短く整えたブルネットを撫で付け、仕立ては当然よいがドレスではなく細いズボンと前裾の短い上着を着る女、ジャクリーン・ノーサムのことを、アンは内心疎ましく思っていた。扱いあぐねていたと表現するほうが正確であったかもしれない。ジャクリーンはアンの幼馴染だ。
 ジャクリーンは男のなりを好み、アンにまでそれを強いる。アンは品のあるドレスで茶会に出ているほうが好きだ、しかしジャクリーンはコートを翻し狐狩りにアンを連れ回す。アンは伝統の中に埋没していたい、しかしジャクリーンはそれにいくらか逆らおうとする、こちらを巻き込んで。
 アンはその日もジャクリーンに馬での遠乗りに連れ出されていた。
「いい天気ね、今日は」
 背筋をぴんと真っ直ぐに、脚は右に重心を置いて伸ばした姿勢で、崖の向こうの風景を眺めながらジャクリーンが言った。その手には上等なスネークウッドの杖が握られている。ヘッドも銀製の蛇だ。彼女は昔から、そして今も変わらず蛇が好きなのだろうか。彼女の姉は蛇に噛まれて死んだというのに。
「そのようね」
 アンも空を見上げて答えた。実際空は程よく晴れ、乗馬に疲れた身に風も優しかった。
 ジャクリーンと一緒にいたところで、さほど会話が弾むわけではない。アンはジャクリーンが好きではない……しかし幼馴染だ、情はある。だから付き合っている。だがジャクリーンのほうはなにを思ってアンといるのか、アンにはわからなかった。ジャクリーンのまばたきを忘れたような黄金の眼もどこか蛇を思わせ、彼女の感情を読むことはできない。
 アンは視線を空からジャクリーンに移した。その手元のスネークウッドの杖に移した。彼女の姉を思い出す杖にだ。
 アンはジャクリーンの姉のことが好きだった。ジャクリーンの姉は凛々しく品のよい美貌の持ち主で、明るいが淑やかな素晴らしいレディだった。アンはジャクリーンの姉のことを好いていた、慕っていた、心から想っていた。そのジャクリーンの姉は、ジャクリーンが外国から取り寄せた珍しい毒蛇に噛まれて死んだ。
 アンは今でもまざまざと思い浮かべることができる。毒蛇を籠に入れ、遠乗りに出かけるジャクリーン。それに付き合うジャクリーンの姉と自分。ジャクリーンの姉は蛇を少し怖がりながらも、妹の可愛がるものだからと親愛と好奇の眼差しを向けてはしゃいでいた。ジャクリーンの姉が倒れたとき、アンはピクニックの準備をしていて、その瞬間を見てはいなかった。いつの間にか籠から出ていた蛇が姉の足首を噛んだのだとジャクリーンが説明した。草の上でのたうち、こぼれて滴る紅茶のように防ぎようもなく死に向かうジャクリーンの姉を前にアンはおろおろするばかりでなにも出来ず、そしてジャクリーンは真っ直ぐ立って姉をただ見下ろしていた。両手はスネークウッドの杖の頭に重ねられていた。ジャクリーンの姉の震える手が杖を掴んだ。ジャクリーンは動かなかったし、ジャクリーンの姉もまた、じきに動かなくなった。
 アンはそのときの光景をすべて思い出せる、しかしジャクリーンの眼だけは思い出せない。彼女はいったいどんな眼をしていたか。
 いま、隣に佇むジャクリーンの顔をアンは盗み見る。やはりまばたきの極端に少ない眼窩に金の瞳が浮かんでいる。あのときもこれと同じ眼だっただろうか。それとも突然の事故を、姉の死を前にして混乱や怯えに凍える眼だっただろうか。
 姉の死について、ジャクリーンに疑惑は抱く。しかしアンはジャクリーンの感情を、思考を、本当にまるで読み取ることができないのだ。どのような人間であるのか、長く共にあってもその本質を知らないのだ。ゆえに信じることができない、彼女が潔白であるとも、彼女が罪人であるとも。
 腕を組み景色を眺めていたジャクリーンは、おもむろに杖を持ち上げ、フェンシングの剣のように構えた。その切っ先には遠く教会の塔が重なる。
「まるで貫いてるみたいに見えない?」
 口元に皮肉な笑みを浮かべて、ジャクリーンが言った。アンはそんな不敬な冗談は大嫌いだった。
 アンはジャクリーンという人間が疎ましかった。いつも苛々させられ、不快で、腹が立ち、彼女といて楽しいと感じることなど滅多になく、そしてもしかすると愛しい想い人の仇であった。それでも幼馴染なのだ、情はあった。情があったのだ。
 いつの日かこの情が、それ以外のすべてに打ち消される日がくるだろうか。それはそう遠くないような気もしたし、死ぬまで来ないような気もした。
 スネークウッドの杖が空を背景にして光っていた。死んだ淑女の絡みつく手が見えるようだった。
 アンは思う。
 年老いた自分はなおもジャクリーンとともにいて、静かにこの杖を磨いているのか。
 あるいはいつかこの硬い杖を奪い取り、ジャクリーン目がけて振り下ろすのか。
「やめてちょうだい」
 未だ悪戯に教会を弄ぶジャクリーンを、アンは小さな声で咎めた。その日はそれだけだった。


〈了〉


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