〈83年11月同日 W-15ストリート〉

「ビレン」
 膠着状態の中、最初に動いたのはワルターだった。後ろから手の甲で軽くビレンの肩を叩く。
「銃を下ろしていい」
「所長」
 自身も銃から手を離し、捲れた上着の裾を直しながらビレンに告げる。ビレンはあくまで少女を視界におさめたまま、肩越しにほんのわずか振り向いて、少し非難の色を含めて答えた。それでもワルターが首を振るのを見て、銃口を下げる。
 少女はまだ銃を構えている。単純に身体が硬直しているだけのようにも見える。
 肌寒い空気の中、顔に汗をびっしょりとかいているのは、銃を眼前に突きつけられた恐怖からだろう。銃口を"覗かされる"本当の恐さは、それに直面してみなければわからない。あまりにも絶対的な死の恐怖。少女はおそらくそれを初めて知ったのだ。視線が自分の持っている銃に落ちた。これはなんと忌まわしく恐ろしい物だろうと顔を歪めたように見えた。銃を持つことに慣れていない、それどころか初めてに違いない様子がありありと見て取れた。
「お嬢さん、要求はなんだね」
 ワルターが一歩前へ出て、ビレンに並んだ。ビレンはそれを制するような真似はしなかったが、銃はまだ片手に握ったまま油断なく少女を見ている。
 少女は自分に掛けられた声にびくりと身体を震わせて視線を上げる。
「我々に求めるところがあるから、そんなものを持っているのだろう?」
 ワルターの声は優しげとまではいかないものの、いたって穏やかだった。
 少女は一度大きく視線を泳がせる。動くその瞳は、透き通るような水色をしていた。
「なにが欲しいんだね。カネか、食料か、それとも他に?」
「……お、……おカネ……」
 おそるおそるワルターを見上げた少女が、喉から声を絞り出す。
 ワルターはそれを聞くと、無言で懐から財布を探り、中から紙幣を数枚取り出した。それを少女のほうへ差し出す。
 少女は戸惑ったように何度も目を上下させた。そして震える片手を銃から離すと、そろそろと手を伸ばす。警戒しているというよりも、ただ緊張に支配されているようだ。子供の手が紙幣を弱く掴み、そっとワルターの手から引き抜いた。
 それを横で見ていたビレンは少し意外そうに、わずかばかり片方の眉をあげた。この状況ならば、てっきりカネを引ったくりそのまま逃げ出すとばかり思っていたからだ。
 しかし少女は手元に引き寄せた紙幣を、緊張に見開かれたままの大きな瞳で見下ろしているだけで、その場から動こうとしない。
 逃げれば後ろから撃たれると警戒しているのだろうか。いや、そうも見えない。悪意もなく、敵意もなく、欲もしたたかさも狡猾さもない、不安のただ中にいる道を知らぬ子供そのもの。
 ビレンはひどく違和感を覚えた。"この通りになんと似つかわしくないことか"。
「……東洋系ですね」
 ビレンは少し身体をワルターのほうへ傾いで、ごく小さな声で囁く。視線は少女からはずさない。
「そのようだ。だがあちらの訛りはないな」
 ワルターもビレンと同じく声をひそめて答える。
 目の色こそ水色だが、少女の肌の白さは白人のそれとは少し違う。肩に掛かるぼさぼさにほつれた髪は黒い。
「お嬢さん」
 ワルターの呼びかけに、また少女がはじかれたように顔を上げた。少女の銃は小型だが、子供の片手では重いはずだ、構えたままのそれは徐々に下がりつつある。
「その銃はどこで手に入れたのかね?」
「……え……あ……、……お、落ち、てた……」
 一度自分の手にある銃を見てから、やはり恐々と答える。
「そうか。ものは相談だが、その銃をこちらへ渡してくれないかな? カネの対価だと思えばいい」
 ワルターの言葉に少女は紙幣を胸元で強く握り、警戒で片足を半歩後退させた。
「君の銃を奪ってそれで君を撃つとでも思うかね? そんなことをしなくても、こちらは銃を持っている。手元も覚束ないお嬢さんから武器を取り上げてしまわなくても、君が引き金を引く前に我々は君をどうにかできる。違うかね?」
 ワルターは変わらず静かな様子で、少女に語りかける。
 少女は胸元の紙幣を見下ろし、少しの間悩んだ様子をみせていた。それから自分の銃に視線を移し、――おそらくはどうやって渡せばいいかを迷って銃を左右に傾けてから、結局、手首を返してそのまま銃をワルターのほうへ差し出した。
「賢い子だ」
 ワルターは銃身を掴んで受け取り、そのまま隣のビレンへと渡す。突きつけられた銃口の記憶が鮮明なのだろう、少女は先ほどから何度もちらちらとビレンのほうを窺っている。
「……コルトのディテクティブですね。状態は悪いですが、正規品です。中古売買か、横流しの品が捨てられたものでしょう」
 ビレンは上目遣いで一度少女のほうを見たが、受け取った銃をいくつもの角度から検める作業を優先し、結果を告げる。流通手段こそ好ましいものではなさそうだったが、それは引き金通りにもともと存在する問題だ。現在彼らが危惧している事項のひとつである粗悪品ではないだけで、この場は充分だった。
「よろしい。それではもうひとつ質問だ。君はなんのためにカネが必要なのだね?」
 ビレンの言葉に頷いてから、またワルターが続ける。それは本来ならまったくの愚問だ。だがこの目の前の少女に対してはおそらく必要のある問いだろうと、ビレンも思った。
「え……」
 ワルターを見上げる少女の目は、まだ一度も緊張と不安から抜け出していない。
「誰かにカネを調達して来いとでも言われたのかね」
「ち、違う……あ、あぁ、――あぁ!」
 問いに答えかけていた少女の声量が、次第になにかを思い出したように上がってゆく。
「く、薬、お薬、お医者さん! どこに、どこに行けばいいの? あぁ!」
 瞳の色があっという間に、縋るようなものに塗り替えられた。まるで軽いパニックでも起こしたように取り乱して、ワルターにしがみ付く。
 急な動きにビレンが条件反射で反応しかけたが、すぐに自制する。
「落ち着きたまえ。どうしたのだね?」
 尋常でない様子の少女の肩にワルターは片手を置きながら、眉を寄せ険しい表情を作る。
「リー……あぁ、にいさん、兄さんが。ああ、助けて! どうしたらいいの、おねがい」
 少女の目は、黒の瞳孔のふちも水色の虹彩のふちも歪む。溢れ出た涙でだ。
「たすけて!」
 少女の叫び声を耳に、ワルターとビレンは視線を交わした。


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