〈93年2月8日 W-14ストリート・WBI事務所・オフィス〉

 ビリーとともに所長室から戻ったヴァレアは、扉を閉めると同時に、その場にへたり込んだ。糸が切れるように膝の力が抜けてしまう感覚を味わったのは初めてだった。
「しっかりしろ」
 ビリーはヴァレアのほうを見もせず、険しい声で言った。
「動揺するな。すべきことを考えろ」
 目の前が真っ黒なのか真っ白なのか判断がつかない。ちかちかと不快に点滅しているようでもあった。だがヴァレアはビリーの言葉に頷いて、ドアノブを支えにしながら立ち上がる。
「ごめんなさい。……ごめんなさい」
 視界を回復させようと、ヴァレアは何度か深呼吸をする。正直なところ横になって休みたいと身体は求めていた。いっそ気を失ってしまいたいと心も求めていた。次に目を覚ませば、すべては夢であったか、もしくは解決しているかもしれないと思う。ビレンが、事務所に戻ってきているかもしれないと。
 だが、おそらくそれはない。逃避ではなにも得られない。自分たちが動かない限り。
 昨日引き金通り近くで張込みをしていたビレンが、車だけを残して失踪したという状況は、時任せでは好転してくれないはずだ。
 それにヴァレアは、ここで失神でもして役立たずの烙印など押されたくなかった。きっとビリーには正面からそれを指摘されるだろう。ワルターやビレン(再び会えるとすればだが)は優しい言葉を掛けてくれるかもしれないが、働くべきときにまったく働くことのできなかった自分に対する信用は、彼らの中でも落ちるに違いない。ワルターたちの信頼を失うわけにはいかなかった。そうなれば、自分はなんのために今の人生を選んだというのか。
「大丈夫か?」
 気がつくと、ビリーが真剣な表情でじっとヴァレアを見ていた。ヴァレアの中で一度たわんで途切れそうになった意識に、再び芯が通ったことを察したような口ぶりだった。
「大丈夫」
 ヴァレアは口元に強張った笑みを一瞬だけ浮かべた。
「それならいい。警察関係は所長があたってくれる。さて、俺たちはなにをやるべきだ? なにしろ人手が足りない」
「リサには来てもらえるかしら? 連絡係として事務所にいてもらえれば」
「そうだな。俺が連絡する。……お前は、これはいったいなんだと思ってる?」
 ビリーはデスクの上の煙草を取り、咥えて火をつけた。吐き出した煙で、一瞬彼の表情が見えなくなる。
「誘拐だと……思うわ。車のシートにビレンの銃が置いてあったなんて、そんなのあり得ない。ビレンが自発的に動いたのなら」
「相手は?」
「……私たちが、探してる連中よ」
「わかってるならいい」
 ヴァレアは強く自分の二の腕を握った。なにもかも、認めたくないことだらけだった。しかしおそらくそれが現実なのだろう。
 ビレンがひとり引き金通りに乗り込んで運悪く殺された? 彼が丸腰でそんな行動を取るわけがない。
 車にいるところを襲われた? 仮にそれが引き金通り本来の住人たちのような存在によってなされたのなら、わざわざ彼の銃を置いてゆくわけがない。
 明らかにこれはメッセージだ。ヴァレアのかつての友人からの。
 いや、ただの友人とは違う。ヴァレアも長じてから理解していた。彼女は恋人であったと。
「誘拐だってことは、コンタクトを取ってくるはずだ。事務所《ここ》の電話番号なんて、いくらでも調べられるからな。その場合、お前がいたほうがいいと思うんだが?」
「ずっと事務所に詰めてろってこと?」
「そういう選択もあるってこった」
 ビリーの言い回しに、彼の気遣いをヴァレアは感じた。彼にはヴァレアの答えの予測がついているのだろう。
「……私は、私も、自分の足で探すわ。ビレンのこと、なにか手がかりでも」
「じっと待ってるのは一分でも長ぇもんだからな。ただ、連中がお前を狙ってくる可能性だって大いにあるぜ」
「でも、それなら最初から私を狙ってくるんじゃないかしら。女の私のほうが扱いやすいはずよ、向こうだって」
「確かに。ひとりずつ片付けにかかってくるなんていう、非常にありがたくない作戦かもしれないが。それならそれで、わざわざ誘拐でございと銃を残して行ったりもしないだろうな」
「狙いはたぶん、この事務所。だから交渉を要求してくるなら所長にだわ。……ビリーがなにを心配してるか、わかってる」
 一度言葉を切り、唇を結ぶ。ビリーは、ヂュ=ドゥランが私的に親しかったヴァレアの存在そのものを求める可能性を考えているのだろう。それがどのような感情からであれ。
「でもホンファは――ヂュ=ドゥランは、目的を持った犯罪者なのよ。私情だけで私との接触を求めてきたりしないはず。彼女はそこまで馬鹿じゃない」
 ヴァレアは目を伏せ、記憶を手繰った。ホンファと二人で過ごしていたあの頃、彼女の考えを読めたことがあっただろうか。真意の見えない微笑ばかりが印象に残る。自分は(当時こそ自我の未成熟ゆえに自覚が薄かったものの)ホンファを愛していたが、彼女が自分を本当はどう思っていたのかすら、自信が持てない。子供の頃でさえそうなのだ。彼女がすべきことを退けてまで私情を優先するなど、あり得ないことのように思えた。
「そうか。まぁどっちにしろ、俺たちもできる限り連絡手段を手放さないようにしねぇとな。いつなにがどうなるかわからん」
「警察は?」
「……俺は、今回に関してはあまり信用しないほうがいいと思ってる。それこそミスター・アーキン級じゃない限り。ビレンの奴だって、警官と一緒だったはずなんだからな」
「そうね……」
「取り敢えず、リサを呼ぶか」
 ビリーはそう言って、受話器を取った。
「ねぇ」
 それを遮るように、ヴァレアは身を乗り出す。ビリーは手を止め、視線だけをヴァレアのほうに向けた。
「こんなこと聞いても無駄なのはわかってる。わかってるの。でも聞かせて、お願い。……ビレンは、無事だと思う?」
 ビリーはすぐに返答しなかった。二人の硬い視線が、しばらく交わる。
「……生きるも死ぬも、相手の判断ひとつだ。要求があればまだまし、目的次第ではそのまま消される。要求に応えても人質が無事に戻る保障なんてどこにもない。誘拐ってのは、そういうもんだ」
 ビリーの言葉は、どこまでも現実を告げる。だが紫煙の向こうの彼の表情は普段のシニカルなポーカーフェイスではなく、酷く苦く厳しい。彼にとっても、ビレンは盟友であり親友なのだ。だからヴァレアも、ビリーと同じように現実を見つめなければならないと、改めて思う。
 ヴァレアが微かに頷くと、ビリーは電話機のボタンを押し始める。
 その音を聞きながら、ヴァレアは再び目を閉じた。昨日見たばかりの大切な恋人の姿が浮かぶ。昔愛した少女の姿が浮かぶ。写真で目にしただけの犯罪者の姿が浮かぶ。
 胸が痛む。


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