『続・マカロニ・ウエスタン名言集』 (Togetter「蔵臼金助氏による『続・マカロニ・ウエスタン名言集』(未発表)ツイートまとめ」)


001 「俺のラバは笑うやつが嫌いだ」
作品:『荒野の用心棒』(1964) PER UN PUGNO DI DOLLARI
解説:
マカロニ・ウエスタンの大ブームを誘引した、セルジオ・レオーネ監督の金字塔的作品。完全に黒澤明の『用心棒』(1961)の焼き直しではあるが、アレンジの仕方がイタリア人らしいと言うか、それともレオーネの個性なのか、全編シニカルで黒いユーモアに彩られており、オリジナルの黒澤作品よりもさらに非道徳的で、不謹慎なムードに溢れている。それがまた、1960年代当時の厭世的な世相にマッチし、世界的なヒットにつながった。
 国境近くの町を二分する二つの勢力、ロホ家とバクスター家。町に流れ着いた名前の無い主人公は、最初に挑発してきたバクスター家のならず者たちの所へ舞い戻る。途中、作業をしていた棺桶屋に「棺桶を3つ、用意しとけ」と告げながら…。ラバにまたがって町に入った際(字幕では“馬”となっているが、実はラバである。馬ではなくラバにまたがってやって来たことで、主人公は嘲笑のネタにされてしまうのだ)、足下に銃弾を撃ち込んで笑い物にした彼らに対し、主人公は謝罪を要求する。
主人公「俺のラバの足の間を狙って撃っただろ?」
ならず者「冗談のつもりか?」
主人公「俺のラバは怒っている。謝れば許すだろうが…」
 面白い冗談だとならず者たちは笑うが、主人公の目は笑ってない。そして、「笑っていいのか? 俺のラバは笑うやつが嫌いだ」と続くのである。直後に電光石火のGUNさばき。4人のならず者たちはバタバタと倒れて、動かなくなる。去り際に、主人公は再び棺桶屋に言う。
「間違いだった。棺桶は4つだ」

002 「俺はその真ん中だ」
作品:『荒野の用心棒』(1964) PER UN PUGNO DI DOLLARI
解説:
同じく、クリント・イーストウッドの出世作、『荒野の用心棒』から。セリフやディティールに至る迄、レオーネ監督は黒澤の『用心棒』を研究し尽くし、西部劇に翻案した本作に採り入れた。棺桶の数に関する台詞などはオリジナルからの借用であるが、一匹狼の流れ者を強調してか、上記のセリフはバリエーションを交えて、劇中で何度か繰り返される。このシチュエーションを変えて同じセリフを繰り返す演出は、イーストウッドのその後の出演作、『マンハッタン無宿』や『ダーティハリー』シリーズでも引用され、時にはユーモアとなり、時には意味合いが微妙に異なって作品のテーマに関わってきたりもする。
 辺境の町に流れ着いた主人公。二つの勢力が対立する町の状況を解説した酒場のオヤジに、自分の立場を表明する。
「バクスター家とロホ家…俺はその真ん中だ」
 一匹狼の主人公の、何ものにも属さない特性はこのセリフによって明示され、それ迄の、ハリウッド製西部劇の模倣に過ぎなかったヨーロッパ製西部劇を根本から変えた。以降、マカロニ・ウエスタンの主人公は正統派西部劇とは異なり、保安官でなく、騎兵隊でもない、常に自分自身しか頼らない、孤高のガンマン、賞金稼ぎが主流となっていく。

003 「聞くのは勝手だが、答えはしない」
作品:『夕陽のガンマン』(1965) PER QUALCHE DOLLARO IN PIU
解説:
孤高のガンマンを主人公とし、『用心棒』の盗作と揶揄された『荒野の用心棒』の続編にあたるのが、堂々としたオリジナル・ストーリーを持つ、『夕陽のガンマン』である。引き続き、名無しの主人公はクリント・イーストウッド。さらに、“大佐”と呼ばれるもう一人の賞金稼ぎを配して、物語に深みを与えた。むしろ、この作品の主人公はリー・ヴァン・クリーフ扮する“大佐”の方かもしれない。その、カロライナ随一の射撃の名手、ダグラス・モーティマー大佐のセリフからひとつ。
 同じ標的を追っていたことを知った二人の賞金稼ぎは、互いに手を組むことになった。手打ちをした後の会話の流れで、大佐は告白する。
「昔は無鉄砲だった。あることがあってから、命が大切になった」
 初老の大佐がオルゴール付き懐中時計を大事そうに取り出し、遠い目をしながら話すので、若い賞金稼ぎは思わず、“あること”が何だったのかを聞く。それに対する質問の答えがこのセリフ。この後、二人の賞金稼ぎはだましだまされを繰り返しつつ、次第に友情を深め、標的に近付いていく。

004 「また、今度な」
作品:『夕陽のガンマン』(1965) PER QUALCHE DOLLARO IN PIU
解説:
全てのマカロニ・ウエスタンの頂点に君臨する、セルジオ・レオーネの傑作からもう一つ。宿敵インディオとその一味を殲滅した後、モーティマー大佐はオルゴール付き懐中時計の因縁と、大佐の本当の目的を知った若い賞金稼ぎに語りかける。「お前、金持ちになったな」最初に手を組んだ時の約束では、賞金は山分けだった筈だ。大佐に対し、友情とリスペクトの念を抱き始めていた若い賞金稼ぎは、「賞金は俺たち二人のものだ」と答える。
 全ての賞金を渡すと、大佐は夕陽の荒野に一人、消えて行く。彼に向かって、若い賞金稼ぎは言う。「俺たち、相棒だろ?」
 落日の逆光の中で振り返り、若い賞金稼ぎに向かって微笑みながら大佐が言うのが、英語台本では「Maybe Next Time」となっているこのセリフ。リー・ヴァン・クリーフの名演もあって、多くのマカロニ・ウエスタン・ファンの心に残る決め言葉となった。

005 「世の中には二種類の人間がいる…」
作品:『続・夕陽のガンマン/地獄の決斗』(1966) IL BUONO, IL BRUTTO, IL CATTIVO
解説:
レオーネ作品の登場人物たちは、常に気の利いたことを呟く。寡黙なガンマンも、饒舌な山賊も。きっとレオーネ監督自身が、ワイズ・クラック(警句)を好んでいたのだろう。『荒野の用心棒』『夕陽のガンマン』のヒットで自信をつけたレオーネの、続くこのマカロニ大作では、監督自身に余裕が出来たせいか、登場人物たちが頻繁に気の利いたセリフを呟き続ける。中でも最も人気があり、後に様々な作品でオマージュを捧げられ、引用され続けているのがこのセリフ。その由来はニーチェの格言、あるいはシェリダン将軍が放った暴言「インディアンには悪いインディアンと、死んだインディアンしかいない」(つまり、「死んだインディアンだけが、善いインディアン」)にまで遡るが、引用しやすいせいか、様々な映画やドラマ、CMなどでその亜流を見ることが出来る。
 本作ではまず、「世の中には二種類の人間がいる…」と始まり、その後に「首にロープをかけられる奴と、ロープを切る奴だ」「ドアから入る奴と、窓から入る奴だ」「弾の入った銃を持つ奴と、穴を掘る奴だ」…と幾つかのバリエーションが展開される。

006 「独りで死ぬ気か?」
作品:『続・夕陽のガンマン/地獄の決斗』(1966) IL BUONO, IL BRUTTO, IL CATTIVO
解説:
南北戦争を背景に巨額の制作費を投じて作り上げられた、レオーネ“ドル三部作”の完結編から。制作費が増える毎に作品の内容はスケール・アップされ、物語の骨子も流れ者の活躍譚からガンマン同士の友情物語、3人のアウトローたちの相克へと変化して行く。裏切り、裏切られて友情を深めていく辺りは『夕陽のガンマン』と同じだが、本作ではイーライ・ウォラック演じるアクの強いキャラクター、テュコのおかげでより劇画的な展開となり、また、ユーモアの含有量も増量された。
 いまだ互いに相手を信じ切れないお尋ね者のテュコと、賞金稼ぎのブロンディ。最期までこの関係は続くが、物語中盤から相手への信頼が芽生え始める。自分をリンチにかけた“エンジェル・アイ”と手下を相手に、砲撃によって廃墟と化した、硝煙たなびくゴーストタウンで決着をつけようとするテュコ。一人で5人のガンマン相手に戦おうとする彼に向かって、ブロンディが言うのがこの台詞。
 ブロンディがセリフを言い終えるのと同時にエンニオ・モリコーネの御機嫌なテーマ曲がかかり、二人の男は時折砲撃が着弾する地獄の戦場で、ガンマンたちに決闘を挑みに行く。

007 「いや、2頭余計だ」
作品:『ウエスタン』(1968) C'ERA UNA VOLTA IL WEST
解説:
“ドル三部作”ヒットの後に、レオーネ監督が19世紀のアメリカ西部開拓史に向かい合い、渾身を込めて描き上げた叙事詩。ニューオリンズ出身の娼婦が開拓時の西部の町にやって来る話を軸に、鉄道の敷設、アイルランド人農場主の夢、兄弟を殺された男の復讐譚、非情な殺し屋、滅び行くアウトローたちの挽歌が奏でられる。
 ガンマン同士の命を張った決闘シーン。そこでやり取りされる凄みのあるセリフも、マカロニ・ウエスタンの魅力のひとつ。場数を踏んだ者同士、弾丸が飛び交う前の緊張した場面でさえ、ブラックなユーモアを交え、それぞれに余裕を感じさせる会話が二言三言交わされる。そしてどちらかが相手を挑発し、先に銃を抜かせるために、実弾を発射する前に相手に向かって言葉の弾丸を投げつけるのだ。
 この台詞は冒頭、復讐の相手を求めて駅に降り立った主人公ハーモニカと、彼を待ち受ける殺し屋たちとのやり取り。揃いのダスターコートをはおった殺し屋たちは3人。彼らが乗ってきた馬が3頭、側につないである。それを見て、リーダー格の男が笑いながら言うのだ。
「馬が一頭、足りねえなあ」
 ハーモニカを吹きながら荒野の駅に降り立った男は、悠然と彼らを見つめ返し、いや、2頭分余計につないであるのだと言葉を返す。殺し屋たちの表情から笑いが消え、静寂の一呼吸の後に、一瞬の銃撃が交わされる。

008 「導火線が短い」
作品:『夕陽のギャングたち』(1971) GIU LA TESTA
解説:
1970年代に入ってマカロニウエスタン・ブームは沈静化。レオーネ監督は本作で、革命時のメキシコを舞台に、アイルランドからやって来た革命家とメキシコ人盗賊の友情を描いた。既に『ウエスタン』において、もはや“マカロニ・ウエスタン”と呼ぶにはふさわしくないスケールの大きさを作品が身に付けてしまったが、本作においても、戦争映画に近い物量と、ペシミスティックな演出で描かれる革命劇に、マカロニ・ファンは圧倒された。
 このセリフは火薬と爆発物の専門家、アイルランドの革命家であるジョン・マロリー登場の際のデモンストレーション時に語られる。銃で彼を撃とうとする山賊ファン・ミランダに対して、彼は「私だったら、撃たんがな」と警告。「何故だ?」と聞き返すファンに、ジョンははおっていたロングコートをひろげる。すると、そこにはずらりとコート内側に収まったダイナマイトの束とニトログリセリンが…。
ジョン「私が撃たれたら、私は倒れる。倒れたら、この辺の地図を書き換えることになる。(言いながら、ニトロを一滴たらす。爆発音と共に、一瞬にして地面に大きな穴が空く)私が死ぬと国の半分が吹き飛ぶ。...君たちを道連れにして」
 ファンは彼と共にメサ・ヴェルデの銀行を襲う計画を思いつく。手下の一人は「爆薬さえありゃあ、奴はいらねえ」と豪語し、近くの樹を吹き飛ばそうとして失敗。樹木もろとも跡形も無くなった。馬車の中でうたた寝をしていたジョンは、爆発音を聞いて一言呟く。
「…Short Fuse(導火線が短い)」

009 「字が読める連中が、読めない連中をけしかけた」
作品:『夕陽のギャングたち』(1971) GIU LA TESTA
解説:
金が目的の山賊ファンと、革命運動に参加するアイルランド人のジョン。「俺にとっちゃ家族が国なのさ」と言うファンに対し、国家と革命について説くジョン。ファンは激高して、ジョンに反論する。
ファン「字が読める奴らが時代を変えようとけしかけた。それで変わったか? 字が読める奴らがぴかぴかの机に座って議論している間に、貧しい連中はどうなった? ...皆死んだ。それが革命だ。 だから、俺に革命話をしないでくれ」
 しかし、ファンと彼の家族は否応なく革命に巻き込まれ、悲劇が彼らを襲うことになる。

010 「スパゲッティは最高の発明だぜ」
作品:『J&S/さすらいの逃亡者』(1972) LA BANDA J&S: CRONACA CRIMINALE DEL FAR-WEST
解説:
『続 荒野の用心棒』の世界的ヒットで、一躍イタリア製西部劇の職人監督となったセルジオ・コルブッチ。彼が後期に演出した、“マカロニ・ウエスタン版『俺たちに明日はない』、あるいは『地獄の逃避行』とも言うべき、ニューシネマの影響を受けた逸品。
 お尋ね者ジェドと、無法者に憧れてジェドを追い回す少女サニー。暴力的なジェドから虐げられつつも、彼を次第に虜にしていくサニーの献身的な行動が、男女の立場を逆転させていく。コミカルなタッチの中に、ペーソスとマカロニらしい激しい銃撃シーンを描いたこの作品において、コルブッチ監督は肩の力を抜いた余裕のある演出ぶりを発揮している。例えば、物語中盤のシーン。腹を空かせたジェドが山盛りのスパゲッティをガツガツと平らげ、獣のように食らう。彼は食いまくり、唸りながらスパゲッティを礼賛するのだ。これは米国で評価の低いマカロニ・ウエスタン(欧米ではスパゲッティ・ウエスタンと呼ばれる)に対するエールなのかもしれない。ちなみに19世紀の北米大陸でスパゲッティは、カウボーイの主食としてもよく食べられていたそうである。

011 「射程距離には入らないのさ」
作品:『さすらいの一匹狼』(1966) PER IL GUSTO DI UCCIDERE
解説:
ガンマンが相手を挑発する時のセリフを、『さすらいの一匹狼』から。監督のトニノ・ヴァレリはセルジオ・レオーネの助監督経験者で、これは彼の監督デビュー作でもある。望遠照準器が付いたカスタム・ウインチェスターを愛用。“700oズーム殺法”で、300ヤードの距離から狙った相手を外さない。マカロニ・ウエスタンには珍しく、主人公は無敵の強さを誇る一匹狼の賞金稼ぎ、ランキー・フェロー。騎兵隊の軍用金を奪った山賊をつけ狙う彼が、金を持った三人組と対峙した時に吐くセリフ。「金が欲しかったら、取りに来い」と挑発するメキシコ人たちに、顔色ひとつ変えずに言う。射程距離が短い拳銃やカービンを持った敵に対し、フェローは長銃身を持つライフルに望遠スコープを取り付けバタバタ倒すのだから、そりゃあ無敵だ。
 だが、彼は山賊三人を倒すのにライフルを用いず、わざわざ拳銃で決闘を行う。上記のセリフはあくまで相手をカッとさせて銃を抜かせるためのもので、その直後、ランキーは鮮やかなGUNさばきで全員を撃ち倒すのである。遠方からライフルで倒せるのに、相手の銃の射程距離に合わせて直に向かい合い、勝負を付ける…ランキーは、実はフェアな戦いに意地を見せる、職人的な賞金稼ぎなのだ。

012 「神に祈ってやるとも。お前ら、人殺しの哀れさをな」
作品:『情無用のジャンゴ』(1967) SE SEI VIVO SPARA
解説:
全編に漂う狂気と無常観、ホモセクシュアルな雰囲気と残酷描写で悪名高い、マカロニ・ウエスタン。残虐なシーンばかりが話題になるが、ドキュメンタリー出身のジュリオ・クエスティ監督(長編劇場作品を本作と『殺しを呼ぶ卵』他、数本しか撮っていない)は、フェリーニの『甘い生活』で館を所有する貴族役として出演するなど、一風変わった人物である。それなので、スタッフもあまりマカロニでは見かけない人脈を起用した。脚本は後に『砂丘』『ラストタンゴ・イン・パリ』『1900年』などの名作を手がけることになるフランコ・アルカッリだ。シュルレアリスティックな画面をフランコ・デリコッリに構築させ、マカロニはこれ一本だけとなるイヴァン・ヴァンドールが印象的なテーマ曲を作曲した。本作は、表面的ないかがわしさ、残酷さだけでは語れない、不思議な魅力を持った異色作でもあるのだ。
 この台詞は、仲間のホークスに裏切られた主人公が、撃たれる前に「祈れ」と言われて言う。その後インディアンに助けられ、九死に一生を得た主人公は、裏切り者たちの行方を追って地獄のような町にたどり着く。登場人物全てが狂っているか悪人で、主人公のみがまっとうな感覚を持ったこの作品において、物語の終わらせ方も救いが無く、カタルシスは感じられない。本作は主人公を除き、全てが情無用なのである。このシノプシス、物語の設定は、1995年になってから監督ジム・ジャームッシュ、主演ジョニー・デップにより、『デッドマン』においてアレンジされることになる。

013 「神様! 奇跡だ。見ろよ、銀貨が銃弾を止めたんだ」
作品:『荒野の1ドル銀貨』(1965) UN DOLLARO BUCCATO
解説:
マカロニ・ウエスタンのアイドル、ジュリアーノ・ジェンマがモンゴメリー・ウッド名義で出演した出世作。以降、彼は“マカロニ・ウエスタンの貴公子(プリンス)”と呼ばれ、特に日本での人気は大変なものだった。映画雑誌の表紙はアラン・ドロンと人気を二分し、紳士服のコマーシャルにも出演、スズキはスクーターに彼の名を冠して、今も後継機が“スズキ・ジェンマ”として発売中である。ジュリアーノ・ジェンマも今では74歳(2012年現在)。現在、彼はイタリアでは彫刻家として評価されており、出演数は減ったが、今もなお映画やTVシリーズ等に出演している。
 南北戦争が終わって、二人の兄弟が西部へ向かう。弟の後を追い、イエローストーンの町にたどり着いた主人公ゲイリーは、悪党一味の奸計に遭って、弟と一緒にガンマンたちの銃弾を浴びた。開拓者の夫婦が彼らを埋葬しようとするが、ゲイリーに未だ息があるのを発見する。弟から譲り受けたお守り代わりの1ドル銀貨を胸ポケットに入れていたのが、命を救ったのだ。その時の開拓者の台詞である。
 小道具の絶妙な使い方、哀愁を帯びた主題曲、そして、ジュリアーノ・ジェンマの新鮮な魅力。丁寧に作られ、ジェンマの最も良いところが存分に活かされた、マカロニ・ウエスタンの佳作である。

014 「俺はフェアな男だ」
作品:『暁の用心棒』(1967) UN DOLLARO FRA I DENTI
解説:
マカロニ・ウエスタンには、頻繁に画面に登場する小道具、重要なモチーフとなる象徴的アイテムが多数存在する。拳銃やライフルは無論のこと、ガンマンが大切にするカウボーイ・ハットとガンベルト、ブーツ、友情を表すウイスキー、テキーラの回し飲み、シガーとマッチの炎のやり取り、ミスマッチ感を引き出すためか、ガンマンが差す日傘、カトリックのバックボーンがあるので、宗教的象徴としての十字架や聖書…様々な小道具、アイコンが溢れる中で、『荒野の1ドル銀貨』で効果的な使われ方をして以来、度々見かけるようになったのが、1ドル銀貨である。『拳銃のバラード』では主人公のカウボーイハットのハットバンドの飾りに使われ、『ガンクレイジー』では主人公がヒロインに投げ渡す際にクロース・アップされて、皮肉の効いた台詞と共に次の場面展開につながった。
 本作の原題は、“歯の間の1ドル”。米国の1ドル銀貨は大きく、小道具として非常に目立つ。本作では主人公の“ペイバック”の象徴として扱われた。山賊アギラと結託、合衆国騎兵隊の金貨略奪に成功した「よそ者」は山賊一味に分け前を要求する。だが、アギラは「よそ者」に報酬だと言って1ドル銀貨を投げ渡し、殴り、蹴り倒してから放り出した。それから始まる「よそ者」の報復戦が、この物語の骨子。死闘の末、山賊一味を殲滅した主人公は、アギラの歯に1ドル銀貨をくわえさせ、「借りは返すぜ。俺はフェアな男だ」と捨て台詞を吐いて、町を去って行く。アギラは常々部下に、「俺はどんな男だ?」と聞いていた。その都度手下は「フェアな男ですぜ、ボス」と返答するのだが、その常套句も含めて、主人公は借りを返すのである。
 ちなみに、マタイ福音書には銀貨をくわえた魚をイエスが釣り上げた逸話が紹介され、マフィアの間では、裏切り者を処刑する際に、魚をくわえさせるのがしきたりとなっている。

015 「俺に用があれば、二階へ来い」
作品:『必殺の用心棒』(1966) SUGAR COLT
解説:
南北戦争直後。北軍狙撃連隊100名が、凱旋途中に忽然と姿を消す。謎を探るために、元ピンカートン探偵事務所の腕利きエージェント、“シュガーコルト”が派遣された。復讐に燃えるガンマンや情無用の用心棒だけが、マカロニ・ウエスタンの主人公ではない。このシュガーコルトのように、女にも銃にも強く、軽妙洒脱、煮ても焼いても食えない主人公がたまにイタリア製西部劇には登場する。
 最初は気の弱い医者を装い、怪しげな町に潜入するシュガーコルト。無法者たちにぼこにされ、酒場女にもバカにされる体たらく。その彼が正体を現した時に言うセリフがこれ。打って変わって目つきもシリアスになり、言葉遣いもチェンジ。ガンマン3人を早撃ちであっさりと片付けた後に、この捨て台詞を吐く。彼は酒場の二階の宿に寝泊まりしているのだ。正体を変える度に主人公が階段を下りてくる舞台設定も巧い。その後、物語は人質に取られた兵隊たちを単身救いに行く、『沈黙の戦艦』的な展開となる。人畜無害と思えた主人公が実は百戦錬磨の猛者で、登場人物や観客の予想を裏切って大活躍をするあたりも、スティーヴン・セガールが扮したキャラクター、ライバックと重なる。実際、シュガーコルトを演じたハント・パワーズは、マカロニ・ブームの後に米国に戻って、『スパイダーマン』や『バットマン フォーエヴァー』などのハリウッド製アクション映画で脇役として今もなお活躍中だ。

016 「俺は帰って来たぜ」
作品:『続・荒野の1ドル銀貨』(1965) IL RITORNO DI RINGO
解説:
ジュリアーノ・ジェンマは、初期に出演したマカロニ・ウエスタンの芸名をアメリカ人らしく聞こえるように、“モンゴメリー・ウッド”とした。最初に名乗ったのが『夕陽の用心棒』で、実は本作はその続編に当たる。『荒野の1ドル銀貨』とは関係が無いのだ(日本の配給会社が勝手につけた題名で、混乱が生じた)。したがって、物語に1ドル銀貨は出てこない。主人公がお守り代わりに胸ポケットに入れているわけでもない。前作『夕陽の用心棒』の主役リンゴが南北戦争後、故郷に帰還したところから始まるので、この物語の原題は“リンゴの帰還”となっている。
 『夕陽の用心棒』のリンゴは流れ者の一匹狼だったが、本編ではいつの間にか結婚していて子供もおり、その家族を奪われた男が名誉を取り戻し、家族と一緒になる迄の復讐劇が描かれる。残酷描写もより洗練され、メキシコ人パコ一味に右手をナイフで刺されたリンゴが、左手で銃の練習を積み、反撃に備えるところがクライマックスの大きな見せ場となる。逆光にすくっと立つ、リンゴのシルエット。死んだ筈の男が蘇り、メキシコ人たちは恐れおののく。騎兵隊の制服に身を包み、左手に拳銃を、右手に散弾銃を抱えて、彼は砂塵吹きすさぶ故郷の町を戦場に変えていく。その時の見得を切るリンゴの決め台詞だ。

017 「人は誰でも死ぬ。それが早いか、遅いかだ」
作品:『二匹の流れ星』(1967) 10,000 DOLLARI PER UN MASSACRO
解説:
冒頭、カモメが飛び、波が打ち寄せる海岸で、集金稼ぎのジャンゴが隣の男に話しかける。「見ろよ、海だぜ」だが、隣の男は答えない。ジャンゴが始末したばかりの、賞金首の死体だからだ。
 マカロニ・ウエスタンには独特のムードを持った作品がいくつも見られるが、白いマフラーを首に巻いた二丁拳銃の賞金稼ぎ、ジャンゴを主人公とした本作は、中でも群を抜いている。雷鳴轟く嵐の夜の撃ち合いや、タイトル直後の荒野で宿敵と初めて顔を合わせる描写、クライマックスの砂嵐が吹き荒れるゴーストタウンでの決闘など、印象深いシーンが幾つも出てくる。ジャンゴは1万ドル以下の仕事は引き受けない。それで、宿敵マヌエルとポーカーをする際も落ち着いたものだ。この時点でマヌエルの賞金は3千ドル。「でかい魚には雑魚が群がる」とジャンゴは言う。子分たちの賞金を合わせると、合計で700ドルか800ドルにはなると言うのである。それでも、彼は食指を動かさない。1万ドル以上稼がなければ、命は賭けないのが信条なのだ。ジャンゴに脅され、マヌエルの隠れ家を口走った手下は、命乞いをする。「俺が話したことは黙っていてくれ。バレたら殺される」 それに対して、ジャンゴは上記の台詞をクールに言い放つ。

018 「ファーガソンは君の敵ではない。私たち皆の敵なのだ」
作品:『殺して祈れ』(1967) REQUIESCANT
解説:
ネオ・レアリスモの時代からイタリア映画界に関わり、『山いぬ』『目をさまして殺せ』など硬派の作品で知られる社会派カルロ・リッツァーニが撮った、2本のマカロニの内の1本。主役に『群盗荒野を裂く』のクールな殺し屋役で注目を浴びたルー・カステルを招き、エキセントリックな悪役を『皆殺し無頼』のマーク・ダモンが怪演。そしてメキシコ人革命家に『テオレマ』『ソドムの市』の奇才ピエル・パオロ・パゾリーニ監督が扮し、彼の参加により、本作はよくあるマカロニ・ウエスタンの枠を超えて、奇妙な味わいを持つ西部劇として完成する。
 悪党ファーガソンの姦計により、メキシコ人たちがガトリング銃で皆殺しにされる。ただ一人生き残った少年レキスカントはアメリカ人牧師に拾われ、立派な若者に成長した。生まれながらの射撃の才能に秀でた彼は、次々に悪党共を撃ち倒すと、聖書を片手に祈りを捧げるガンマンとなる。そして彼は、同胞を皆殺しにした復讐の相手を探し出すため、一人荒野に旅立つ。この台詞は復讐を遂げたレキスカントに、メキシコ人革命家が諭す言葉。左翼運動家であったパゾリーニ扮するこのメキシコ人指導者が最期にふるう演説により、本作はより寓話めいた余韻を残して幕を閉じる。

019 「最初の質問、最初の答え」
作品:『行け、野郎、撃て!』(1972) ANDA MUCHACHO, SPARA!
解説:
緻密な脚本、練り上げられたストーリー、個性的な登場人物たちの相関関係が、最期の決闘シーンになって初めて明らかにされる、未公開マカロニの傑作。復讐譚の体裁を取ってはいるが、一人の無法者が癒され、再生する感動的な話でもある。
 謎めいた流れ者が町に現れ、ある男の名をつぶやく度に撃ち合いとなり、その場から消え去る。ポーカーの最中の流れ者を保安官が尋問するやり取りは、緊張をはらんだものだ。何故撃ったと聞く保安官に、彼は答える。
流れ者「最初の質問、最初の答え。古い友達の挨拶代わりだ」
保安官「友達とは誰だ?」
流れ者「第二の質問、第二の答え。そいつの名は…」
 彼が男の名前を答えた途端に保安官の顔色が変わり、弾丸が飛び交う事態となる。回想シーンで主人公の隣にいつも現れる、背中を向けた男は誰か? 悪党一味に囚われている美女は誰なのか? 主人公がタイトルバックで逃走している時、足首に付けられた足かせが対になっているのは何故か? その全ての疑問が、最期の決闘の際の回想シーンで、主人公の地獄の過去と共に判明する。

020 「俺たちは遠回りをした」
作品:『傷だらけの用心棒』(1968) CIMITERO SENZA CROCE
解説:
「十字架無き墓場」の原題を持つ、フィルムノワール調ウエスタン。冒頭、モノクロ画面の荒野を疾走する3人のカウボーイ。8人の男たちに追われ、台詞はなく、無言で、馬の蹄の音しか聞こえない。ただ事でない導入部から一転、主題歌が流れ始めるが、その歌詞の中味は「友を殺した悪党を見つけたら、必ず殺す。命を託した拳銃は、奴の血潮で深紅に染まる…」という物騒なものだ。目の前で夫を殺された女が、引退した殺し屋マヌエルに復讐を依頼する。ゴーストタウンに隠れ住む殺し屋は、「復讐は虚しく苦いだけだ」と諦めるよう説得するが、女の決意は揺らがない。マヌエルの台詞らしい台詞はこの時だけで、これ以降、彼はほとんど喋ることが無い。行動あるのみ。撃ち合いの前に、黙々と黒の革手袋をはめるマヌエル。黙って手袋をはめ、黙ったまま相手を撃ち、黙ったまま立ち去る。殺された夫はマヌエルの親友だった。ほんとうはマヌエルの方を愛していた女は、銃弾を受けて虫の息の際に自分の気持ちを伝える。マヌエルはこの台詞を女に言った後、最期の決着をつけるべく、荒廃したゴーストタウンでの決闘に赴く。
『野獣暁に死す』『五人の軍隊』、『ウエスタン』(ベルトリッチと共作)などと共に、若き日のダリオ・アルジェントが脚本を執筆した1作。

021 「勇気を持て、とだけ」
作品:『ミネソタ無頼』(1964) MINNESOTA CLAY
解説:
ドラナー監獄に収容され、強制労働の日々を送っていた早撃ちのミネソタ・クレイ。無実を証明するために脱獄し、メサの町に向かう。途中、ならず者に襲われた女を助けた彼は、女からメサの町には行くなと忠告される。町はフォックスと5人の殺し屋たちに牛耳られていると言うのだ。そのフォックスこそが、クレイの無実を証明できる唯一の生き証人だった。そして、フォックスに会ったクレイは真実を知る。フォックスが彼を罠に嵌め、罪に陥れたのだ。眼病に冒され、少しずつ視力が衰えゆくクレイ。ついに殆ど目が見えぬまま、フォックスと5人の殺し屋たちに決闘を挑むことになる。
 銃の撃鉄を起こす音や拍車の音を頼りに一人ずつ敵を倒し、満身創痍になりながらも生き残ったクレイが、町を去ってゆく時に遺した言葉。長年の友人から頼まれ、クレイは生き別れの娘とその恋人に伝言を託す。
友人「何か伝えておくことは?」
クレイ「勇気を持て、とだけ。それがいちばん大切なことだ。いつの世も、誰にでも必要なことだ」

022 「俺ぐらいのトシになると、知って知らないフリができる」
作品:『怒りのガンマン/銀山の大虐殺』(1969) IL GRANDE DUELLO
解説:
マカロニ・ウエスタンは公開時のタイトルが複数存在するものが多く、また公開国によっても異なる題名を持つ作品が多い。作品数も増えていく中、新たな題名を考え出すための各国の宣伝マンの苦労も色々あると思われる。例えば、『復讐のガンマン』の伊・原題は“LA RESA DEI CONTI”。直訳すると“ペイバック”、すなわち“報復”を意味するが、これは元々『夕陽のガンマン』の劇伴曲「ガンマンの祈り」の曲名でもあった。この様に他国のタイトルや曲名がマカロニのタイトルに影響を与えている例が幾つかあって、本作もそのひとつ。『復讐のガンマン』の米・原題は、“THE BIG GUNDOWN”。イタリア語に翻訳すると、本作の伊・原題“IL GRANDE DUELLO”となる。意味するところは、“大いなる決闘”。劇場未公開の本作は『怒りのガンマン/銀山の大虐殺』のタイトルでTV放映され、『ガンファイター』のタイトルでビデオ化された。ルイス・バカロフ作曲の主題曲がタランティーノ監督の『キル・ビルVol.1』に使われたことで、名が知られるようになった。
 鉱山の町を舞台に、町を牛耳るサクソン三兄弟と元保安官の死闘を描く。『怒りの荒野』や『新・夕陽のガンマン』同様、本作でもリー・ヴァン・クリーフは貫禄のあるガンマンを余裕たっぷりに演じ、無実の罪を着せられた若者をバックアップする。この台詞は、賞金稼ぎに追い詰められた若者に対し、元保安官クレイトンが諫める時に言う。たいした内容ではないのだが、リー・ヴァン・クリーフが血気盛んな若者に向かって静かに言うと、急に言葉が重みを持ち始めるのだ。

023 「間合いを詰めろ」
作品:『続・復讐のガンマン/走れ、男、走れ!』(1968) CORRI UOMO CORRI
解説:
リー・ヴァン・クリーフ主演の快作、『復讐のガンマン』の実質的な主役はトーマス・ミリアンであり、彼が演じる際立ったメキシコ人キャラクター、クチーヨの人気に推されて作られたスピン・オフ・ストーリーが本作。クリスティが歌う『復讐のガンマン』の主題歌は「RUN, MAN, RUN」と言うが、その曲名が、そのまま続編的な性格を持つ本作の伊・公開題名となった。本作でもナイフ使いの若者クチーヨは、メキシコの荒野を走りに走りまくる。
 革命軍の軍資金となる金塊の行方をめぐり、革命軍と山賊、賞金稼ぎにフランス人殺し屋二人組から追われるクチーヨ。彼を追い詰めたフランス人殺し屋コンビは、クチーヨに決闘を挑む。クチーヨの武器はナイフだが、殺し屋の武器は拳銃だ。ナイフより拳銃の方が射程距離において有利なので、殺し屋はなるべく距離を置いて勝負を賭けようとする。卑怯だと文句を言っても、「ナイフを選んだのはお前の方だ」と殺し屋は取り合わない。その時、崖の上からライフルの銃声が聞こえ、殺し屋の足下に着弾する。同じくクチーヨを追っていた、元保安官の賞金稼ぎキャシディの登場だ。不公平な勝負と見てとったキャシディは、殺し屋に「もっと前へ出ろ」と警告する。それ迄クチーヨの敵に見えていた彼が、クチーヨの味方に変わった時の感動的な台詞。この時、キャシディはクチーヨの同志となり、金塊を革命軍へ無事届ける役割を引き受けるのだった。

024 「ヤンキーと露助が手を組めば怖いものなしだ」
作品:『荒野の無頼漢』(1970) TESTA T'AMMAZZO, CROCE...SEI MORTO...MI CHIAMANO A'LLELUJA
解説:
復讐に燃えるガンマンのドラマチックなストーリーだけが、マカロニ・ウエスタンではない。『黄金無頼』『続・復讐のガンマン』の様に、プロフェッショナル同志の連帯感や男たちの友情を爽やかに描いたもの、そして、本作の様に多彩なキャラクターが入り乱れる、荒唐無稽でコミカルで、滅茶苦茶だが娯楽に徹した痛快アクションも数多い。膝下まで隠れるロングコートに黒ずくめのスーツ姿、一匹狼のキザな主人公アレルヤがメキシコ革命を舞台に、“ミシンGUN”を武器に縦横無尽に大活躍。脇を固めるのは、自称コサック騎兵でロシアの皇太子アレクセイ・ワシロービッチ、尼僧に化けた合衆国の美人スパイ、山賊なのか革命家なのかよくわからないメキシコ人…まるで、モンキー・パンチの劇画の世界を実写化したかの様だ。
 革命の軍資金となる消えた宝石の行方をめぐり、対立するアレルヤとアレクセイ。だが、「敵の敵は味方」とばかり、時には手を組み、時には裏切り、革命軍一派や武器商人の雇ったガンマンたち、メキシコ政府軍を蹴散らし、最期の大活劇に突入する。バラライカに隠した機関銃と必殺兵器“ミシンGUN”が唸り続けるアクションのさなか、お互いに利用価値があると考えたアレルヤは、アレクセイに一緒に手を組まないかと提案する。最期は裏切りもなく、宝を山分けにして、二人が揃って荒野を去って行く爽快なエンディングが受けたのか、続編『続・荒野の無頼漢』も作られ、新たなキャラクター“トレセッテ”が演じる新シリーズも制作された。マカロニ・ウエスタン後期のコミカル調路線が、その後しばらくの間は、イタリア映画界をおおいに潤すことになる。

025 「西部には決闘が必要なんだ」
作品:『ミスター・ノーボディ2』(1975) UN GENIO, DUO COMPARI, UN POLLO
解説:
セルジオ・レオーネが製作、音楽はエンニオ・モリコーネ。主演もテレンス・ヒルで、主役の格好もキャラクターも前作と似通った雰囲気。だが本作は『ミスター・ノーボディ』の正式な続編ではなく、むしろフランス映画『バルスーズ』の西部劇的解釈。結果として、『ミスター・ノーボディ』の姉妹編といった印象の小品に仕上がっている。監督に『群盗荒野を裂く』の名匠ダミアーノ・ダミアーニを迎え、モニュメント・バレーでロケを敢行。当初は気合いが入っていたが、撮影直後ネガ・フィルムが盗難に遭うなどのアクシデントに見舞われ、イタリアでの興行成績は振るわず、日本では未公開に終わった。
 この台詞は主人公ジョー・サンクス(テレンス・ヒル)が名うてのガンマン、ドク・フォスター(クラウス・キンスキー)に決闘を挑む時のセリフ。続けて、彼は語る。
「西部では決闘がどう進行するか、知ってるだろ? 二人の男が酒場から出て、背中合わせに立つ。一人が足を開いて立つ。見物人は怖くなって遠くから眺め、誰かがラッパで葬送行進曲を吹き始める(ラッパの口真似)。辺りは静かになり、風の音だけが聞こえてくる(風の口真似)…」
 さらに語り続けようとするサンクスに対して、ドクは言う。
「続きを教えてやる。数分後、お前は死んでるぜ」

026 「回想録の続きを話せよ」
作品:『星空の用心棒』(1967) I LUNGHI GIORNI DELLA VENDETTA
解説:
黒澤明の『用心棒』を西部劇に翻案した『荒野の用心棒』がマカロニ・ウエスタン・ブームのきっかけとなったが、世界の名作を物語の原型に用いているイタリア西部劇が他にも幾つか封切られている。『ロミオとジュリエット』は『荒野の墓標』となり、『カルメン』は『裏切りの荒野』に、『ハムレット』は『ジョニー・ハムレット』となった。そして、『モンテ・クリスト伯』をマカロニの世界に持ち込んだのが、“復讐の長い日々”の原題を持つ本作である。元々の原作が復讐ものなので、西部劇に設定を移しても違和感は無く、オーソドックスで痛快なリベンジ・ストーリーとなっている。ジュリアーノ・ジェンマ主演作らしく、彼の個性的でキザな台詞で、復讐ものながらも陰鬱な感じになっていないのが良い。だが、復讐を遂げる時のジェンマの目つきは、ふだんの快活な印象を捨て去り、仇に向かってぞっとするほど冷ややかな視線を投げつける。
 復讐相手の一人、悪徳保安官ダグラスの背後に忍び寄るテッド。
テッド「何を書いている、ダグラス? 回想録か?」
ダグラス「そうさ。おかげでいいエンディングが書けそうだ」
 振り向いた保安官の手には、銃が握られている。だが、銃とホルスターに仕込んだトリックで、返り討ちにするテッド。彼は撃たれて転がるダグラスに向かって冷徹に言う。 テッド「さあ、続けろよ。回想録の続きを話せよ」

027 「死者を三度笑ったな。次に笑えば、お前は死ぬ」
作品:『ジョニー・ハムレット』(1968) QUELLA SPORCA STORIA NEL WEST
解説:
『ハムレット』を西部劇に翻案して、エンツィオ・G・カステラッリが監督した未公開作。伊原題は、“西部の口にするのも汚らわしい物語”。シェイクスピアの有名な悲劇を巧みに翻案、古典的な物語の面白さにマカロニ・ウエスタン特有の激しいGUNアクションを加え、独特な西部劇に仕上がった。原案の遺伝子を遺したせいか、登場人物たちは芝居がかった台詞を多用する。主人公を演じるのは、アンドレア・ジョルダーナ。イタリア製西部劇の出演作は4本しか無いが、いずれも劇場未公開で、日本での知名度は薄い。だが、激情的なキャラクターがよく似合う端正な容貌と鋭い目つき、マカロニ・ウエスタンの気配が濃厚でシリアスな、マニア好みの作品に出演したことで、ディープなファンには人気が高い。
 元ネタが『ハムレット』ということで、当然、ローゼンクランツとギルデンスターンも登場する。父の墓の前で、ならず者二人組ロスとギルドにからまれる、ハミルトン家の長男ジョニー。南北戦争から帰還したジョニーは、父の死の真相を未だ知らない。故郷に戻った彼を待ち受けていたのは、父親が亡くなった後、母親と財産を奪った叔父クロードと手下たちだ。二人組に父親を侮辱され、それ迄ほとんど台詞の無いジョニーが発したのが、この台詞。アンドレア・ジョルダーナの顔のアップと刺すような視線、そしてこの台詞で、一気に場面の緊張感が高まって行く。
 ちなみに、英国人はジョークが大好きで、ひとつのジョークで三度笑うという小咄がある。一度目はジョークを聞いた時で、二度目はそのジョークのどこが面白いかを説明された時、三度目は帰宅して、そのジョークの意味を理解した時…というものだが、「英国人」はその都度、「アメリカ人」「日本人」に置き換えられるようだ。

028 「30万ドルの黄金か…。一人には多すぎるが、大勢の死人には少なすぎる」
作品:『ジョニー・ハムレット』(1968) QUELLA SPORCA STORIA NEL WEST
解説:
同じく、『ジョニー・ハムレット』から。作品の冒頭で旅芸人の一座の元、悪夢にうなされている主人公ジョニー。陽が傾く海岸、アクロバットの芸を披露する男や、美しい女優、化粧をした男たち…フェリーニ映画を彷彿とさせるシーンだ。座長は寝言で父を繰り返し呼ぶジョニーを見ながらつぶやく。「妙な男だ。戦争帰りの男が寝言で呼ぶのは女の名前だが、こいつは父親を呼ぶ」。その後、目覚めたジョニーは追いはぎの男たちを素早く射殺し、旅芸人たちを置いて、一人海岸を去って行く。マウリツォ・グラフが歌う主題歌をバックに、颯爽と海岸を疾走するジョニー。タイトルがかぶさって、物語が始まる。
 『ハムレット』における仇役、叔父のクローディアスは、本作では射撃の名人クロードに置き換えられ、ドイツ人の演技派ホルスト・フランク(『皆殺しのジャンゴ』『怒りのガンマン/銀山の大虐殺』)が熱演した。ジョニーの母親を兄弟から奪ったクロードだったが、実は彼女を心から愛していたのである。だから、目の前で彼女を部下に撃たれたクラウディオは、怒りに狂う。だが、その時彼に銃を突きつけていた母親を撃つのは、部下としては当然の行動だ。彼は怒りの表し方として、くわえていた葉巻を自分の手のひらに押しつけ、消す。そんな濃い仇役と対決するジョニーが、物語終盤に隠し場所から黄金を見つけて、逃走を図ろうとするクロードに向かって言う台詞。単に金だけが目的だけではない独創的な悪役を、ホルスト・フランクはこの台詞の後の絶妙な死に様で表現する。

029 「私が嘘をついたら信じてくれるのね」
作品:『裏切りの荒野』(1968) L' UOMO, L' ORGOGLIO, LA VENDETTA
解説:
オペラ化もされたプロスペル・メリメの小説『カルメン』を下敷きに、フランコ・ネロが出演した。マカロニ・ウエスタンの体裁を取ってはいるが、スペインを舞台に繰り広げられる男と女の愛憎劇である。バッツォーニ兄弟の格調高い演出と流麗なカメラワークが、カルロ・ルスティケリの情熱的なサウンドトラックと相まって、西部劇風に味付けされた上質なメロドラマとして完成された。
 実直なセビリアの軍曹ホセが恋に墜ちるジプシー娘、カルメンに扮するのは、ティナ・オーモン。撮影当時21歳だった筈だが、フランコ・ネロやクラウス・キンスキー、フランコ・レッセルといったアクの強い役者に囲まれても、一歩も引けを取らぬ堂々とした演技で、魔性の女を演じている。初めてカルメンと一夜を共にした、ホセ。既に彼女に夢中になっているホセとは裏腹に、カルメンはマイペースだ。「あら?まだいたの?」とからかう素振りを見せたかと思えば、真剣な表情で「もう会わない方がいいわ。住む世界が違うのよ」と男を拒み、言葉とは裏腹にひしと抱きつく。ホセが「もう会うのは止そう」と言えば、「残念な気がするけど…」と誘うような視線。数分後には「なぜ愛してしまったのかしら? 自分すら愛したことがなかったのに…」と媚びを見せ、ホセが「嘘だろ?」と言うと、「私が嘘をついたら信じてくれるのね」と答え、大きな目でじっと見つめるのである。ティナ・オーモンの天性の魅力もあって、ホセも観客も、もうカルメンにめろめろ。そして、ホセはこの若い女の虜となって、上官を刺し、軍隊から脱走し、盗賊に身をやつす羽目に陥っていく。

030 「夢を思い出す時もある」
作品:『荒野の棺桶』(1966) UNA BARA PER LO SCERIFFO
解説:
クリント・イーストウッドは『殺しが静かにやって来る』を再映画化したがっていたが、リメイク権を取得できず、断念したと言われる。その代わり『シノーラ』という、雪山を背景にモーゼル銃が活躍する、何となく『殺しが静かにやって来る』を彷彿とさせるシチュエーションのハリウッド製西部劇に出演した。その話が背景にあってか、イーストウッドがマカロニ・ウエスタンをモチーフとしている噂は絶えず、例えば、ガンマン姿の亡霊が復讐を果たす『DJANGO IL BASTARDO』(未公開)は『荒野のストレンジャー』の元ネタではないのか…と言った話がファンの間では囁かれ続けている。伊原題が“シェリフのための棺桶”となる本作もそのひとつで、ラストシーンで主人公の元保安官は、水の底に保安官バッジを捨て、町を立ち去る。『ダーティハリー』のラストに影響を与えたのではないか…との噂もあるのだ。
 アンソニー・ステファンはその無骨なキャラクターのせいか、ジェンマの様に気の利いた台詞を呟くのでもなく、イーストウッドの様にクールなワイズクラックを吐くでもない。ただ黙々と行動、必要最小限の言葉しか言わない。この台詞は正体を隠し、強盗団に潜入した主人公テキサス・ジョーが、暴力を振るわれる一味の女をかばって言う台詞。GUNさばきも一流、腕っ節も強いジョーは、女にも優しい。強盗団の一味になり、自分の人生が「こんな筈じゃなかった」と泣く女をかばい、ジョーはならず者に諭す。単に女に対する優しさから発露されたものではなく、その後、彼の不幸な境遇を思うと、この台詞は自分自身に対するものでもあったのだと観客は気付く。
 この作品に登場する台詞のある女は3人しか出てこないが、その3人全員からテキサス・ジョーはモテモテである。面白くないならず者たちが、ジョーをリンチでボコボコにするのが判らないでもない。

031 「商談成立だな」
作品:『十字架の長い列』(1969) UNA LUNGA FILA DI CROCI
解説:
ジェンマほどではないにせよ、同じく女性にモテモテのステファンが、本作では『君主論』を書いたことで知られるルネッサンス期の政治思想家ニッコロ・マキャヴェッリの子孫である美女、ニコレッタ・マキャヴェッリに惚れられる。だが、そこは、アンソニー・ステファン。ラストシーン、主人公に視線で訴える彼女の想いを汲まず、「使い道はわかるな」と分け前の金を与えて、彼は巨漢の相棒と去って行くのだ。その相棒サムに扮するのは、マカロニ・ウエスタンでは悪役に扮することの多い(『夕陽のガンマン』ではジャン・マリア・ヴォロンテの手下、『殺しが静かにやって来る』ではルイジ・ピスティッリの子分)マリオ・ブレガ。
 イタリア製、アメリカ製に関わらず、西部劇において酒場で男たちが注文するのはウイスキーと相場が決まっている。たまにぬるいビール、あるいは竜舌蘭から作られたメキシコの強い蒸留酒テキーラ。ジュリアーノ・ジェンマあたりはわざと喧嘩を買うためにミルクを注文したりするが、ステファン扮するブランドンはバーテンダーにワインを注文する。目の前には下着姿(山賊一味に身ぐるみ剥がされたらしい)の巨漢サム。彼は賞金稼ぎ同志、一緒に手を組もうとブランドンに提案する。直後に周囲を取り囲んだメキシコ人たちとの間で、激しい銃撃戦。ブランドンとサムの二人のガンマンは、鮮やかな手並みで山賊たちを一掃する。初顔合わせのブランドンは、相棒に向かってこの台詞を言う。何度観直してもストーリーはさっぱり判らないが、イタリア製西部劇独特の雰囲気が濃厚な、ステファンの台詞回し、GUNプレイを観るだけで御機嫌な未公開作。牧師の格好で七連装ノックボレーガンを用いる、敵役の殺し屋も格好良い。

032 「欲しいのは金だけだ。感謝はいらない」
作品:『皆殺しの用心棒』(1969) UNA DOPO L'ALTRO
解説:
埃だらけだが銃の名手の“誰でもない”ガンマン、ナイフ使いのメキシコ人、ポーランド人傭兵、自動拳銃を愛用する口の不自由な賞金稼ぎ、復讐を誓うナバホ族の若者…キャラの立った主人公が多いマカロニの世界だが、本作の主人公スタンもその一人。仕立ての良いスーツを着てネクタイを締め、インヴァネス・コートを羽織ったガンマンだが、眼鏡をかけている。極度の近視なのである。それなので眼鏡を奪われると何も見えず、窮地に立たされる。酒場で殴られて眼鏡を踏みにじられると、冷静にコートの内ポケットからスペアの眼鏡を取り出し、かけ直してから、相手を殴り返す。そして、マカロニの主人公でここまで信用のおけない男も珍しい。態度は不遜、敵に対する態度も容赦ない(ダイナマイトをくくりつけ、遠くから狙撃して木っ端微塵…といった残虐行為を平気でする)。白人には平気で嘘をつくが、メキシコ人には何故かフレンドリーだ。入り組んだストーリー、脇の脇まで性格付けがされた個性的な登場人物たち、派手なアクション…TV放映のみで劇場未公開されなかったのが不思議な面白さである。
 町の銀行がメキシコ人たちに襲われ、出納係が殺される。その殺された男を訪ねて、正体不明のガンマンが町にやって来る。その男スタンは、あっという間に殺人犯のメキシコ人の死体を馬に乗せ、町に戻って来た。スタンは町の人々の信頼を勝ち取る。「仕事が早いな」と言われると、「時間給で考えている」と返答、「保安官にならないか? 町の皆が希望している」と言われたのに対し、この台詞を吐き捨てる。

033 「命も張れば、意地も張る。それが男というものさ」
作品:『続・さすらいの一匹狼』(1965) ADIOS GRINGO
解説:
ガンマン、用心棒、無法者、賞金稼ぎに殺し屋…イタリア製西部劇のヒーローは、その殆どが拳銃に生きる一匹狼で、その属性はアウトローでほぼ占められる。だが、本作の主人公ブレント・ランダースは珍しくカウボーイ。無法者でも、拳銃使いでもない。しかし、その設定に説得性があるのは、マカロニ・ウエスタンでは物語開始後、数分間だけである。イタリアには牛の群れが無いので苦労してスクリーンに登場させたものの(それでも10数頭しか出て来ない)、開幕早々主人公は牛泥棒の烙印を押され、殺人犯の濡れ衣を着せられる。あっという間にお尋ね者となり、無実の罪を晴らすために、いつの間にか拳銃とライフルの名人となって、敵をバッタバッタと撃ち倒していく。本作は公開当時、配給会社の興行上の理由で、『さすらいの一匹狼』の続編にさせられてしまったが、実は『荒野の1ドル銀貨』と同じスタッフ&キャスト。主人公も相手役の女優も、敵役から端役に至るまで、同じチームで作られている。主人公がカウボーイなので、「俺は善良な市民だ」などという、まるでマカロニの主人公らしからぬ台詞を吐いたりもするが、いざとなると根性を発揮。この台詞で、保安官と心が通じ合ったりもする。同じ台詞をフランコ・ネロやジョージ・ヒルトンが言ってもまるで説得力は無いが、善良そうなジュリアーノ・ジェンマが言うと、物語に真実味が感じられてくる。

034 「この町では俺が法律だ」
作品:『無宿のプロガンマン』(1966) POCHI DOLLARI PER DJANGO
解説:
娯楽映画が消耗品であった1960年代、マカロニ・ウエスタンの公開題名はまったく内容に関係が無く、公開国の緒事情で勝手に付けられていた。“ジャンゴのために少しのドルを”との原題を持つ本作もそのひとつ。『続・さすらいの一匹狼』の主人公が賞金稼ぎでないのと同様に、この作品にジャンゴは出て来ない。伊オリジナルの主人公名はレーガン。ドイツでは『続 荒野の用心棒』のヒットにより、多くのマカロニ作品の主人公名がジャンゴにさし変わった。しかしながら、保安官に間違えられた賞金稼ぎが活躍する本作の日本公開題名は、実に正しい。初期のアンソニー・ステファン出演作はハリウッド製西部劇のコピーが多く、その結果、意外に物語の骨子がしっかりしていたりする。
 モンタナを舞台に、牧場主と農民との対立を背景にした本作品。同じテーマは『シェーン』や『天国の門』などのハリウッド映画でも度々描かれてきた。だが、そこはマカロニ・ウエスタン。主人公はあくまで賞金稼ぎであり、成り行きからちゃっかり保安官になりすまして、対立するグループ同士を和解に導くのである。それでこの台詞の様な、まるでハリウッド製西部劇の主人公みたいな言葉を語る羽目にも陥る。最期には追いかけていた賞金首の娘と恋仲になり、町の英雄に祭り上げられるところが、実にマカロニらしいいい加減さ。こういった役柄をイーストウッドやリー・ヴァン・クリーが演じても様にならないが、ステファンがやると何となくしっくりくる。

035 「万物はめぐりめぐって、必ず元の所に戻るのさ」
作品:『ケオマ・ザ・リベンジャー』(1977) KEOMA
解説:
南北戦争後の西部の町。伝染病が蔓延する、黙示録を思わせる終末的な世界に、孤独な男が帰って来る。男の名はケオマ。虐殺されたインディアンの部族で、ただ一人生き残った孤児だ。彼は心優しい開拓者シャノンに拾われ、彼の実の息子たちと共に育てられる。だが、他の三兄弟は彼のことを快く思わず、互いに憎しみ合って生長した。これは、父親の愛情をめぐって互いに傷つけ合う兄弟たちの物語でもある。異様な設定の中で描かれる、異様な主人公。ケオマは殆ど台詞を発せず、グイド&マウリツィオ・デ・アンジェリスの陰鬱な主題歌がその都度、シーンのおりおりに流れて、主人公の内面を代弁する。
 監督のエンツィオ・G・カステラッリは、スウェーデンの巨匠イングマル・ベルイマンの作品を特に好んでいた。このマカロニ後期の意欲的な本作では、ベルイマンの代表作『第七の封印』の世界観を採り入れ、イタリア製西部劇の中では実験的な手法の、特異な作風に仕上がっている。同じ空間、同じカット内で描かれる回想シーン、フラッシュバックとスローモーションを多用したモンタージュ…。カステラッリはその後、本作で確立した演出スタイルを、同じフランコ・ネロ主演の未公開作『熊のジョナサン』で完成させた。
 この台詞は物語の冒頭、廃墟と化した町に帰って来たケオマを迎える謎の老婆(『第七の封印』に登場した死に神に相当するキャラクターらしい)から、「何故帰って来た?」と問われ、主人公が答える台詞。暗喩に満ちた物語にふさわしく、謎の言葉に始まり、エンディングも哲学的な台詞によって締められる。

036 「世の中、お喋りもいれば、憎しみを心の奥に隠す者もいる」
作品:『帰って来たガンマン』(1966) UN FIUME DI DOLLARI
解説:
北軍の軍資金を強奪したジェリーとケン。騎兵隊に追われた二人は、カードを引いてどちらかがおとりになることを決め、ジェリーが捕まった。5年の刑期を勤めたジェリーが故郷に戻った時、妻は既に亡くなり、かつての相棒が金を独り占めしていたことを知る。復讐を誓ったジェリーは名前を偽り、ケンの牧場に潜り込むが…。
 マカロニ・ウエスタンに限らず、物語は主人公だけでなく、敵役のキャラが立っていれば立っているほど盛り上がるものだが、イタリア製西部劇の場合、そのバランスが崩れて敵役の方が目立ってしまうこともたまにある。この作品も、薄い二枚目のジェリーよりは、ケン配下のメンデスの方がパワフルで印象に残る。しかも彼は部下思いで指導力もあり、なかなかいい奴なのだ。それなので、復讐の相手でもないのに何発も銃弾を撃ち込まれて、地面に崩れるメンデスを見ると、主人公の方が非道に思えるくらいである。
 この台詞は、メンデスがケンに忠告する時のもの。この時、メンデスは自分の配下に潜り込んだジェリーのことを知らないでいるが、図らずもジェリーの心情を言い当てている。出獄後、初めてケンの前に正体を現すジェリーが見得を切る場面は、本作のハイライトだ。自分の部下だと思ってた男の裏切りを知ったケンは、ジェリーに「何故裏切った?」と問い質す。カウボーイ・ハットに隠れて表情が見えなかったジェリーがゆっくりと振り向き、顔を上げながら言う。
「何故? 俺の顔を見ろ。じっくりと見て思い出せ。女房を殺され、5年もムショにいた男の顔だ。お前の欲のせいでな。…何故やったか? お前がひざまずき、命乞いをするところを見るためさ。それから、お前をなぶり殺しにするためさ」
 ジェリーはマカロニによく登場するクールでシニカルなガンマンなどではなく、激情に駆られやすい性格の持ち主だ。5年間、憎しみを心の奥に隠し続けた彼は、溜まりに溜まった鬱憤を晴らすべく、憎い相手に向かって話し続けるうちに興奮し、次第に雄弁になっていく。

037 「黙るべき潮時はよく知っている」
作品:『ワイルド・ウエスタン 荒野の二丁拳銃』(1998) DOLLAR FOR THE DEAD
解説:
『ミスター・ノーボディ』(1974)、『ミスター・ノーボディ2』(1975)の製作を最期に、イタリア製西部劇から離れてしまったかに見えたセルジオ・レオーネだったが、実はその後もウエスタンの世界から完全に足を洗ったわけではなく、実は幾つかの企画を遺している。例えば、実現はしなかったが、90分×6話のミニ・シリーズ『THE AIM OF COLT』(コルトの照準)の企画書が残っていたりする。これは南北戦争直後のメキシコ国境近くを舞台に賞金稼ぎたちが跋扈する、マカロニ・ウエスタンのスタイルを採り入れながら、かつ、史実を忠実に描いたTV向けアクション・ムービーのオムニバス企画だ。そして本作は、『暁の用心棒』のトニー・アンソニーが制作、『荒野の復讐』のジーン・クインターノが演出を担当したTVムービーで、原案をレオーネが執筆している…と言われている(タイトルにクレジットはされていない)。実際にマカロニに関わったスタッフ&キャストの思い入れもたっぷりのこの小品は、1990年代も終わりに作られた“マカロニ・トリビュート”作品の中では、最もイタリア製西部劇の遺伝子を遺した作品だ。
 瞬きもせずに敵を殺しまくる名無しの“カウボーイ”は寡黙でニヒリストだ。彼は2センテンス以上の台詞は滅多に呟かない。そんな彼に惚れ込んだ南軍敗残兵のドゥーリーは、消えた50万ドルの行方を記した4つのホルスターを探し求める旅に彼を誘う。知り合って間もない無口な男に、ドゥーリーが語りかける。
ドゥーリー「喋らないな」
カウボーイ「ああ」
ドゥーリー「俺のせいか?」
カウボーイ「…かもな」
ドゥーリー「それでも、お前だって独り言くらい言うだろ?」
カウボーイ「時々はな。黙るべき潮時はよく知っている」
ドゥーリー「どんな独り言を言うんだ?」
カウボーイ「(首を振りながら)祈りだ。神よ、お喋りから私を救い給え」

038 「あんたの事情を知らずに死にたくはない」
作品:『ワイルド・ウエスタン 荒野の二丁拳銃』(1998) DOLLAR FOR THE DEAD
解説:
同じく、エミリオ・エステヴェス主演のマカロニ・ウエスタン風TVムービーから。数々の死闘の末に4つのホルスターを揃えた、“カウボーイ”とドゥーリー。50万ドルの砂金を目の前にして、メキシコ政府軍、北軍騎兵隊、息子の復讐のために“カウボーイ”を追いかける自警団たちが入り乱れる大銃撃戦に巻き込まれる。時々、古びた写真を取り出しては眺める“カウボーイ”に、ドゥーリーは声をかける。
ドゥーリー「俺たちはたぶん殺されるだろう」
カウボーイ「………」
ドゥーリー「あんたの事情を知らずに死にたくはない」
カウボーイ「死んで同じ場所へ行ったら、話すよ」
 だがその後、“カウボーイ”はドゥーリーに、写真に写っているのは亡くなった妻と娘だと打ち明ける。牧場を明け渡すよう脅迫されていた“カウボーイ”は、銃撃戦に巻き込まれて妻子を亡くし、殺した相手を射殺したのだ。その父親が、自警団を結成して“カウボーイ”を追っていたのである。「事情」を知ったドゥーリーは覚悟を決め、“カウボーイ”と一緒に、銃をかまえて大勢の敵を迎え撃つ決意をする。



以上で、『マカロニ・ウエスタン名言集』は一段落です。残り10数作品分が書きかけで残っていますが、それらはまたいずれ♪ アディオス!


(蔵臼金助)

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