『虹に立つガンマン』 (Togetter「蔵臼金助氏による『ブレードランナー』『虹に立つガンマン』コラム再録ツイートまとめ」)


『賞金稼ぎはカリフォルニアの夢を見るか』

 『許されざる者』(92)は、クリント・イーストウッドの贖罪の映画です。今までスクリーンで倒してきた無数のガンマンたちに対する、イーストウッドの祈りだと思うのです。この作品の中で、銃で倒される相手は単なる標的ではありません。笑い、怒り、時には悲しむ、血の通った人間です。
 エンディングで“この映画をセルジオとドンに捧げる”と出た時、私は不覚にも涙をこぼしてしまいました。この映画の脚本は、『ブレードランナー』のデヴィッド・ウェッブ・ピープルズが書いています。
 『ブレードランナー』を観た方は導入部を思い出して下さい。レプリカントのレオンがフォークト=カンプフ検査にかけられ、“ブレードランナー”のホールデンを撃ち倒すシーンがありますよね。レオンはテーブルの下から銃を撃ち、弾丸はテーブルを貫通して飲み物の入ったコップを倒し、ホールデンを壁まで吹き飛ばします。このシーンの撃ち方が、『続・夕陽のガンマン/地獄の決斗』の冒頭のシーンに酷似しているのです。
 『続・夕陽のガンマン』の“THE BAD”登場シーンを観てみましょう。リー・ヴァン・クリーフがアントニオ・カサスと食事しながら彼を撃つ際、やはりテーブル越しに下から撃ち、ミネストローネの入った器が割れて中身がこぼれ、相手がひっくり返っています。
 これは偶然でしょうか? それとも、デヴィッド・ウェッブ・ピープルズの、『続・夕陽のガンマン』に対するオマージュなのでしょうか? 両方共、賞金稼ぎの話だしねえ。

 以来、『ブレードランナー』のスタッフにマカロニ好きか、関係者がいるに違いないと推測していたのですが、セルジオ・コルブッチの弟、ブルーノ・コルブッチがフランク・B・コリッシュの変名で監督した、『虹に立つガンマン』のキャストに見つけましたよ。この映画の主人公チャド・スタークを演じるのは、ブライアン・ケリー。ハンサムだけど目つきがちょっと卑しい感じの、『わんぱくフリッパー』でお父さん役を演じた俳優です。彼は、『ブレードランナー』の製作総指揮を担当していました。'60年代後半に欧州へ渡り、マカロニに出演した後、事故に遭って、半身不随になったのを機にプロデューサー業へと転向したらしいのです。
 『虹に立つガンマン』…変な題名です。劇中に虹なんて出てきません。昔「MAX20」というシリーズでマカロニのオムニバス・サントラ集が発売された時、サンタ・マリア・ロミテッリの主題曲が収録されました。曲の原題が“RAINBOW”だったので、この邦題がついたのです。英国のハードロック・グループ、ユーライア・ヒープの『虹の悪魔』という曲に、剣と銃に生きる悪魔が出て来ますが、スタークは鞭とピストルを得物としてます。
 亡くなったイラストレーターの小林弘隆さんによると、この「鞭と銃」の組み合わせは昔の冒険ものの主人公が持つ定番みたいで、“インディ・ジョーンズ”にまで受け継がれている伝統なのだそうです。
 マカロニにはよくあるストーリーで、絞首刑から逃れるためにメキシコ人の金持ちから道楽息子を捜し出すよう頼まれたスタークが、彼を捕まえ、彼が逃げ、を繰り返すうち、友情が生まれ、引き渡す時に意外な展開…という話。主人公の目つきはいやらしいし、道楽息子役のファブリツィオ・モローニは目力があり過ぎて、イマイチ感情移入出来ません。ドラマもモタモタ行ったり来たりで、マカロニ・ファンにも評価が低く、と言う事は、一般的には「映画になってないぢゃん」と言う作品なんですが、私は好きなんです。道楽息子フィデルの肖像画から本人に切り替わり、ハープシコードの序奏からジャカジャカとリズムが刻まれる“フィデルのテーマ”が流れるだけで、急速にアドレナリンが分泌。それだけで、パスタだったら軽く三皿くらいいっちゃいます。感動的な台詞もあるんですよ。夜の幌馬車の影で、未亡人とスタークが語り合うシーン。

「あなたほどの銃の使い手を一度だけ見たことがあるわ。主人が殺された時に」
「見ての通り俺はガンマンだ」
「誰にでも出来る仕事じゃない。自由があるし金にもなる」
「やめようと思ったことは? 銃を捨てれば済むことじゃないの」
「…かもな」

 賞金稼ぎの悲哀を感じさせるいいシーンです。くさいしベタだけど、ストレートに心を打ちます。この時からスタークは、生き方を変えて行くのです。所々挟まれるユーモラスな描写も観客の心を和ませ、次第にスタークへの感情移入が生まれます。相手に感情移入するのは大事なことです。『ブレードランナー』に出てくるアンドロイドと人間を識別する機械、“フォークト=カンプフ検査機”と言うのは、他人への感情移入の度合いを計量化し、人とそうでない者とを見分けるのです。スタークはこの時既に、フィデルを賞金の獲物としてではなく、一人の人間として感じるようになってきました。そんなこんながあった後、クライマックスに突入するんですが、ああ、そうか。この最後の銃撃戦を見せたかった為に、スタークのフィデルへの感情移入を計量化したいが為に、前半をだらだら演出していた訳なんですね。『恐怖の報酬』と同じ手法です。あのサスペンス映画の名作も、日常の退屈を延々描写した後だからこそ、後半のスリリングな展開が活きているのです。本作でメキシコ人金持ちに扮するのは、『恐怖の報酬』でルイジ役を演じたフォルコ・ルリです。彼の銃は、マカロニにはたまに出てくる、コルトM1861ネービーのレプリカ。金持ちの銃らしくニッケルめっきが施されています。
 マカロニの中でもけっこう派手な銃撃戦が始まります。スタークは愛用の真鍮グリップ・フレームのアーティラリーと、メインフレームも真鍮で作られたM1851ネービーの二丁拳銃で、メキシコ人たちをバタバタ撃ち倒します。延々続く銃撃戦が終わった後に迎えるのは、感動的なエンディング。スタークはついに銃を捨て、「殺すのはもう飽きた」と言い放ち、未亡人の待つカリフォルニアの牧場目指して去って行きました。
 本作が作られて14年後。事故で下半身不随になったブライアン・ケリーは俳優業からプロデューサー業に転職、2019年のカリフォルニアを舞台に、賞金稼ぎが跋扈するSFを制作することになります。
 さらに余弾になりますが、『ブレードランナー』の原作者フィリップ・K・ディックの長編小説「高い城の男」の中に、レプリカのコルト・ネービーを持つ日本人が出て来て、ここぞと言う時に敵をファニングで射殺します。映画化する時は渡辺謙に演じて貰いたいかな。
 『虹に立つガンマン』のクレジットには、だめ押しでリンカーンが遺したと言われる言葉が掲げられました。
「愛は暴力に常に打ち勝つ」
 う〜ん。やめてくれよ。ストレート過ぎて、恥ずかしいぞ。
 イタリア人はこの台詞が好きなんでしょうか? 2009年にベルルスコーニ伊首相が暴漢に襲われ、重傷を負った事件がありましたが、彼は退院時の声明にこの台詞を引用してました。ダメダメだけど好きな『虹に立つガンマン』に因み、私もこのコラムは気の利いた言葉の引用で締めくくりたいと思います。

「ある種の不完全さを持った作品は、不完全であるが故に人間の心を強く引きつける。」 村上春樹「海辺のカフカ」


(蔵臼金助)

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