【1】 見えない行かない花火大会
八月の浅い夜、天井の向こう、屋上の向こう、空の向こうで鈍く響く重い音がする。ごろごろ、ぼんぼん、どんどん、どれともつかない低い音がする。
「あれって雷?」
リビングにいるわたしはエラーチェック中のデスクトップパソコンを前にして、焦った気持ちで彼女に聞く。
「さー。花火じゃないの?」
部屋の隅で寝転がってスマホを弄る彼女が気のない態度で返事をよこす。彼女はパソコンをまったく使わないので、このハラハラ感はぜんぜん伝わらない。
「ちょっと天気予報見てよ」
エラーチェックは運悪く始まったばかりで、もう後戻りできないのだ、わたしは。
「やだー今手離せない」
彼女はスマホの画面から顔もあげない。わたしのスマホは充電中で自分の部屋(ほとんどただの寝室)に置いてきている、取りに行くのはめんどうくさい。どっちもどっちだ、知っている。
「どうせねこあつめてるだけなんじゃん! 手離せないようなやつじゃないでしょ」
「今アルバムの厳選してるんだよ、アプリ一瞬でも閉じたらリロードされちゃうもん、集中力きれる」
「もういいよバカ」
わたしは腹を立てながら諦めて立ち上がる。外を見ても雨は降っていないが雷についてはよくわからないし花火が見えるわけでもないので自分の部屋に戻る。短い短いスマホの充電コードを引っこ抜いて天気予報を見る。注意報の類は出ていない。花火大会の情報……は、どこでどうやって調べればいいのかよくわからなかったので、試しにツイッターを検索してみる。
花火大会、最寄りの地名、祭、浴衣、などなど。
いろいろ探ってみると、確かに大きな花火大会があるらしかった。中止という話題も見かけないし、開催されているなら雷が鳴っているということもないだろう。安心してリビングに戻る。彼女は変わらぬ姿勢でスマホを弄っている。
「たぶん花火だった」
一応彼女に声をかけ、わたしはまだまだ淡々とエラーチェックをしているパソコンの前に座る。
「なんか花火の綺麗なアプリ、いいのないかなー」
そう言ってスマホの画面を弾く、アルバムの厳選作業は終わったらしい彼女。
「ねえ、それより浴衣着てみたくない?」
黒背景白文字のモニタを眺めながら、さっき検索で見かけた浴衣カップルの自撮り写真を思い浮かべるわたし。
「やだー暑いしめんどくさい」
わたしたちは一見して自分のことしか考えてないし、相手の話も聞いてない。
どっちもどっちだ、知っている。それでも、もう三回目の夏なんだ。
【2】 対の猫
艶やかな黒い猫が居る。後頭部の丸みは品が良く、うなじのくびれと背骨の山がはっきりS字を描くのに、背筋はまっすぐ伸びて見える。前脚は実際まっすぐで、指の膨らみがちょこんと揃う。黒猫らしく毛は細く柔らかで、部屋の灯りの下でつやつやと光る。
艷やかでない黒い猫も居る。頭は妙に大きく、脚も短くずんぐりしていて、未去勢の雄の成猫ほどではないにせよ顔も潰れたように膨れている。清潔にはしてあるが、毛皮はごわごわしている。
彼女たちは同じソファに並ぶ。艶やかな猫は脚を伸ばして座り、艷やかでない猫は目を閉じて自分の毛繕いをする。自分の腹を舐め股を舐め腿を舐めて脇腹を噛む。それからごく自然に、すぐ隣りに居る艶やかな猫の背中を舐める。舐めながら身体を起こして、後頭部まで丁寧に清める。
チャッチャと首輪の金具が鳴るかすかな音がする。
艶やかな黒猫はじっとそれに身を任せながら、美しいものを見るときの揺らめきを緑の瞳に灯して、艷やかでない猫を見つめている。
【3】 ゲリラ豪雨
すごいよーすごい雨だー。 と、佳奈という女がわめく。困っているようでどこか嬉しそうでもある。
傘、ほとんど役に立たないよ、これ。 と、七花という女がぼやく。本当にうんざりしている様子である。
彼女たちは同じ会社の違う部署に勤める同期の仲で、よく同じタイミングで退社し、駅までの道を共にする。裏を返して言うと、それ以外での接触や交流はほとんどない。
「にわか雨? 通り雨? にわか雨と通り雨と夕立ってどう違うの?」
「知らないよ……夕立は取り敢えず夕方に降るやつでしょ」
雨の中に片手を差し伸ばして問う佳奈に、七花は眉間に皺を刻んで答えながらも、鞄からスマートホンを出して指先でくるくると弄り出す。
「んー……おんなじ? みたい? たぶん。違うような同じなような」
「なにそれー。調べてるの調べてないの」
「調べてるけどよくわかんないんだってば。……あー、通り雨は正式な気象用語とかとは違う? みたい?」
「なんでもいい! ゲリラ豪雨!」
佳奈が閉じた傘を雨の中に向かって突き刺す。危ないからやめて、と七花が制する。
「で、ゲリラ豪雨っていうのは結局なんなわけ」
大人しく傘を引っ込めて、佳奈は自分の使った言葉を七花に尋ねる。
「それも一緒なんじゃない? にわか雨のすごいやつ? よくわかんないけど」
「じゃあ今のこれがそうでいいんだよね? 急にバーっ! ってものすごい激しいの」
「短い時間だけのね」
「なんでそれがこのタイミングでくるかなぁ」
面白いけど困ったね。 と、佳奈がぼやく。
アンタと帰りが一緒になるとき私はいつもこんな感じだけどね。 と、七花が胸の内だけで思う。
【4】 外面如菩薩内心如夜叉
猫のように背中を丸め、だらしなく開いた脚を伸ばし、キセルめかして絵筆を咥えて、女浮世絵師のマサは長屋前の縁台に座る。お天道様がカンカンと焼くひょろりとした両脛を、白い団扇でハタハタ扇ぐ。そこへまだ若い若い町の娘が、吾妻下駄をカラコロ鳴らして駆け寄ってくる。
「ちょいとおマサさんっ。またそンなところでポケぇっとしてっ」
「アァ、うるせぇ、うるせぇ。……」
マサは娘の顔もろくに見ぬまま、扇ぐ団扇を娘に向ける。追い払うようでもあるし、顔いっぱいに汗をかく娘に風を送ってやっているようでもある。娘の名は清《きよ》という。
「おとっつぁんがこのお天道様みたいにカンカンよ、マサさんがいつまで経っても頼んだ絵を描いてくれやしないってっ」
「このお天道様のおかげで、手持ちの墨がすっかり全部乾いて砕けちまったんだ」
咥え絵筆をゆらゆら揺らすマサの手から、清が団扇を引ったくる。
「うそばっかりっ。清は知ってるんだから。おマサさんは女に捨てられて腑抜けになって線の一本も引けなくなったのよ」
清の両目はきりきりと吊り上がり、マサの両目はすぅっと細まる。
「なんでぇ、知ったようなクチを、ききやがる、……」
「フン」
顔をゆっくり背けるマサの隣に、清はとすんと腰を下ろす。そうして団扇でマサの膝を何度も叩く。
「いい、おマサさん。お前さませっかく腕のおよろしい絵師だっていうのに。たちの悪い女に入れ込むんだからよくない」
まだほんの小娘である清の口ぶりは、まるで大店の女将さんである。
「ほら、あの、ナンですっけ、……そうそう、外面如菩薩内心如夜叉って言うじゃありません。女はね、もう皆そういうものだと思って、近寄らないことにしたらどうなの」
「外面如菩薩、内心如夜叉、か」
汗を拭うのかなにを拭うのか、マサは片手のひらで顔をすっかり覆って撫で下ろしながらぼそりと零した。それから清が握る団扇を静かに手元に取り返す。
「ま、ちげぇねぇ」
口に咥えていた筆をようやく手に持ち替え、墨の乾いた毛先を舐めて、白い団扇の両面にさらさらなにやら描きつける。
「なにをお描きなの」
「遅れの詫び賃だ、おめぇの似顔」
清は面食らった顔でぱちぱちと瞬きをし、少し照れた様な頬の緩みを吊り上げた眉で隠しながら、その団扇を覗きこむ。
表には夜叉の顔。裏を返しても夜叉の顔。
「外面如夜叉の、内心如夜叉ってぇところかねぇ」
「チョットっ、コノっ」
「いいじゃあねぇか」
真赤になって怒鳴る清に、マサは悪びれず謝らず優しい面でうっすら笑う。
「どっから見ても変わらねぇ、筋の通ったイイ女ってことヨ」
【5】 冷蔵庫の音
真っ暗で静かな部屋の中で、ブーと低い音が鳴り続けている。ワンルームの小さな部屋だから、布団と同じ空間に古くて安い冷蔵庫があって、それが唸ってる。私はそれほど神経質じゃないし、もう慣れたし、普段は気にもならないけど、眠りを邪魔されるときだってある。
タオルケットを口元まで被ったまま、枕元にある蚊取りマットの小さな電源ランプを見つめる。その緑が唯一の光源なので、やけに明るく見える。
眠れない。
寝返りを打ちたいけど、打ち辛い。
振動するような冷蔵庫の音ばかり耳についていらいらする。私の後ろでほんの微かにする寝息にも、少しいらいらする。
私は強く目を閉じて、その目をごしごしこすって、電源ランプの残像を消してから、寝床を抜けだした。
タオルケットを背中にかけたままずるずる引きずって、冷蔵庫まで這う。扉に手をかけて、ちょっとだけ迷ってから、やっぱり開ける。ほんのりオレンジ色の光、それから生活臭。中に並ぶ食材や、ペットボトルに小分けしたお茶や、夕食の残り。私はチョコレートの箱を取る。少しだけ上等な個包装のチョコレート。箱から一枚取って、手早く包装をぺりぺり剥がして、薄い真四角のチョコを口に放り込む。追加でもうニ枚取って、口の中でひんやり甘いチョコを溶かしているうちに呼び水になって我慢ができなくなってさらに三枚取る。ようやく冷蔵庫を閉める。扉に額を押し付けて、二枚目を食べる。甘くておいしい。チョコは大好きだ。三枚目を剥きかけたとき、もそもそと彼女が起きる気配と音がした。私は姿勢を変えず俯いたまま、三枚目を噛む。
「なに食べてるの」
彼女は私のすぐ後ろまで近づいてきて、私の手元を覗きこむ。
「チョコか」
私が答える前に、たぶん匂いで彼女が言い当てる。
「……食べる?」
「……うん」
包装紙を半分だけ剥いて、チョコを一枚彼女に手渡す。包装紙を剥いてしまう音と、硬いチョコが彼女の口に入るカコンという音がする。
「冷えたチョコっておいしい」彼女が言う。
「うん」私が答える。
「こんな時間のチョコって、罪悪感あっておいしい」彼女が笑う。
「うん」私も笑う。
チョコのおいしさで自分の機嫌が直っていたのに私は気づく。冷蔵庫の前にいるのに、その音はもう聞こえない。
喧嘩が終わって、あとはきっとよく眠れる。
【6】 三人寄せ飲み
「ビール何本冷えてるの?」皿を並べる音がする。
「九缶」箸を置く音が三度する。
「少なくない?」テレビからバラエティ番組の騒々しい気配。
「三人だよ、そんなもんでしょ。私はビールなんて一缶あれば充分だし。芋焼酎さえあればいいし」中身の詰まった缶がテーブルに置かれる音が三回ともう少し。
「ウチもビールはそーでもないからワナナが飲んでいいよ。それよりツマミが全然少ないじゃん。お腹にたまるものなさすぎ。塩辛とナムルだけって」爪がカチカチと硬いところを叩く音がする。
「あたしは箸を汚さないのが自慢の酒飲みですから」早々に缶を開ける音と炭酸が鋭く小さく抜ける音が一度する。
「なにそれ?」缶を開ける音が続く。
「こいつ落語とか聴き始めてんだよ最近。おかげで江戸っ子ごっことか寒いこともよくやって……」缶を開ける音が続く。
「えーここでお笑いを一席!」崩していた脚を正すような衣擦れの音がする。
「素人芸なんてやめて本当にやめて」飲み下すため絶え間なく鳴る喉の音。
「みうってさぁ、なんでこんなヤツのこと好きなの?」小さなため息。
「ミツこそなんでこんなヤツのこと好きなのさ」呆れたような笑い声。
「あたしは二人のことも自分のことも大好きさー。でぇ好きさ。あたしらめっちゃ上手くやれててすごいよね。すごくない? こいつはすげぇってなモンだよ」冷たい炭酸を飲み干したあとの快楽の大息、その後に言葉。
「私らが我慢してるからだよ色々」細くて硬い箸先が皿をつつく澄んだ音がする。
「ホントにねー」固い野菜を噛み砕く音がする。
「イロとイロの情けが深くてあたしァ幸せモンだ」缶を開ける音がする。
「ウザいノリ続けるんだったらせめてもうちょっと上手いこと言わないと別れるよ」テレビから派手な効果音が被る。
「ホント」テレビからコミカルな音楽が被る。
「ごめんなさい、がんばる」
声は少しだけしょんぼりとして、そこに二つの穏やかな笑いの吐息が被る。
【7】 水や月や
――あの男いつまでもいつまでもとんだ月(ぐわち/野暮のこと)じゃ。
鹿恋(囲。上方遊女の第三位。江戸でいう散茶)女郎の小紫が立膝で股の始末をしながらぼやいている。元は天神(上方遊女の第二位。江戸でいう格子)を務めた女なので器量もなにも良いが、歳を食い人気が落ちて鹿恋に下がった。一番下の端へ下がるのももう間もなくだろうと、遣手婆がひそひそ話しているのを、妹女郎の初江はこのあいだ聞いた。初江も鹿恋であるのだが、この落ち目の姉女郎に呼びつけられてはまるで禿のように甲斐甲斐しく世話をする。ものを喋ることはほとんどない。ただ黙って小紫の身体を拭いたり髪を整えたりする。
――銀《かね》も出さんし床もお粗末、女郎がおのれひとりのものと思うて、身ぃごと抱いては長っ尻。そのくせおれは水(すい/粋、通人のこと)な客やと思い込んどる。ええ、気色の悪い。気色の悪い阿呆ぼん。
床で格別嫌なことでもあったのか、小紫は心底腹を立てた様子で自分の膝先を毟るように掻いてはぶつぶつ零す。初江は小紫の乱れた髪を櫛で丁寧に丁寧にとく。
――ええか初江。女郎が簪が欲しいと言うたら銀《かね》を寄越すんが水な客じゃ。着物が欲しいと言うたら銀を寄越すんが水な客じゃ。ほうかほうかと簪屋を呼んで、呉服屋を呼んで、なんぞ好きなもんをこしらえなさいとやる客はまだましじゃ。おまえこれを欲しがっていたろうと、田舎趣味の安い安い簪を土産にぶら下げてくるどんくさい阿呆だけはどないもならん。いっとうあかん月じゃ。水面に影も映らん月じゃ。ええか初江。
――へえ。
――そないな有り様で、ワシはおまえになんでも尽くしとる、おまえをぜぇんぶわかっとるなんぞと、抜かしよる、あの男。……。
初江はちらと小紫の手元を追う。小紫の少し骨ばった細い手は、ずっと足の付根の股の辺りを痛そうに押さえている。姉女郎の機嫌をこれ以上損ねないように気をつけながら、初江は小紫の腰を後ろからそっと労り撫でる。客を相手にするときにはけっして震えぬ指をちいさく震わせながら撫でる。
――水ぶった月ほど、たちと胸糞の悪いもんはあらせん、……。
――ほんまのところなんでもかんでも、黙っとるんが、一番ですなぁ、姐さん。……。
水ぶる月ほど悪いもんはない。
惚れたを隠す女郎ほど苦いもんもない。
(参考『色道諸分 難波鉦』)
【8】 思い遣りの晩餐
照明は抑えめだが大きくきらびやかなシャンデリアに暗赤色のカーペット、統一感のある調度品、重厚な暖炉。それらがすべて絵に描いたように揃う古典的で豪奢なダイニングルーム、その中央にある長いテーブル、掛かる真っ白なクロスの上に皿も花も蝋燭も並ぶ。テーブルの端と端には、二人の女がいる。
石製のマントルピースを背に構えるのは肥った四、五十の女だ。緩く波打つ艶やかなブルネットの髪を首の付根でひとつに縛り、黒い花の髪飾りで留める。鼻は大きく、目は黒く鋭く、たるんだ顎に囲まれる口元はしかし厳しく引き締められている。
テーブル分の距離を隔てた向こうに座るのも、やはり四、五十の中年女だ。細身で背はおそらく高く、くすんでいるが真っ直ぐ滑らかに整った肩までのブロンドを持つ。口紅は控えめなベージュ色、穏やかそうな顔立ちではあるものの、濃いアイシャドウの下の双眸は肥った女と同じ光を宿している。
身に纏っているのはどちらも仕立ての上等な黒のスーツだった。
「あなた、また肥ったんじゃない」
ワイングラスにまだ唇が近いうちに、細身の女が言った。肥った女はちぎってオイルソースに浸したパンを口に放り込みながら肩をすくめて小刻みに首を横に振る。
「どうだか知るもんですか、そんなこと。誰がやるっていうの、体重計に乗るなんて」
「病気になるわ」
唇辺だけに浮かべる笑みのまま、半ばからかうような声音で痩せた女が言う。肥った女は派手に鼻を鳴らして笑う。
「我々の稼業で健康の心配をする必要がある? 我々の父が、母が、祖父が、シチリアの島にいた頃からそんなことは変わらないわ。ナポリ者のお前は違うのかしらね」
「病で起き上がることすらできなくなって、血の気しか能のない若い連中にせせら笑われながら全てを奪われてもいいと言うのなら、それでもいいけれど」
ブロンドの女は薄ら笑いを変えずに深い色の葡萄を一粒摘んで唇で食み、口内へ転がし含ませる。
ブルネットの女は眉間に皺を刻み、ワインを一気に飲み干してから吐き捨てる。
「馬鹿馬鹿しい話」
「でしょう?」
「お前の喩え話がよ。私がそうなることをお前が気にする必要がどこに? 吐くなら正直な話だけにして」
苦々しい顔の肥った女に対し、痩せた女はすました様子でナプキンを取り口元を拭う。
「病気で勝手に死なれちゃ私にはどうしようもないでしょうよ。健康でいてくれたら、私はしぶといあなたを始末するためにあれこれ企むことができる。それが数少ない老後の楽しみなのよ」
肥った女も少し乱雑に口を拭い、放るようにナプキンをテーブルに置く。無言のまま、頬は笑いによって左右歪に歪んでいる。
「そのうちに、今度は私が晩餐会に招待するわ」痩せた女は言いながら席を立つ。「とびきりヘルシーなディナーを用意しましょう。それまで塩分とカロリーには気をつけていて」
肥った女は目を伏せ、顎を数度ゆっくり縦に揺らす。
「お前こそ、モレッティ(※ウィリー・モレッティ)にならないように気をつけなさい」
晩餐の終わり。どちらの女も、薄めた唇に笑みを深く刻んだままでいる。
【9】 水蜜桃
水蜜桃の汁がご主人様の手首を伝い落ちる。ご主人様の目が、ばさばさの睫毛の影が落ちる瞳が私にそれを舐めろと言うので、私は跪いて舌を伸ばす。骨と血管の浮き出る細い腕。なのに折れそうなか弱さなど微塵も感じさせないそこに、私は粘膜を触れさせる。
桃の味は嫌い。蜜のたっぷり滴る熟れた桃は特に嫌い。でも私は私の好き嫌いによって、私の意思によって、なにかを決める権利を持たない。そのことが唯一、私が掲げることのできる権利だ。すべてを委ねすべてに従う私でいられることが。
私はご主人様の肘から手に向かって舌を這わせる。手首の茎状突起の凹凸は特に丁寧に舐めとる。えぐみすら感じる熟れ過ぎた水蜜桃の甘い汁。吐き出したいがそれは許されないし、私のプライドもそれを許さない。
必死で舐め清める私の顔を見下ろして、ご主人様が唇を少しだけ緩ませる。
「幸せそうな顔」
私は彼女に仕えるために自分の意思を捨てたわけではなく、私の意思を捨てさせてくれる存在がただ唯一彼女だったのだ。
ご主人様の手はまだ齧りかけの桃を掴んでいて、果肉に埋める白い指が腐ったような蜜を私の舌へ滴らせ続けてくださる。それが私の不幸であり幸福である。
【10】 一生一緒に居たいんだけど
週末はだいたい彼女の家で過ごす。どちらかが、もしくは一緒にご飯を作って食べることもあれば、奮発して外食に出ることもあるし、二人とも面倒なときは出来合い品を買って帰る。
食事をしてお風呂に入って好きなことをしてのんびりして、夜はエッチもして(もちろんしないときもある)、眠る。
彼女の名前はハルと言う。付き合って半年くらいだ。出会った頃はボーイッシュな感じだった、最近は髪を伸ばしたりして少し雰囲気が変わってきた。彼女自身の外見は出会った頃のほうが好みだけど、服の趣味は最近のほうが好きなので悩ましい。
ハルは一緒にいて落ち着くし、話してて楽しいし、映画の趣味は合わないけど食べ物の趣味はぴったりなので食事にあまり困らなくて済む。
一緒に暮らせたら、一生一緒に居られたら幸せだろうなと思えるひとだ。
「ハルちゃんと結婚したいなぁ」
「そうだね。できたらいいのにね」
わたしとハルはときどきそうやって笑いあった。
それから数ヵ月後、わたしとハルは、小さなすれ違いが大きな苛立ちとなり激しいケンカとなって、別れてしまった。
わたしは正直よりを戻せるんじゃないかと思っていたのだが、ハルはあっさり新しい彼女を作ってしまい、よりを戻すどころか仲直りすらままならない結果となった。しかも実は新しい彼女とはその喧嘩の前から付き合い始めていたらしく、わたしは知らないうちに二股をかけられていたのだ。
こうなるともはや大好きだった彼女と別れて悲しいというより腹立たしいでいっぱいになって、彼女のことはとっとと忘れようと心に決めた。
一生一緒に居たかったひとだけど、残念としか言いようがない。
まあ、こういうこともある。
たださすがにしばらく彼女を作る気分になれないでいるわたしは週末が退屈で、同棲して十二年のゆっきーさんたちの部屋へ通っている。
恋人として四六時中べたべたしていたいような時期はとっくにすぎた彼女たちは、傷心のわたしの暇つぶしに寛容に付き合ってくれる。
わたしは恋をするのが大好きな種類の人間で、恋をしたそのひとと一緒にいるのも大好きな種類の人間だから、そのうちまた恋をするだろう。
いつか再び、一生一緒に居たいと思える女性に出会えるに違いない。
無邪気に漠然と自分はいつか結婚するのだろうと信じるひとがいるように、わたしも無邪気に漠然といつか一生を共にする彼女ができるだろうと信じているので。
【11】 試着室のおなか
わたしは試着室の全身鏡の前で思い切り顔を歪める。好きなブランドの新作ビキニ。カラフルでブラはフリルたっぷりですごくかわいい。好みだしわたしに合う色柄デザインだと思う。本当なら。本当なら。
問題はわたしのおなかだ。
他の部分はそんなに問題ない、二の腕がちょっとぽよっとしてるけど、でもこのくらい許容範囲だと思う。でも、この、おなかは……。
「思ったよりやばい……」
水着にのっかった肉を両手でつまむ。まず余裕でつまめるのがやばい。ほぼ掴めるに近いのがとてもやばい。もともと気にはなってた、けど、ここまでだっけ……。
「うう……優樹菜ー」
わたしは思わず試着室の外に声で助けを求める。
『どした』
外から優樹菜の声だけが返ってくる。
「ちょっと来てぇ」
わたしが具体的なヘルプを伝えた結果、試着室内の人口が二人になる。
「あぁ……」
優樹菜は腹肉を掴んで表情だけで泣いているわたしを見てすぐにすべてを察し、鏡を眺めて曖昧な声を出す。
「ねぇ、やばいよねぇ」
「やばいと思ったから呼んだんじゃん?」
優樹菜はこういうとき、全然大丈夫だよぉ、と言ってくれるタイプではない。
「どうしよう……」
「……アタシは全然気にしないけどね」
試着室の壁に肘をついて優樹菜が言う。優樹菜がそんなこと気にしないことは、わたしも知ってる。
優樹菜は背が高くて脚が長くて顔が小さくてもちろん細くてとてもカッコイイ。日本人なのにサングラスが似合ってパーカー羽織って長い金髪テキトーに結んでるだけで全然サマになる。わたしはというと背は普通で背のわりには脚は長いほうだと思うけどでもそれなりで頭が大きめで、肉付きに関してはこんな感じで。お化粧頑張って服頑張って靴頑張って髪の毛巻いて、やっとなんとか人並みおしゃれさんになれる。だからもともと、並ぶとちょっとコンプレックスを刺激される。
「でも、アンタに気にするなとは言えないからね」
わたしのちょっとずれた肩紐を指で摘んで直してくれながら優樹菜が言う。
「うう……わたし、そこで『そんなこと気にするな』って言わないでいてくれる優樹菜が好きだよ」
「そうだね。ダイエットする? アタシの行ってるジム、アンタも行く?」
「する……行く。でも海は間に合わないね……」
わたしたちは昨日、そういえば長いこと海って行ってないね、そうだね、じゃあ週末行こっか、という話をして、土曜日の今日水着を買いに来た。そして海に明日行くつもりだった。
「まーいいんじゃない、海は来年で。来年まだ付き合ってたらの話だけど」
「わたし、そこで『来年絶対一緒に行こうね約束だよ』ってキラキラ言わない優樹菜が好きだよ……」
「アタシもアンタの、そうやっていちいち具体的に好き好き言うトコ好きだよ」
優樹菜はサングラス越しに笑って、わたしの着替えを手伝ってくれる。
「痩せれたらいいねぇ」
「ちゃんと痩せるよぉーバカぁー」
真面目顔の優樹菜と泣き顔のわたし、ふたりでわたしのおなかを掴む。
来年もこうしてこの手がここにあればいいけど、この肉だけは取り除いてみせる。
【12】 試着室のおなか2
扇風機をガーガーかけながら、わたしはTシャツをまくって、自分のおなかを撫でる。
「ねぇ、ちょっと、ちょっとだけさぁ、引き締まってきた感じ……しない?」
ぽよぽよの手触りを噛み締めながら、それでも私は優樹菜に同意を求める。ミネラルウォーターのボトルにストローを突っ込む優樹菜が振り向いて覗きに来る。
「うーん。ちょっとはね」
「えっ」
わたしは驚いて思わず優樹菜の顔を見上げる。ジムに通ったり家で腹筋をしたり、あの試着で現実を目の当たりにして以来色々やってはいるけど、なんせ数日しか経ってないし、そもそも体力も根性もあんまりないし、正直言ってまだ効果は全然出ていない。見ればわかる。そして優樹菜は、気休めのお世辞や慰めを言うタイプじゃ絶対にない。
「どうしたの優樹菜……変わってないじゃんどう見ても」
「聞いといてなんだよ……」
優樹菜はなぜかほんの少し決まりの悪そうなぶすくれ顔をして、ストローで水を吸う。
「今までに比べたら、ほんのちょっとは締まったような気がしただけだよ」
「そっかなぁ。じゃあがんばるね」
わたしは床に寝転がる。脚を上げて身体を捻って腹筋運動。優樹菜は隣でテレビの前にあぐらをかく。そっぽを向くような向きなのに、微妙にこっちをちらちら見てくる。優樹菜がこんなふうなのは、珍しい。
腹筋でかいた一汗を流したお風呂から上がり、優樹菜がやっぱりあぐらをかいて座っているベッドにわたしも腰掛ける。
「優樹菜さぁ、気になってることあったら教えてね」
わしゃわしゃ髪を拭きながら、わたしは優樹菜に声だけかけた。
「気になってることなんて別に」
「だってなんか変だもん。もやもやすんのやだしさーヤでしょお互い」
返事が返ってこないので、わたしは優樹菜を見た。
彼女は怒った顔でも落ち込む顔でもなんでもなく、とても恥ずかしそうな真っ赤な顔をしていた。強いて言うなら少し悲しそうでもあった。
「えっ、えー」
わたしはそれこそ今までにないくらいびっくりして、ベッドに這い上がって優樹菜の顔を両手で掴む。
「なっ、なにっ、どうしたの? 優樹菜どうしたの?」
「い、言えないよ、こんなことさぁ……」
「なに? なんなの? まじでどうしたの! なんかよくないことなの? やだー! 気になるよ! 優樹菜がヘン! ホント言ってホント言っておねがい」
「い、言う、言うから、手離してよ」
優樹菜を掴んでいた手を言われた通り離して、わたしたちは向き合って座る。
「だから、その、アンタのおなかがさぁ」
一言ごとに優樹菜の背中は丸まって、
「アタシ、その、アンタのおなかが」
顔もどんどん俯いて、髪の毛で表情もなにも見えなくなる。
「す、好きで」
「は?」
わたしは間抜けた声を出して、這いつくばるようにしながら優樹菜の顔をなんとか覗き込む。
「だっ、だからさぁ! アンタのおなかすべすべだし柔らかいしもちもちしててアタシ超好きでさぁ! でもアンタが気にしてるの知ってるからあんまり触ったりするのも悪いじゃんって思うから触れなくて我慢してて、なのにアンタ痩せるとか言い出すし、けどアンタが痩せたいって言ってるのにアタシが痩せるなっていう権利なんてないじゃんアンタの身体なんだし、けど」
いつもクールで理路整然って感じの優樹菜が、こんなふうにわーっと喋るのをわたしは初めて聞いた。
「けど、ちょっと寂しいって思うくらい」
見上げてる先の優樹菜の顔は相変わらず真っ赤で、そこに恥ずかし涙が浮かんできていて。
「ちょっとさみしいって思うくらい、仕方ないじゃんか、バカー」
まるでこの間わたしが試着室の鏡の中に見た自分の顔みたいな顔を、優樹菜もしていた。
わたしも軽くパニックになっていたので、なにをしてなにを喋ったかあんまり覚えていない。恥ずかしさとかときめきとかちょっとしたムカつきとか色んな感情で真っ白になった頭で、たぶん顔は真っ赤にしながら、優樹菜の顔をまた掴んでひたすらバカバカとかなんとか言ってた気がする。
ふたりして冷静になったとき、わたしは優樹菜の膝の上に座って肩に腕を回してヘッドロックでもきめるような姿勢で彼女を抱き寄せていた。
「……取り敢えず、わたし、痩せるのは痩せるから」
「……うん。朝とかさ、ウォーキングでも行かない? つきあう」
「行く。あと食事もなんか一緒に考えて。優樹菜詳しいでしょ」
「うん。慣れてきたらちょっとキツめのトレーニング入れたらいいよ」
「がんばる。……それでね」
わたしはぐりぐりと優樹菜のこめかみに額を押し付ける。
「痩せるまでの間なら、おなか、好きに触っていいから」
距離が近すぎて逆によく見えないけど、優樹菜の顔が一瞬の間をおいて、すごく緩んだ。罪悪感混じりという感じの下がり眉だったけど、恥ずかしそうに嬉しそうに顔を赤くして、えへへ、と笑った。
「だからそんな優樹菜今まで見たことないよ! バカぁ!」
かわいさと自分のおなかへのヤキモチを込めて、わたしは優樹菜を締め上げるくらいに抱きしめる。
【13】 メールボックス
メールボックスのフォルダの古い古い地層に未だあなた専用の箱が残っていて、そこにはあなたとわたしのメールが交互にぎっしりと並んで詰まって溢れそうになっているのだけど、最後に未練がましく続いて並んでいるわたしからの五通のメールがその箱に蓋をしてしまっているので、きっとこれから先も溢れてしまうことなんてないのです。
【14】 いちばんになりたくない
「明日の晩御飯どうしようかね」
煙草に火をつけながらユズキが瀬奈に聞く。瀬奈は爪磨きをしている。
「あ、明日は私、綾ちゃんとデートだから。いいや」
「そう。ならあたしテキトーに済ますわ。ご飯は炊いとく」
「ありがとー」
「綾ちゃんとは上手くいきそうなの?」
煙草の最初の一吸い、深く肺まで吸い込んで煙を鼻から出す。
「うーん。どうだろ」
ヤスリで削り出された爪の粉、唇をすぼめてふっと吹き飛ばす。
「綾ちゃんはね。ユズキのことはもちろん言ってあるし、それでも良いって言ってくれるけど……でもどうかなー。あの子、誰かの一番になりたいタイプなんだよね。フツーのことだけどね。だから最初はよくても、そのうちダメになっちゃうかも……経験則的に」
「アンタの一番にしてあげればいいじゃん」
指先で煙草を叩いて灰皿に灰を落とす。
「綾ちゃんのことは超好きだよ。でもあの子、やっぱユズキが私の一番だと思ってるからなー。信じてくれないだろうなーって」
荒く削った爪を爪磨きで滑らかにする。
「なんか皆そう思うよね。嫌なんだけど」
「まぁしょうがない。フツー一緒に暮らしてる相手がそうだと思うもん」
「あたし誰かの一番とか唯一とかそういうのに絶対なりたくない」
「そういうユズキだから、こんだけ長く暮らせてるんだと思うよ私。そんなの今までユズキだけだなーあなただけよー」
「やめて」
心底嫌そうなユズキの煙草は二本目になって、楽しげな瀬奈の爪は磨き上げられてぴかぴかしている。
【15】 いちばんになりたい
一緒に暮らしてる恋人がいるという瀬奈さんに口説かれた時はびっくりした。不倫相手なんて嫌だと言ったけど、そういうんじゃないと言われた。瀬奈さんの彼女さん(ユズキさんと言うらしい)は、瀬奈さんが他の誰かとデートをしようとキスをしようとセックスをしようと恋をしようと気にしない、らしい。恋人なのに? と私はとても驚いた。それって本当に恋人なんだろうかと思った。私のそれまでの常識では全然考えられないことだった。
とはいえ私もそんなに堅いほうじゃなかったし、瀬奈さんの見た目や声や雰囲気が好みだったので、問題がないならとOKしてしまった。セフレ以上恋人未満みたいなちょっと軽い相手がいるのもいいかなと思ったのだ。
なのに付き合っていくうちに、私はどんどん瀬奈さんのことが好きになっていった。セフレ以上恋人未満なんかじゃなく、恋人以上の存在になりたいと思った。
でも瀬奈さんにはユズキさんがいる。私は瀬奈さんの一番にはなれないんだ。
私は気持ちが暗くなる日が増えて、この関係ももうあまり長くないだろうなと思っていた。そんな私に瀬奈さんが、
「綾ちゃん、うちこない? ユズキがご飯作ってくれるって」
と言ってきた。私は瀬奈さんに口説かれたときくらいびっくりした。私はまだユズキさんに会ったこともなかった、写真くらいは見せてもらっていたけど。
正直言って気が進まなかった。穏やかな気持ちで三人でごはんなんか食べられそうにない。
「ユズキはさ、料理めちゃ上手いんだよ。綾ちゃんが好きなエビカツも作れるしすごい美味しい。エビカツって家で一から作れるんだね、知らなかった私」
私は少し心が動いたけど、食べ物に釣られたりしないですバカにしないでとちょっと怒った。瀬奈さんはごめんと素直に謝ってきた。
それでまた私はふらっと、それこそ瀬奈さんに口説かれてOKしてしまったときのようにふらっと、会ってもいいかなと思ってしまった。私は相当ふらふらしてるんだな。
「あのね、綾ちゃんが嫌なら嫌ってちゃんと言ってくれていいんだ。でももしも、もしもだよ、三人で仲良くできたら嬉しいなって」
私のふらつきを見抜いたらしい瀬奈さんが、はにかみながらそんな都合のいいことを言った。あり得ないと私は思った。
あり得ないと思ったけど、でも何言ってるんだこいつと思った瀬奈さんの口説きをOKしてしまったみたいに、軽い気持ちで付き合った瀬奈さんをこんなに好きになってしまったみたいに、自分の気持ちがどうなるかなんてどうせわかんないな、とも、思ってしまったんだ。
【16】 二日に一度、白百合の花を
ビーチェのもとに白百合が届くようになって二月半になる。頻度はきっかり二日に一度で、概ね生花の花束だが、稀に百合の意匠の装飾具であったり、小さな絵画であったりすることもあった。贈り主はわかっていて、ビーチェのファンを名乗る女からであった。会ったことはなく、そう書かれた手紙が最初に添えてあったのだ。
ビーチェは女優である。現在イタリアで食傷するほど溢れるB級以下の娯楽映画の常連女優だ。スクリーンでの役割といえば裸を晒すかベッドで喘ぐか血糊まみれで目を見開いて惨たらしく殺されるかといったところが大半で、高価なプレゼントを絶え間なく贈り続ける同性のファンが出来るなどとは、にわかに信じがたいことだった。実際ビーチェはこの白百合の女の存在に懐疑的である。そもそもフィルムの中で散々裸体を見せつけ性と血をまき散らしている自分に純血の象徴を送り付け続けるのだから、手の込んだ嫌がらせにしか思えないのだ。それとも対象を勝手に神聖化する類だろうか。どちらにしろ気持ちのよい存在ではない。
それでも送られてくる花に罪はなく、ビーチェの部屋は常に百合の花で溢れかえっていた。
百合の花が届くようになってちょうど三月めの夜、ビーチェの元に電話があった。ジリジリとがなりたてる電話機を掴み寄せ、ベッドに寝転がったまま受話器をとったビーチェは、聞こえた女の声に記憶の端をくすぐられた。あまり思い出したい声ではなく、しかもそのうえ、その声は自分を百合の花を送っているファンだと名乗った。
「どういうつもりなの、ソフィア」
ビーチェは不機嫌な声で、そうかつての恋人の名を呼んだ。女は受話器の向こうで少し沈黙し、それを否定しなかった。
『……貴女を応援してるのよ、ビーチェ』
もう何年ぶりだろうか。愛しさも懐かしさもないと思いながら、ビーチェはサイドテーブルから煙草を取って口に咥えた。
「ありがとう。応援ってどういう意味かしら」
『貴女が、貴女が成功するように祈ることよ、ビーチェ』
電話口の声はおどおどと神経質そうで、それでいて頑なさが滲むものだった。
「成功ってどういうこと? 私、成功してないかしら」
ライターで煙草に火をつけながら、ビーチェは思わずひっそりと自嘲的に笑う。世間的には、確かに成功なんてしていないだろう。しかしだ。
「なんだかんだ、仕事は途切れずあるわ。食べていけてる。演技の仕事で食べてられるのよ? これが成功でなくてなに?」
用を成したライターを音を立ててサイドテーブルに置く。ガチンという派手な音に一瞬電話の向こうで怯んだような気配がする。
「フェリーニやヴィスコンティの映画に出てればいいってことね。何十人何百人のエキストラの一人? 確かに栄光のど真ん中ね」
『ビーチェ、怒らないで……そんなふうに斜に構えるのはやめて』
「怒ってないわ」
面倒臭いだけ。
『ビーチェ、私は本当に貴女のために、貴女のために祈って……、貴女の成功と幸福を祈ってるのよ、いつも』
昔と同じだとビーチェは思う。貴女のためだ貴女のことを考えていると繰り返しながら、実際にはこちらの望みも価値観も在り方もなにひとつ見てはいない。
フィルムに閉じ込められた人々の姿は不変だと言われ、そしてそれは素晴らしいことだと謳われるが、しかし現実を生きる人間だってなにも変わりはしないではないか。ビーチェは不愉快な気持ちで煙草の煙を吐き出した。
「ありがとう。それならこれからも花を送ってちょうだい。花だけでいいわ。アクセサリーは趣味に合わないから。手紙もカードもいらないわ、もう贈り主はわかってるから」
そう言ってビーチェは相手の返事を待たずに電話を切ろうとし、しかし思い直したように言葉をつなげた。
「なぜ二日に一度だったの?」
『毎日じゃ、花が溢れてしまうと思って……貴女は完全に萎れてしまうまで花を捨てることの出来ないひとだから』
「一日置きでだって充分溢れてるわよ、バカね」
ビーチェは最後にようやく少しだけ笑う気分になって、受話器を置いた。
紫煙と白百合の甘ったるく青臭い匂いが混じり合い肺を満たす。
変わるも変わらぬもそこらじゅうに在り、ビーチェの部屋にも罪なく美しくそして代わり映えのしない白百合の花が枯れるまで咲き溢れ続けるのだ。
〈了〉
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