〈85年6月同日 W-14ストリート・WBI事務所〉

 のろのろと開く扉の向こうに覗いたヴァレアの顔が、自分の姿を視界に捉えたとたん、緊張に引き攣るのをビレンは見た。
 それだけ後ろめたいと思っている証拠だ。
 ビレンは腕組みを解き、立っていた階段の傍から裏口(とは言っても、事務所に暮らす人間にとってはここが玄関のようなものなのだが)へ大股に近づいた。ドアノブを握ったまま固まっているヴァレアに構わず、扉を大きく開ける。その動きに引きずられてよろめくヴァレアの腕を掴んで、中へ引き入れる。
「……あ、あの、……ご、ごめんなさ……」
 無言で扉の鍵を掛けるビレンの背中に、ヴァレアは青い顔で言った。声はか細く震えている。
「謝るということは、それだけのことをしている自覚があるということかな」
 ビレンは振り向き、閉めたばかりの扉に背を預ける。その厳しい声の調子に怯えてか、ヴァレアは服の胸元を強く握って視線をそらした。
「今は何時だかわかるかい」
「……六時……」
「君の仕事が終わるのは?」
「……お昼、には、終わります……」
「なにが問題か、言ってごらん」
 ビレンは目を伏せ、指摘をヴァレアに委ねた。彼女は直立したまま、居心地が悪そうにもぞつく。沈黙がしばらく続いた。なにを責められているのかがわからず、なにを言えばよいのかを迷っているという様子ではない。ヴァレアは明らかにすべて理解しているだけの罪悪感を面に映していた。
「……帰りが、遅くなりました」
「他に?」
「連絡も、しなくって……」
「そのとおり。昨日も、君が戻ったのは夕方だった。もちろん、連絡もなしでだ。それについて君は謝罪したはずだ。なのに君は同じことを繰り返している。しかも時間をさらに遅らせて、だ。君はそんな学習能力のない人間だったか、ヴァレア?」
「……ごめんなさい」
 ヴァレアの小さな謝罪に、ビレンは大きく詰め寄った。怯えて退くヴァレアの二の腕を片手で掴む。ヴァレアが微かに痛みにうめいたが離さなかった。ビレンは言いようのない憤りと苛立ちを感じていた。
「その言葉は聞き飽きた、ヴァレア。昨日も一昨日も、その前もそう聞いたぞ! それでなにをしていたと言うつもりなんだ、君は? また散歩をしていたと? それも聞き飽きた、昨日も一昨日も、その前もそう聞いたからだ!」
 ヴァレアは泣きこそしなかったが、その表情は泣き顔のように歪んだ。ビレンは確かに普段から不機嫌であることが多い人間だったし、腹を立てている様子をヴァレアがはたから見ることはあっても、ヴァレア自身に直接それが向けられたことはなかったからだ。ビレンが怒りの感情を伴ってヴァレアを派手に叱ることは初めてだった。
「ご、ごめんなさい、ごめんなさい!」
 叱られることに対する自然な恐怖にヴァレアは身を縮める。だがビレンはそれを許さず、もう片方の手で彼女の顎を掴み、上を向かせた。
「誰に会っている」
 確信を含むビレンの言葉に、怯えに揺れていたヴァレアの両目が大きく開いた。
「君が馬鹿みたいに謝罪しか繰り返さないのはなぜだ。"嘘をつけないからだろう"。なるほど、散歩も嘘じゃあないんだろう。だがひとりでじゃない。毎日毎日、ひとりで町をぶらつくだけなら、隠す必要もないことだ。それとも君に訪れているのは、たかがそれだけのことを隠しながら繰り返したくてたまらない、くだらない、だが典型的な反抗期か?」
 ヴァレアの唇がわずかに開き、声にならないうめきが漏れた。ビレンに掴まれたままの顎が否定で微かに左右に揺れる。
「ああ、そうだろうとも。それなら君は公衆電話を探し、事務所に一言連絡するだけでいい。それでなにも問題はない。帰りが遅くなりすぎさえしなければ。なのにそうじゃない。君は、電話を掛ける君の横にいる"誰か"を、いないことにできないからだ。そんな些細な嘘をつく狡猾さすら、君はまだ身に付けていないんだ。そして、そんな君の横にいるのは、あの東洋人の小娘だ」
 一言一言を区切るような、強い口調で紡がれたビレンの言葉に、ヴァレアはますます目を大きくして、震えで小さく歯を鳴らした。
「……ち、違……」
「ならなぜ隠すんだ!」
 必死に否定しようと、"嘘をつこうと"努力するヴァレアの言葉を、ビレンは怒りに任せた声で塗りつぶす。
「あの子供が警察から逃げ出した存在であることを、君も知っているはずだ! それと知りながら君は彼女と会っている。逃亡者を庇っている。違うとは言わせんぞ。それにようやく気付いた私も、まったくもってたいした間抜けだ! あの東洋人はどこにいる?」
 ビレンの尋問に、ヴァレアは動きの制限された状態で再び小さく、しかし先ほどよりも明確に頭を左右に振った。
「言うんだ」
「……い、いや……」
「言うんだ!」
「いや!」
 そこでヴァレアは初めてビレンの手に抗った。彼の身体を強く押して逃れようとする。顎の手は離れたが、彼女の二の腕はなおも、吊り上げられるように掴まれたままだった。
 ビレンは一瞬目を見開き、それからさらに強い憤怒をあらわにした。ヴァレアはいまだその面に怯えを滲ませていたが、しかしある種の意志を含む眼差しでビレンを見上げていた。
「自分がなにをしているかわかっているのか?」
「わ、わかってるわ」
「いいや、わかっていない。わかっているなら、こんなことは」
「だってホンファはなにも悪くないもの!」
 ヴァレアは叫び、自由な片手に拳を作ってビレンの胸を叩いた。初めてのヴァレアの反抗だった。対立だった。
 ビレンは眉間の皺を深くし、その手首を取る。ヴァレアの踵が浮いた。
「あの娘が悪くないとしても、彼女の後ろに悪い人間がいるんだ!」
「そんなの知らない! 私はホンファしか知らない!」
「あの娘だって汚らわしい売春婦だ!」
 ビレンは怒鳴った瞬間から失言を自覚していた。それはヴァレアの瞳に浮かんだ、怒りとも悲しみともつかぬ色でさらにはっきりとしたものになった。ビレンの感情が一瞬冷めて、彼はそんな失言をするほどに自分が腹を立てていることに気がついた。
 ビレンは確かに性を商売にする人間を嫌っていたが("彼はとにかく嫌いな類の人間が多いのだ")、だからといってそれをむやみに口にして迫害する人物ではなかった。口に出すとしても、ビリーのようにビレンの人嫌いを認識した上で流すことのできる相手の前でだけだった。
 だが、ヴァレアにそれが通じるはずもない。
「なんで……そんなふうに言うの……」
 ヴァレアは失望を湛え、悲しみに震える声で言った。ビレンの中にも、怒り以外の後悔と動揺が浮かんだ。それでも引くわけにはいかなかった。
「……あの日会った男を覚えているだろう。そうだ、彼女の客だった男だ。彼女の傍にいるということは、ああいう人間とも接近しうるということだ。君が巻き込まれない保障がどこにある?」
「ひ、引き金通りには行かないもの! そんなことになったりしない!」
「危険なのは引き金通りだけじゃないんだ、銃で命を奪われることだけじゃないんだ! なぜわからない!」
 ビレンはそう口にしながらも、内心にわずかな空しさを感じていた。理屈を考えてみれば容易にわかることだ。大人から、大切な友人を悪し様に言われた子供が、それに少しでも納得することなど果たしてあるだろうか?
 だが、だからといって許容できることでもなかった。ヴァレアは同年代の他の子供に比べて世間知らずだったし、初めて反抗というものを見せたのが今日このときであったほどに、性根が素直だった。それはいっそ不健全ですらあるだろう。そんな性質から生まれる隙というものは、懸念せざるをえない事柄だ。
 彼女はまだ、信頼してすべての判断を任せるには幼すぎるのだ。そしてたとえ彼女自身を信頼したところで、不可抗力から巻き込まれたなにかに対処できるだけの力を持っていないのだ。
「知らない、知らない! 私はホンファに会いたいの! 一緒にいるの!」
「駄目だ!」
「いや、いや! 明日も会うの! だって約束してるもの!」
 ビレンはいっそう頭に血がのぼるのを感じた。ヴァレアの腕を掴んだまま、彼女を引きずるように歩き出す。
「あの東洋人と会うと言う以上、外には出さない」
「いやだ! いやー!」
 ヴァレアは癇癪を起こしてだだをこねる子供の叫び声をあげながら抵抗にもがくが、ビレンの力に敵うはずもない。そのまま階段を引きずられてゆく。
 ビレンはその声を聞きながら、我知らず歯を食いしばっていた。苛立ちはヴァレアの反抗へのものでもあり、おそらくは自分自身へのものでもあった。
 ビレンには、彼女を守るために強圧的な態度に出る以外の方法がわからなかった。そしてその意識が、ただの養育の義務のみから生まれるものではなく、彼女自身をそれだけ大切に思うようになっているのだということも、まだ認識していなかった。


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