〈93年2月21日 W-13ストリート・ロングフェロー&ロイド夫妻宅〉

 西の十三番街は、WBI事務所がある雑多な十四番街に比べると住宅地に性質が近く、一軒家も散見できる。
 ロバートとリサの自宅は、そのうちの一戸だ。郊外ではないのであまり大きくないが、緑の庭のあるその家がヴァレアは好きだった。
「ヴァレア! 待ちかねてたよ!」
「リード……久しぶり」
 玄関でヴァレアを出迎えたのは、兄のリードだ。ここしばらく見ていなかった兄の姿にヴァレアは目を細めた。
 二人で抱擁を交わしてから、連れ立ってリビングに向かう。窓が大きく取ってある、明るいリビングだ。
「身体は疲れてない? 大丈夫?」
 ヴァレアは脱いだコートとバッグを置きながら、リードに尋ねる。リードは現在、離れた市にある大学の薬学部に在籍していて、週末を利用して寮から戻ってきたのだ。
 数日前にヴァレアから両親の、正確には母の死についての連絡を受けて。
「大丈夫だよ。連絡をもらってから今日までが、本当に長くて……帰りたくてたまらなかったんだ」
 リードが苦しげに首を振り、ヴァレアは眉を下げて悲しげに微笑む。二人はソファに並んで腰を下ろし、両手を取り合った。
「本当はあまり早くに知らせないほうがいいと思ったんだけど、でも帰るときの都合があると思ったから。ごめんなさい」
「いいんだ、いいんだよ、ヴァレア。僕も覚悟してたことだし、それに急いで帰ったところで、状況が変わるわけでもないのもわかってるんだ。ただ、ヴァレアに会いたくて」
 リードが両手に力を込め、ヴァレアはそんな兄の目を見つめ返した。
「私も会いたかったわ、兄さん。会いたかった」
 ヴァレアは目を伏せ、リードと額を合わせる。悲しみを慰めてくれる大切な存在は充分にいる。しかし同じ境遇の肉親は、それとはまた別格の存在だ。兄の体温を感じただけで、ヴァレアは悲しみと安堵がない交ぜになった、辛くも温かな感情で胸がいっぱいになった。
「辛かっただろう?」
「大丈夫。みんなが支えてくれたもの。ワルターも、ビレンも、ビリーも。リサなんて泣きながら慰めてくれてね。どっちが慰められてるのかわからないって、最後はふたりで笑ったわ」
 ヴァレアが顔をあげて小さく笑うと、リードも痛みの色は含むものの、同じように微笑み返してきた。
「おんなじだ。リサは僕のところにも、わざわざ仕事を休んで来てくれたよ。ロブも何度も電話をくれたしね。事情を知ってる友だちも、色々と気を使ってくれた」
「私たち、とても恵まれてる。幸せね」
「……ああ、僕もそう思う」
 二人は自然と祈るように互いの手を握る。それからヴァレアは片手を離し、ジーンズのポケットから大振りのロケットを取り出した。母の遺髪が入った、鈍い金色の入れ物。
「これが?」
 ヴァレアがロケットをリードに手渡すと、彼はそれを受け取り、見下ろす。ヴァレアは頷きながら握ったもう片方の手もゆっくりと解いて、その様子を見守る。
 リードはそろりとした指の動きでロケットを開け、中に入った黒髪の束を見つめた。ヴァレアがしたのと同じように、指先でそっと触る。慈しむような、それでいて悲痛な様子で髪をしばらく撫でてから蓋をする。そして両手でロケットを握りこみ、額に当てた。
「お母さん」
 祈りの言葉と同じような敬虔さで呟くリードを、ヴァレアは静かに、しかし強く抱きしめる。
「私はもう、たっぷり泣いたの。だからリードも泣いて」
「ヴァレア」
 リードは小さく妹の名前を呼び、少し耐えるような間を置いたものの、すぐに低い嗚咽を漏らし始めた。ヴァレアは兄の痛みが少しでもやわらぐように、彼に寄り添い、抱きしめ続けた。


 それからしばらくして、一通り泣いたリードが照れ臭そうに顔を拭い、ヴァレアの腕の中から抜け出す。
「もういいよ。もう大丈夫だ」
「足りなかったらいつでも言って」
 ヴァレアが少し冗談めかして言うと、彼はますますはにかんで、縦か横かも曖昧な様子で首を振った。
「それで、これは僕が預かってていいって?」
 拳を握っていた手を広げ、リードがロケットを示す。リードに連絡をした際に、ヴァレアはそう頼んでいた。
「ええ」
「いいの?」
 ヴァレアは唇を引き結び、複雑な笑みを浮かべて頷く。
 確かに母の形見なら自分も手元に持っていたい。しかしこれは、母の形見であると同時に、ヂュ=ドゥランの形見でもあるのだ。
 自分が、ヂュ=ドゥランの遺したものをも大切にしてしまうであろうことを、ヴァレアはわかっている。
 ただの昔の恋人の遺品であるならまだしも、ヂュ=ドゥランはビレンに取り返しのつかない一生の傷を負わせた人物だ。そのビレンとともに生きることを選択した以上、彼女の思い出を目に見える形で持ち続けることは許されないだろう。そのことがビレンの中にさらに深く刻むであろう傷を思うと、それは明らかに罪だった。
 それにこの"古ぼけたロケットに入った遺髪という形"は、ヂュ=ドゥラン個人が抱いていた、ディウ=カークという女性への想いの名残でもあるはずだ。その形を壊してしまうことはすべきではないとヴァレアは思う。
 もはや母の遺髪というそれそのものが、ヴァレアにとって悲しい痛みの象徴となっていた。
「私が持っているのは……その、あまりよくないことなのよ」
 しがらみのない兄なら、純粋に母の形見として持っていられる。母を愛する気持ちは同じなのだから、そのほうが良いに違いなかった。母だとて、自分の遺したもので、間接的にとはいえ誰かが傷つくことは望まないはずだ。
「……そうか、うん。わかった」
 ヴァレアはリードに詳しいことを話していない。しかしなにか事情があることは汲んでくれたようで、彼は小さく頷いた。
「お母さんに会いたくなったらいつでも言って」
 さきほどのヴァレアの言い回しを真似て、リードが微笑む。ヴァレアもつられて小さく笑い、ありがとうと口にして、ロケットを持つ兄の手に自分の片手を重ねた。
「お父さんのことも、わかればよかったんだけどな」
「十年も経ってから、お母さんのことがわかったくらいだもの。お父さんのことも、いつかわかるかもしれないわ」
 ヴァレアの言葉に、不意にリードが少し表情を暗くし、ソファの背もたれに身体を沈めた。
「僕は……悪いと思っているんだ。危ないことも辛いことも、その、全部ヴァレアに押し付けてるみたいで……」
「なに言ってるの、私が自分で選んだのよ。嫌なら最初からこんな仕事しないわ」
「だけど」
「ワルターのために働くだけだったら、リサみたいな手伝い方だっていいんじゃない。でもなんていうか、私にはたぶん、こっちのほうが向いてるの。昔から危ないことばっかりしてたでしょ、私」
 ヴァレアはリードを覗き込むように顔を近づけて、悪戯っ子のような表情を浮かべてみせた。兄は渋い顔で首を振る。
「木登りや探検とはわけが違うじゃないか」
「あら、木から落ちるのだって、当たりどころが悪ければ死んじゃうのよ」
「僕の心配を聞いてくれないところも変わらないね、ヴァレア!」
 リードはしまいに苦笑して、それからヴァレアを抱きしめた。
「じゃじゃ馬な妹でごめんなさい。でもそれが直りそうな気はあんまりしないの」
「それでもいつか改まってくれるのを期待してるよ、僕は」
 言葉とは裏腹に諦めたような穏やかな笑みを浮かべる、同情すべき兄の頬に、ヴァレアは親愛のキスを送った。


「大学に戻るのは明日よね?」
 リードがロケットを首に掛けるのを見届けてから、ヴァレアが尋ねる。
「うん、明日の午後だ。今日は泊まっていけるの、ヴァレア? ロブは少し遅くなるけど、でも今晩はみんな揃うから、リサがディナーを張り切りたがってたよ。不安そうだったけどね」
「リードが嫌がったって泊まっていくわ! 話したいことはとてもたくさんあるもの。リサの料理は、まずくはないのよね。まずくはないの。でも、あんまりおいしくもないのよね。なんでかしら。チーズケーキを焼くのは上手なのにね。クリームチーズがたっぷり入ってて」
「リサにはチーズケーキに専念してもらおうかな。料理は僕たちで作ろうよ。僕もあまり自信はないけど、今から下ごしらえを始めたらのんびりできる」
「そうね。じゃあキッチンに行きましょう。私はビリーに鍛えられてるから、たぶん大丈夫よ。そこそこ自信あるわ」
 ヴァレアはそう言って、ソファから立ち上がった。リードを促すように、彼の手を取る。
「お母さんのキャベツのパイとパンプキンスープ、それにお父さんのローストチキンが世界一おいしいのは、きっとこれからも変わらないけどね」
 兄妹は、二人揃って泣き笑いのような表情を浮かべた。
 それらはきっと二度と口にできない品々だからだ。
 しかし今日のディナーとデザートだってとびきりおいしいに違いないことも、わかっているからだ。
 失ったものとは別の大切な家族を、美味と幸福を、心から享受できる自分たちのことを、二人は誇りに思っていた。
 失ったいくつかの存在も、新たに得たいくつもの存在も、どちらもどちらの代わりにはならず、そしてどちらとも深く愛してやまない。
 それこそが兄妹にとっての、苦く、明るい現実だ。

〈8〉93年2月――幕間/兄妹が向き合う現実。(了)


 ←BACK  NEXT→〈9〉へ

TRIGGER Road
novel
top