【Chapter 21】

 もう使われていない広い馬小屋に、ゲールの手下たちが十人ほど集まっている。
 嗤う彼らが囲むその真ん中で、キャットが水の張られた馬水桶から勢い良く顔を上げた。両腕は両側の女二人に押さえられ、水に濡れた巻き毛をそのうちの一人が掴んでいる。
 既に目元に痣の浮かんだ顔をしかめ、キャットは水を吐き出してむせる。だが充分な呼吸が為される前に、再び頭は桶の中に沈められる。水が低い音を立てて激しく泡立つ。キャットは自由になる肘から下を動かして桶を掴むが、二人がかりの力ははね返せない。肩がぶるぶると震え、それでもまだ頭を押さえる女の力は緩まず、キャットの足が地面のくたびれた干し草を蹴散らす。
 桶を掴む指先が白くなり、その力が抜けそうになる寸前、馬小屋の扉が音を立てて開く。手下たちはそちらに意識を向け、キャットもようやく解放される。
 弱々しく、しかし大きくえずいて桶にしがみついたキャットは、なんとか顔を上げ入り口を見る。
 立っているゲール。その肩に担がれた影。垂れ下がる結った長い黒髪。キャットはまだ水の膜に覆われる目を瞬かせて眉を歪めた。
 ゲールがレダーナの身体を放り出す。一九〇センチメートルはあるゲールによって地面に叩きつけられる衝撃に、レダーナは身体を跳ねさせて咳き込みながら覚醒する。
「そいつはなにか吐いたか?」
 顎でキャットを示し、ゲールが形式的に問う。手下の一人が首を横に振る。
「この女の仕業だ」
 ゲールはそう続け、仰向けに倒れるレダーナの胸を右足で踏みつけた。レダーナは眉間に深く皺を刻み、息を詰まらせゲールの足首を掴むが、まるでびくともしない。
「全部この女の差し金だ。そうだろう、用心棒」
 言葉を向けられたキャットは険しい目でゲールを、そしてレダーナを見、しかし唇を噛んでなにも答えない。無言で桶に捕まっているキャットの腹を、手下の女が思い切り蹴る。キャットは身体をくの字に曲げて干し草の山に尻餅をついた。
 ゲールの足の下で、乳房を踏みにじられ胸骨を圧迫される痛みにレダーナが悶える。その前髪をゲールが掴み、足を退けながら引き毟るように掴み上げる。歯を食いしばって立ち上がったレダーナの頬を、ゲールが手の甲で思い切り張った。一発食らって後方へよろめき飛んだレダーナの身体を、手下の男が受け止める。
 手下たちが窺うようにゲールを見る。ゲールは笑みの気配も見せないまま、顎を左から右へ動かす。

 両手を頭の上で縛られたレダーナが、高い木の台に仰向けに寝かされる。手のロープは台の脚に固定される。台は腰から背中の半ばまでを支える程度の幅しかないため、レダーナは大きく弓型に仰け反ることを強いられる。
 キャットは近くで後ろ手に縛られ、地面に胡坐をかいているが、その背中は手下の女に酷く体重を掛けて踏みつけられていて、額に干し草がつくほどの無理な前屈姿勢を取らされていた。
「用心棒」
 正面からゲールの声がして、キャットは地面で鼻先を擦りながらもどうにか顔を上げる。ゲールは歪なシェリフバッジを指で弄び、自らはこの輪から外れるように壁にもたれていた。
「そこの女から、なにを持ちかけられた」
 ゲールの言葉はすべてキャットに向いている。しかしその暗い双眸はレダーナだけを見ている。
 キャットは視線をゲールからレダーナに移す。頭が逆さに落ちたレダーナと目が合う。レダーナはほんの一瞬キャットを見返し、すぐに視線を天井に向けた。
 手下の女が背中を踏む足に更に力を込める。キャットは喉でうめいただけで問いには答えず顔を伏せる。
 ゲールが鼻から深く息を抜くのと同時、顎を喉につけて少しでも頭に血が下りる責め苦を軽くしようとしているレダーナの顔に、馬水桶の大量の水が浴びせ掛けられる。
 レダーナは大きくむせ、鼻や口に入り込む水から逃れるために首をできる限り横に向ける。
 手下の男がレダーナのシャツをズボンから引き出して腹部を露出させた。横にいた女が唇の端を笑みに歪め、咥えていた葉巻を手に持ち直し、火のついたそれをレダーナの臍の下に押し付ける。レダーナの口から低く短い悲鳴が迸り、身体が強張りながら跳ねて踵が地面を蹴った。手下たちは皆笑い声をあげる。
 キャットはぼやけるほどの近距離で地面を見つめながら、汗を滴らせて眉をきつく歪める。
 ゲールはシェリフバッジを歯で噛み、苦痛に喘ぐレダーナを冷ややかな目で眺めながら、キャットに言う。
「俺が聞いたことに答えろ。さもなきゃ次はお前だ、用心棒」
 キャットはただ、再び顔を上げて低くゲールを睨む。

 レダーナは相変わらず同じ木の台に縛られている。しかし今度は背ではなく腹を台が支える状態で、なおかつ両手首のロープを固定する位置が少し高くなっていた。
 水に濡れ重みを持つ、緩く編まれた黒髪を、手下が手に一巻きして掴む。それを強く後方に引く。
 上体だけが後ろへ持ち上がり、台の脚に固定される手首のロープが軋み、レダーナは喉で苦痛の声を詰まらせる。斜めに伸びた足のつま先が土を抉る。
 キャットはレダーナの前上方にいる。拘束は解かれているが、懸垂をするように腕を縮めた状態で馬小屋の梁にしがみついている。下から手下が二人、それぞれキャットに向けて銃を突きつけている。
 そしてキャットのブーツの踵に留められた鋭い金属の拍車は、海老反りのレダーナの目の前にあった。ちょうどその左目のすぐ前に。
 キャットが息を飲み込みながら下方を少し振り返る。自分の身につけているものがレダーナに残った唯一の視界を脅かしていることを目視し、頬を痙攣させる。しかし腕を伸ばして身体を下げることも、今より身体を持ち上げることもできない。身体を腕二本のみで支え続けるキャットの動きは、二つの銃口で封じられている。
 一方のレダーナも、下手に今の体勢を振り切ろうとすれば、あるいは単純に苦痛から身動ぎすることですら、視力をすべて失いかねない。
「この女が、何者か知ってるか?」
 二人の傍までやってきたゲールが、初めてキャットのほうを見上げながら尋ねた。
 レダーナ本人は、なにも問われない。そしてレダーナ本人も、なにを言う気配もない。ただほんの一瞬、なにかが揺らめく険しい視線をゲールに流しただけだ。
 キャットは脂汗を滲ませながらゲールをわずかに見下ろす。腕が少し目立って震え始めている。
 手下の女が一人、にやついた笑いを浮かべながらぶら下がった片足を掴んで引っ張る。キャットは慌てて腕の力を強める。垂れた汗が目に入り、ぎゅうと片方の瞼を閉じる。
「賞金、稼ぎだろ」
 一度銃口を気にしてから、詰まる声で言葉を途切れさせてキャットは答えた。
「狙いはカネか? 俺の命か?」
 ゲールが手に持ったバッジを揺らす。キャットは苦痛の中に怪訝さを含めて眉を寄せる。
「そんなの、賞金稼ぎなんだったら」
 梁に掛けた手の向きを素早く変え、わからない質問に答える単純さと曖昧さで声を絞り出す。そこにレダーナの低くくぐもった叫びが被さる。
 手下の人間のブーツがレダーナの腰を踏みつけている。髪が一層強く引かれる。上体と喉が更に後ろに反る。手首を捉える縄の軋みと共に骨の軋みすら聞こえそうな、背骨を根元から逆向きにへし折るような責めに、レダーナの重い悲鳴の声量が上がる。
「この女のことは知らないけど」
 キャットは苦い顔をしながらも、踵の距離がレダーナの目と少し離れたのを見て、限界まで震えつつある腕で自分の身体を少し高く持ち上げる。
「あたしは、町のカネを取り返したかっただけだ」
 裏切りを告白するキャットの答えに、ゲールが顎を上げ、わずかの間不吉な笑みを浮かべる。
 銃を構えていた一人が、目の前にぶら下がるキャットの腹部を拳で殴りつける。
 髪を引いていた一人が、不意にレダーナからその手を離す。
 キャットの手は梁から滑り落ち、レダーナの身体は前にがくんと戻る。
 鋭い悲鳴が短く響く。
 地面に叩きつけられたキャットは素早く身体を起こす。その視界に、深くうなだれるレダーナの後頭部が映る。
 ヘーゼルの両目を見開き鼻で大きく荒い呼吸を繰り返すキャットを、ゲールは片眉を上げて見遣り、それからレダーナに近づいて彼女の髪を掴んで顔を上げさせる。
 瞼を閉じ、やはり激しく肩を上下させるレダーナの顔。左目ではなく、その下の頬に、皮膚の抉れた短い縦傷が刻まれていた。
 キャットは口を開け、震えるような深い深い息を吐き出す。
「惜しい」
 既に表情を消し去っているゲールが、レダーナの顔を視線で見下ろして揶揄するように言った。乱れた傷口から血を流しながら、レダーナは左目を開ける。ダークブラウンの瞳に、憎悪とも、嘲笑とも、皮肉とも取れる、冷ややかで強い色を浮かべる。
「やり損なうのが得意だな」
 本来のそれよりもずっと掠れた声を紡ぎ、強張る表情の中で、レダーナは震える唇の端だけをかろうじて上げた。
 ゲールの顔色がさっと変わる。その顔と両目を怒りに歪め、叩きつけるように乱暴にレダーナの髪から手を離した。
 片手のバッジを胸ポケットに押しこみ戻し、ゲールはレダーナから離れる。
「どっちもまだ殺すんじゃねえ」
 ひとの輪を離れたところで向き直り、部下たちに鋭い視線を流す。
「裏切り者はひとまずどこかに放り込んでおけ」
 キャットを指差し、しかし瞳は向けずに言う。
「そっちの女には、もう少し思い知らせてやれ」
 そして、今度はレダーナすら見ずに言う。
 その短い指示だけで踵を返し、苛立たしげに上着の裾をはね除けながら、ゲールは馬小屋を立ち去ってゆく。



←BACK  NEXT→

夕陽の決斗/黄金ガンマン
novel
top