【Chapter 3】

 おさげ髪の女はサルーンのスイングドアを開けた勢いそのまま、足をもつれさせ往来まで転がり落ちた。
 一度大の字に寝転がり、目を伏せ深呼吸をして、はずみで脱げた帽子を掴む。その視界の隅に、黒っぽい足の影が映る。
 女は帽子をやはり浅く頭に載せて、視線をその足から上に移動させながら緩慢に上体を起こした。見上げた先にあったのは、老いた狼のような瞳を持つ中年の女の顔だ。
「あんた運がいいわねえ! 探す手間が省けたわよ!」
 背後から降る大声におさげ髪が振り返る。サルーンの入り口に立つ腕を組んだローラが続けて声を張る。
「そいつが老、い、ぼ、れ、のジョディだよ。それからジョディ、あんたに売る酒はないんだから来たって無駄よ! せめてフェルネスさんとこの肥溜めでも掃除してきたら?」
 言葉の後半を向けられた、けっして老いぼれ呼ばわりされる年齢ではない、しかしすべてが失せ果てたような目をしたジョディと呼ばれる中年女は、なにも言い返さず、睨むことすらせずにただ黙って瞼を半ば伏せ、その場を離れる。
 おさげ髪は遠ざかる背と仁王立ちの踊り子を交互に何度か振り返り、慌てて立ち上がる。帽子の角度を整え、ジョディの後を追う。

 少しだけ猫背で歩く中年の女の後ろを、おさげ髪で千鳥足の若い女が一定の距離を保って続く。
 動かない黒手袋の右手をだらりと下げ、左手は上着のポケットに入れ、ジョディは後ろをわずかも見ないまま道の端を進む。おさげ髪の女も特に声をかけるでなく、相変わらず道化のような笑顔を浮かべている。
 同行するとも言えない二人がしばらく歩いた先、大通りの奥に一軒の屋敷が見えた。その手前で、ジョディがようやく立ち止まる。重い動きで振り返る。
「何の用だ」
 あわせて立ち止まるおさげ髪に投げられた声も、やはり暗い。しかしうらぶれた全身の雰囲気のなかで、その静かな声はどこか鋭さを含んでいた。ジョディのなにもかもは無気力に見えたが、そこに卑屈さだけは存在しなかった。声にも、そして老いさらばえた狼のような琥珀の瞳にも。
「私を探してたのか。私はお前を知らんが」
 おさげ髪はなにかを堪えるように唇を笑い歪め、肩をすくめる。
「うん、いやぁ、あたしも知らない」すくめた肩をむずむずと動かし、視線を一旦屋敷の全景に移し、「そっちこそなんか用事? がさ。あるんっしょ」再びジョディを見る。「お先にどうぞ」
 ジョディは無表情で女を見つめてから屋敷の入口まで歩いた。ポケットから出した左手で扉をノックし、顔を出した召使に少しぞんざいな対応をされながら中へと消える。
 おさげ髪の女はサスペンダーの根元に両手の親指を引っ掛けて、それをずっと眺めていた。

 屋敷は大きく、その書斎も広かった。白が基調の室内はいかにも豪奢で、壁の棚には銀のティーセットが飾られる。
 屋敷の主は書斎机の前にいる。椅子に座るのではなく、机に浅く腰を預けている。
 毛先は切り揃えられているのに長さのまばらな、うなじを覆う程度の黒髪の女で、長い前髪の下には大きな、しかし酷い三白眼の双眸が浮かぶ。臙脂色の緩い上着を羽織り、シャツのボタンは余分に二つは開いていて、その広く露出する首元に、ドレスに合わせるようなデザインの幅広のネックレスが赤く輝く。
「一度でもガンマンとして生きたらね」
 女、フェルネス・アトキンズは穏やかな口調で言った。
「ガンマンとして生きて、少しでも名を馳せたら……もう足は洗えないんだ」
 ぎょろりとした不吉な目つきの威圧感に比べると、フェルネスの声はさほど低くなかった。
 フェルネスの前に立っているのは背の高い若い男だ。カウボーイハットとベスト、ガンベルトにブーツと拍車。不満を湛えた顔つきで、二メートルは離れた場所からフェルネスを睨んでいる。フェルネスの手には一挺のS.A.A.――コルトのキャバルリーがある。構えはせずに膝の上、美術品でも扱うように両手でためつすがめつするだけだ。
「懸賞金が掛かれば当然、そうでなくても自分を倒して名を揚げようとする連中が、いくらでも湧いてくる。君のようにだね」
 フェルネスは微笑み、コルトの撃鉄を半分起こし、シリンダーを開けて覗く。青年はぴくりと眉を動かすものの、自分は動かない。フェルネスが続ける。
「だけど僕は、だ。そういう連鎖を断ち切ろうと、そう思っていてね……」シリンダーをかちりと回し、中から弾をひとつ抜き取る。かちりと回してもうひとつ。「つまり君のような野心に燃える人間が僕のところへやってきても、こうして説得して帰ってもらおうとね」かちりと回しひとつ、かちりと回しひとつ、かちりかちりと回してひとつ。そうして手の中に収めた弾を、自分の後ろに投げ捨てる。金色の弾は書斎机で跳ね、革張りの黒い椅子で跳ねて散らばり落ちた。ハーフコックの撃鉄をもとに戻し、両手を銃ごと頭の高さに上げてみせる。
「これはもう、そういう僕の主義の問題なんだよ。決めてるんだ。決闘はしない。無意味だからね。カネにも名声にも困ってない、この町で静かに暮らしていたい」
 口元で笑むフェルネス。青年は吐き捨てる。
「あんたはただの腰抜けだ」
「どうかな。そうかもしれないなぁ」
 なおも苦笑交じりで空とぼける相手に、青年は苦虫を噛み潰したような顔でハットを目深に被り直すと、大きく踵を返した。乱暴な足音を立てて扉へ歩き、フェルネスに背を向けた状態でノブに手を掛ける。
 フェスネスは素早く銃を腰まで下ろし、再び撃鉄をハーフコック、からららとシリンダーを回してコック、引き金を引いて閃光、銃声、硝煙。すべてがあっという間。密かに残されていた一発だけで正確に、確実に。
 青年は身体を硬直させたのち、棚の銀食器を巻き込んで床に倒れる。
 青年が開こうとしていたドアも軋みながら死体に引きずられる。ドアの隙間には黒い影が立っている。
「ジェーイ! J《ジェイ》じゃないか、遅かったじゃないか」
 その影――なんの感情表現もなく足元の死体を見下ろすジョディの姿を見て、フェルネスは口だけを大きく笑みの形に開けた。コルトを机に置き、両手を広げてジョディのほうへ近づく。フェルネスはジョディと呼ばれる女のことを、Jと呼ぶ。
 Jは黙って扉を押し開ける。途中、倒れた青年に扉が引っかかったので、足で無造作に死体を転がし、すり抜けるように室内へ入る。フェルネスはJを強く抱擁し、二の腕を掴んで揺するようにしながらにこやかに顔を見る。無邪気な喜びの表現で包んだ、どこかわざとらしく大げさでいびつな歓迎の様。
「もしかして待たせたかな。急な客でね」
 Jの腕をぱんぱんと叩き、笑顔のまま書斎机まで戻る。机の上の小さな金庫を開けると数枚のドル紙幣を掴み出し、その場で振り向いてJのほうへ差し出す。このときはフェルネスから近づいてゆくことはしなかった。
「いつももう少し渡してやれればいいんだが……まぁ、君にこまめに顔を出して欲しいのもあるからね」
 Jは老狼の目で、フェルネスの顔ではなくそのドル札だけをしばし見つめる。
 重い足取りで一歩、一歩とゆっくり近づく。フェルネスはもう笑っておらず、三白眼の冷酷な眼差しでJを待っている。
 フェルネスのすぐ傍でJは立ち止まり、泥の中から持ち上げるような動きで左手を上げ、そのカネを握った。かさりと紙幣独特の紙擦れ音を立ててフェルネスの手から抜き取り、左手だけで紙幣をずらして軽く枚数を確認すると、雑に折り曲げて上着のポケットに入れる。
 フェルネスはほんの一瞬三白眼を煌めかせた微笑を浮かべ、そして急な大振りの動きでJの頬に手の甲を叩きつけた。
 Jは腰を捩って壁際まで張り飛ばされる。
 崩れ落ちるJをすぐさま追い詰め、顔に掛かる髪を掴んで上向かせてもう一発、今度は拳を叩き込む。Jの身体は完全に床に倒れる。
 見下ろすフェルネスの唇辺が歪な笑みに引き攣り、それから子供のような哄笑が短く響く。
「そうともJ、一回でも多く貴様をこうしてやらなくちゃ僕の気が済まないからな!」
 フェルネスはJの身体を跨ぎ、再び胸ぐらを乱暴に掴んで上体を持ち上げた。Jはただ虚ろな、焦点の合わない瞳を漂わせるだけだ。
「どんな気分だ? このろくでなし……」腰を折り、Jに顔を近づけて、歪んだ笑み顔のフェルネスが憎悪のこもった声で吐き捨てる。「僕にカネを恵まれ、僕に顔を殴られ、僕の足元で這う、それを何度も何度も繰り返すのはどんな気分だ?」
 脇へずれていたJの瞳がゆっくりと動き、フェルネスを見る。フェルネスは床に突き飛ばすようにJから手を離す。
「見たか? 見ただろう! 僕はもう決闘なんて真似はしないんだ、お前を見習ってな!」数歩歩き、大きく振り返って怒鳴る。「銃の抜けなくなった間抜けなお前を見習ってだ!」
 Jはわずかに眉を痙攣させ、まぶたを下げる。フェルネスは駆けてまたも近寄り、Jの顔の前で膝をつく。片方だけ手袋に覆われた、Jの動かない右手を掴んで揺する。
「銃の抜けないお前になんの価値がある? 誰に断ってこの手を潰した? え?」
「事故だった……」
 フェルネスの追求に、Jが掠れた声で喘ぐように答える。フェルネスはそのブラウンの三白眼を怒りに剥いて、立ち上がってJの腹を蹴る。Jは衝撃に合わせて身体を折る。
 ぞろりとした黒髪を振り乱し、ブーツの足先を叩きこむ。Jはうめき声もほとんど上げず、身体を縮めて耐える。
 それが何度も続く。



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星空のガンマン
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