『殺しが静かにやって来る』 (Togetter「蔵臼金助氏による『殺しが静かにやって来る』コラム再録ツイートまとめ」)


 『殺しが静かにやって来る』って面白いんですか? …と、フォロアーさんから無邪気な感じで質問を受けちゃいましたよ。面白いかどうかと言うと、人によって感想の分かれる作品だし、むしろ見終わって怒りに震える人も多いのではないかと思いますが、そんな質問しちゃっていいんですか? と私は言いたい。火を着けちゃいましたね。私はこの作品について語り始めると、止まらなくなるのだ。『暴走機関車』のように。『ベン・ハー』の戦車のように。『スピード』のバスのように。クラッシュするまでw 以前、『殺しが静かにやって来る』に関して喋り過ぎて、一日中連ツイし続け、大勢のフォロアーさんに去られたことがあります。その悲劇を今から再現してみよう(笑)。
 DVD用リーフレット用に執筆したものを書籍用に書き直したものですが、以前再掲した時のコラムに写真を加えて分かり易く解説してみようと思います。銃器のパーツってわかりにくいもんね。

『黎明期の自動拳銃/機械仕掛けの神』

『殺しが静かにやって来る』(1968年・イタリア/フランス合作映画)

 雪原の彼方からやって来た男が、雪に潜むバウンティ・ハンター達を一瞬のうちに返り討ちにした時、西部劇における銃器の歴史は変わりました。パッチワーク風のコートを身にまとい、首にマフラーを巻いた、その賞金稼ぎを専門に狙う殺し屋の手に握られていた銃は、スクリーン上の西部劇では初めて本格的に活躍する、自動式装填拳銃(Self-loading Pistol)だったのです。男の名は“サイレンス”、銃の名はモーゼルC96。ここでは数あるイタリア製西部劇の中でも特に異色作と言われ、ラストシーンが伝説化した、セルジオ・コルブッチ監督後期のネガティヴな魅力を秘めた傑作、『殺しが静かにやって来る』と、自動拳銃としては黎明期に開発され、特異なメカニズムが詰まったドイツ製大型軍用拳銃について解説いたします。


 なんだ、西部劇に自動拳銃を出してもいいんじゃないか…。映画製作者たちがそう思ったのかどうかは知りませんが、この後、西部劇には多くの自動拳銃が登場し始めました。同じくコルブッチ作品『豹/ジャガー』では、フランコ・ネロ扮するポーランド人傭兵セルゲイ・コワルスキーがスペイン製アストラ モデロ400を愛用。


  『豹/ジャガー』でポーランド人傭兵セルゲイ・コワルスキ(フランコ・ネロ)が愛用するアストラM400。
  スペイン製アストラM400。『ミラーズ・クロッシング』の殺し屋も使っていました。



 同じ銃を『五人の軍隊』でニーノ・カステルヌォーボが二丁拳銃で使用し、レオーネは『夕陽のギャングたち』でジェームズ・コバーンに持たせてます。この時、共演したロッド・スタイガーは貨車の中のシーンで、独裁者をブローニング・ハイパワーを使って射殺しますが、さすがはアクターズ・スタジオ出身者。リボルバーを使い慣れた山賊が、初めて自動拳銃を撃ったリアクションを演じているのは見逃せません。『豹/ジャガー』の姉妹編、『ガンマン大連合』でネロは引き続きスペイン製カンポ・ヒロを、『新・脱獄の用心棒』ではルガーも使用いたしました。“西部劇における自動拳銃最多使用役者”と認定して良いでしょう。


  『夕陽のギャングたち』で鉄道警察官が用いるオーストリア製ステアー・ハーン(上の銃です)。下は短銃身のボロ・モーゼル。ボルシェビキが好んだので、その名がつきました。

  『ガンマン大連合』でカンポ・ヒロをかまえるフランコ・ネロと、トーマス・ミリアン。
  カンポ・ヒロは『ガンマン大連合』意外で映画に出てくるのを見たことがありません。



 ハリウッド製西部劇も負けてません。『ワイルドバンチ』ではコルトM1911と言う設定でスパニッシュ・スターが大活躍、『大いなる決闘』でもM1911をジェームズ・コバーンが使いました。『100万ドルの血斗』ではP38改造のベルグマン・ピストルが、『100挺のライフル』では何と、実銃のコルトM1902のペアガンが登場します。

  コルトM1902 ミリタリー・モデル。『100挺のライフル』には前期型、後期型合わせて3挺も登場します。

 フェルナンド・ラマス演じるメキシコ政府軍将校は、そのニッケルめっきが施され、白色に塗装された樹脂製グリップが装着されたコルト ガバメントの祖先を二丁携帯、副官のアルド・サンブレルはセレイションがスライド後方に移された後期モデルを用いてますので、使い方が確信的です。

  『ワイルドバンチ』でコルトM1911の代用として使われた、スペイン製スター自動拳銃。『ワイルドバンチ』を貶す奴は俺たち(私とモーゼルw)が許さない。

 C96はこの後、未公開のマカロニ作品『復讐無頼・狼たちの荒野』『熊のジョナサン』や、メキシコ革命を舞台にアンブローズ・ビアスまで登場するホラー、『フロム・ダスク・ティル・ドーン3』、マカロニ・タッチでドワイト・ヨーカムが監督・主演をした『ワイルド ガン』にも出てきますが、特筆すべきは、ジョン・スタージェスのハリウッド製西部劇『シノーラ』でしょう。イーストウッド扮する元賞金稼ぎジョー・キッドは、雪山を背景に、敵から奪い取ったモーゼルを乱射します。殺し屋達が村人を教会に閉じ込め、人質にとるシチュエーションも『殺しが静かにやって来る』を彷彿とさせますが、モーゼルを奪われたガンマンが喉を潰され、声が出なくなるのは、ブラックユーモアの様です。


  『復讐無頼』に登場するモーゼルC96。
  『シノーラ』でイーストウッドも使います。撃ち方に工夫があって、シングル・アクション・アーミーとは違う、自動拳銃の連射の感じをよく表していました。



 19世紀末。メタリック・カートリッジの発明によって、連発式拳銃の発展は新たな局面を迎えました。回転式拳銃とは異なる、弾丸発射時の反動、弾薬のガス圧を利用した連射メカニズムが考案されたのです。初期の“メカニカル・リピーター”と呼ばれる手動式連発ピストルの試行錯誤の過程を経て、シュワルツローゼ、ボルクハルト、マンリッヒャー、ベルグマン…と言った数々の自動式拳銃が欧州を中心に生まれます。その中でモーゼルC96は大々的に量産され、初の商業的成功をおさめた自動拳銃となりました。
 「ワールドムック38号 ウェスタン物語」(ワールドフォトプレス社)に、一枚の興味深い写真が掲載されてます。酒場に集う男たちが手に手に銃を持ち、ポーズをとっている、セピアに褪色した19世紀の写真。多くの男がS.A.A.を構える中で、一人だけ、自動拳銃を持ったガンマンがいるではありませんか。その銃こそが、モーゼルC96だったのです。


  開拓時代の西部の酒場でバーテンダー(?)がかまえるモーゼル。
  トリミングしているのでわかりませんが、ほかに数人のカウボーイが全員、シングル・アクション・アーミーをかまえている、19世紀の記念写真です。



 『殺しが静かにやって来る』の設定である1898年には既に大量生産が始まり、世界中にC96は輸出されていました。合衆国におけるパテント取得は1897年6月。開拓が終わりつつあるアメリカ西部へC96が流れてくるのは、ちっとも不思議な事ではありません。引き金前方に位置した弾倉、長く突き出た銃身に丸く細長いグリップ。直線とアールで構成されたデザインはシンプルでありながらとても印象的です。ドイツ人ピーター・パウル・モーゼルが1896年に設計したことで、C(Construction)96の名称がついたこの銃は、独特な見た目ばかりではなく中味も一風変わっております。



 モデルガンを分解したことがある方ならお分かりでしょう。ハンマー下のテイクダウン・ラッチを押し上げると、銃身と共にずるりと、一体化した撃発メカを引き出す事が出来るのです。そして、それらの削り出された鋼鉄のパーツは、1本のネジも使わず複雑に組み合わせられ、口径7.63oの高速弾を続けて10発射ち出すための、謎めいた動きを連動して行います。コルブッチはこんな奇怪なピストルを何故主人公に持たせたのでしょう。

 C96には、ホルスター兼用の木製着脱式ショルダー・ストックも作られました。蝶番の付いた蓋を開いて銃を収納するのですが、コルブッチはバネ仕掛けで蓋が跳ね上がるよう、小道具係に改造させます。この工夫で、モーゼルの持つ自動拳銃のメカニカルなイメージがさらに強調されるのです。これが“演出”というものだと思います。

 サイレンスはこのメカニズムのおかげで、C96をまるでS.A.A.の様にクイック・ドロウし、自動拳銃の速射能力を活かして賞金稼ぎ共を皆殺しにします。酒場での撃ち合いではきっちり十連射しているのですよ。コルブッチ監督は、計算しています。計算しているのは弾数ばかりではありません。この映画、『殺しが静かにやって来る』もまた、娯楽作品とはとても思えぬ奇怪で憂鬱なテーマを一見、内包してるように思えます。この“一見”と言うのがくせ者で、ストーリーを読むだけではこの映画は単に、「山賊が雇った殺し屋を賞金稼ぎが決闘の末に倒す」、よくあるマカロニ・ウエスタンに過ぎません。コルブッチは西部劇で使い古された単純なプロット、感情移入させるキャラクターの存在を逆転させる事により、今までに無いユニークな作品に仕上げました。モーゼル同様、シンプルな外見の中には複雑で暗い数々の引き出しが隠されているのです。その引き出しを幾つか、開いてみることにしましょう。
 まず、逆転された構図はプロットだけでなく、映画の設定のあちこちに見受けられます。弾圧される野盗と凶悪な賞金稼ぎ、“法”“正義”の名のもとに行われる蛮行、両親を賞金稼ぎに殺された過去を持つ、物言わぬ殺し屋…。その主人公は回転式拳銃ではなく最新式の自動拳銃を愛用し、賞金稼ぎのみをターゲットにし続けます。ヒロインが黒人と言うのも当時としては異色でした。主役を演じるのは、『男と女』で人気の出たジャン=ルイ・トランティニャンです。マカロニでフランス人俳優が主役をはった例は数えるほどしかありません。


  未亡人ポーリーン(ヴィオネッタ・マッギー)のもとを訪れるサイレンス(ジャン=ルイ・トランティニアン)。
   二人は恋に落ち、仕事に愛憎を持ち込むことによって、サイレンスは破滅の道へと向かっていく。
   物言わぬ、だが内面に情熱を秘めた主人公に対し、雄弁で沈着冷静な悪党たち。賞金稼ぎロコ(クラウス・キンスキー)と判事ポリカット(ルイジ・ピスティッリ)。

   ロコを演じた怪優キンスキー。撮影現場でも独り離れて過ごし、格闘のシーンでは本気になってトランティニアンを怪我させそうになる。
   でも、エキストラのジプシーたちには優しく親切に接していたと言う(当時助監督だったラース・ブロック氏談)。


 そして、背景は太陽のぎらつく荒野や砂漠ではなく、凍てついたユタ州の山奥。監督が単に奇をてらって雪山を背景にしたのなら話は簡単ですが、舞台をユタ州と設定した事で、さらに奥深く潜ってみたくなります。映画には一言も出てきませんが、ユタ州と言えばモルモン教徒の聖地です。マイケル・ギルモア『心臓を貫かれて』(文春文庫)の第一部には、ユタ州に移住したモルモン教徒と、彼らを弾圧した群衆が取った怖ろしい“正義”の数々、閉ざされた土地に隠れ住む人々の信じる伝説などが、陰鬱なタッチで紹介されています。例えば、“血の贖い”として知られる、モルモン教徒の悪名高い原理。それは、「人が命を奪ったなら、死の方法は神への謝罪として、地面に血をこぼすものでなくてはならない」と言うものです。ある記録には、その実践方法として、「真夜中に黒衣に身を包んだ者が、罪を犯した者たちの喉を掻き切る。」と書かれてあるそうです。ここには、『殺しが静かにやって来る』のイメージを膨らませるためのテキストが、はっきりと明示されていますね。スタッフが、モルモン教をめぐる伝説にインスパイアされたことはじゅうぶんに考えられます。桜の樹の下ならぬ雪の下を掘ってると、死体やらウインチェスターやら色々なものが出てきます。違う場所を掘ってみましょう。
 “『殺しが静かにやって来る』=『フランケンシュタイン』説”と言う噂があるのです。元々、マカロニにゴシック・ホラーの影響があると言うのは定説になっているのですが(本作にも、カール・ドライエルの『吸血鬼』をイメージさせる、鎌を持った男のシルエットがインサートされたりします)、この映画には、メアリー・シェリーの創造した、人造人間の物語に影響されたと思われるディティールが数多く確認できるというものです。サイレンスのキャラクターは無表情で言葉を持たず、まるで機械人間の様です。彼の着るパッチワークのコートは、人造人間の体に刻印された縫い目の様でもあります。そして、創造主よりあてがわれた花嫁役ポーリーンと、彼の持つ“機械仕掛け”の自動式拳銃…。保安官が凍った湖に落ちるのは、映画化されたユニバーサル作品の一場面を思い出します。クライマックスでサイレンスを狩り立てる賞金稼ぎも、人造人間を追い詰める町の人々と重なります。フランケンシュタイン博士の創った怪物は、感情を回復した事が原因となり、惨劇を生み出しました。サイレンスもまた、押し殺した感情を表に出し、ポーリーンに情を移した瞬間から、悲劇への道を歩み始めるのです。感情を失ったガンマンの持つ、メカニカルな自動拳銃…こうしてみると、サイレンスが持つ銃がモーゼルC96であると言うことは、次第に必然の様に思えてきます。

※ ここから先は映画のエンディングについて触れた部分です。私のツイートを読み、映画に興味を持って頂いたフォロアーさんは読まない方が賢明かもしれません。

 『フランケンシュタイン』の原作は、雪と氷に閉ざされた極北で幕を閉じました。神に背いた創造主フランケンシュタイン博士自らの手によって、怪物は永遠の眠りにつかされたのです。『殺しが静かにやって来る』の衝撃的なエンディングにおいて、サイレンスもまた神格化され、スノーヒルで永遠に語り継がれる存在となりました。

   映画のクライマックス。サイレンスと決着をつけるために、町へ向かう賞金稼ぎたち。

 映画はサイレンス同様、多くを語ろうとしません。観客は死にゆくサイレンスの目の色の中に様々なテーマを読みとろうとしますが、メッセージは何も現れてこないのです。結果、この映画は類いまれな、大人のための残酷西部劇として完成されました。観客の期待を裏切りながら主人公が無惨に殺されていく事により、コルブッチのこの映画も伝説となったのです。納得の行かない終わり方をする作品ではあります。しかし、ふとこう思ったりもします。賞金稼ぎによって生み出された主人公を葬り去ることが出来るのは、生みの親である賞金稼ぎでなければならないのも必然ではないのか。そう思うと、屠られたサイレンスのモーゼルを慈しむようにそっと抜き取り、汚れをはらうロコの動作がやけに悲しげで、人造人間のパーツを形見に拾う創造主の様に見えてきませんか?


   『殺しが静かにやって来る』イタリア版ポスター。このデザインに現れているように、サイレンスとロコは表裏一体、コインの表と裏なのである。


(蔵臼金助)

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