謝した。そんなことと彼女とともに向き合うのは、もっと互いに回復してからでいいのだと、そう気付く。自分は肉体の現実に、そして彼女は両親の死についても深く傷ついているのだから。
「ヴァレア」
 手首を返して彼女の手をそっと握り、ビレンは静かに言った。
「無理をしなくていい」
 ヴァレアはビレンの言葉の意味を理解するように、ゆっくりと数度まばたきをした。
「無理なんて」
「しなくていいんだ」
 ビレンが繰り返すと、ヴァレアは少し首を垂れる。短い沈黙があり、それから唇を小さく開いた。
「……ホンファが」
 その名前を口にしてすぐ、ヴァレアの表情が歪む。水色の虹彩が滲む。
「ホンファが、死んじゃったわ」
 声が震え、涙があっという間に溢れ落ちる。
「死んじゃったの」
 それは子供のようなと表現するには大人びた、それでいてとても純粋な悲しみの泣き顔だった。
 ビレンはヴァレアの身体を抱き寄せる。小さな嗚咽を漏らす彼女の髪に指を通して頭を抱き、こめかみに唇を押し当てる。
 穏やかとはとても言えないものが、自分の中には確実にある。
 だが自分を支えると言ってくれたヴァレアのために、彼女との大切な関係を保ち続けるために、せめて今はただ彼女の悲しみにのみ心を痛めていようと、そうビレンは思った。


〈93年2月同日夕方 W-15ストリート近く〉

 ヴァレアは診療所から走らせてきた車を降りて、遠目に引き金通りを眺めた。
 日は沈みつつあったが、泣き腫らした目が赤いままだったので、サングラスをはずさずにいる。
 コートのポケットの中で、二人分の形見となったロケットを握る。
 ヴァレアは"何度も"別れた彼女のことを思う。許すことのできない彼女の行ないを思う。
 ヂュ=ドゥランと自分はまったく異なった人間で、しかし人生の生き方すら同じであるほど似ている。
 だからこそ失われてしまった彼女の命を思い、ヴァレアは声を上げず、また少しだけ、静かに泣いた。

 愛した少女との再会がもたらしたものは、喜びや幸福ではなかった。
 それでも、再会はなにかを残してゆく。人生に残り続けるなにかを。向き合い続けなければならないなにかを。

〈7〉93年2月――再会がもたらすものは必ずしも喜びではない。(了)



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