【Chapter 8】

 ジュディスは自分の小屋にいる、テーブルの前で椅子に座っている。外は明るいが、汚れた襤褸の分厚いカーテンを閉めているせいで室内は薄暗い。
 肘をつき、左手で額を覆う。置物のように横たえた手袋の右手を琥珀の瞳が見下ろす。虚ろさの中に険しい揺らぎが宿り、縁取る瞼がほんのわずか震えて見える。そのまま掻きあげた髪を強く引き掴み、掌を上に返した右手をなおも睨む。そして髪から離した手を、おもむろに右手に添える。黒い手袋のふちに左の中指を引っ掛け、わずかに持ち上げる。
 少しだけ上へ捲ろうとするような動きの気配があり、しかし結局、指が小さく震えるに留まる。
 左右の手を離して深く溜息を吐く。閉じた目を苛立たしげに擦る。もう一度息を吐いてから億劫そうに立ち上がり、動かない右手を上着のポケットに入れ、小屋の扉を開ける。
「お出かけ?」
 外に出ようとしたジュディスの横合いから脳天気な声が唐突に届く。驚いて振り向いた視線の先で、ノウンが小屋の壁にもたれ、地面に直接あぐらをかいていた。
「また会いに来るよって言わなかったっけ?」
 物言いたげなジュディスに先回りをするように笑って、小さな掛け声だけをともない手を使わずに立ち上がる。そして変わらぬ食えない顔つきで、ジュディスを小屋の中へ押し戻す。
「名を揚げる方法でも思いついたのか」
 さして抵抗もせず中へ戻ったジュディスは、声に皮肉の色を滲ませて言った。
「いやぁ」閉めた扉に背中を預け、ノウンが頬を掻く。「その前に確かめたいことが色々あってね」
 ジュディスの両目が厳しく細まる。
「あれ以上、お前に話すことなんてない」
 ノウンは自分の身体を引き剥がすように扉から離れ、ジュディスの目の前に寄る。
「別に喋ってくれなくってもいいよ」
 言葉の終わりと同時に薄く歯を覗かせ口角を大きく上に曲げ、その笑顔の横に拳を並べてみせてから、ジュディスの顔に叩き込む。
 唐突に殴られたジュディスは弾け飛ぶように寝台に倒れる、笑顔のノウンが更に追い打ちを掛けようと拳を振り被る、しかし左手で口元を拭いながらジュディスもすぐに起き上がり、寄り来るノウンの腹をブーツの靴底で蹴り飛ばす。
「やるじゃーん」
 背後のテーブルを派手に巻き込んで尻餅をついたノウンが腹部を押さえて立ちながら、眉だけは苦痛に歪めるも楽しげな声音で言った。
 ノウンはジュディスに飛び掛かって押し倒し首のスカーフを掴んで拳を握る、その拳が振り下ろされる前にジュディスが左拳でノウンの頬を殴る、今度は堪えたノウンも一発返し、上体を持ち上げるようにスカーフを掴む手に力を入れて続けてもう一発。拳を都合三度受けて口元から血を流すジュディスは頭が浮いて距離が近づいたのを利用し、鼻面に頭突きを見舞う。
 ノウンがさすがに仰け反って後ろに半ば倒れる。ジュディスも寝台から降りるが、立ち上がろうとした瞬間に膝を崩して床に左手をつく。
 起き上がってきたノウンは両の穴から鼻血を流していて、その鼻を啜りながら赤を拭ってにやりと笑う。険しい顔のジュディスは赤く腫れあがる頬を一度押さえ、そのまま手を滑らせて唇を袖で拭く。
 またも先に動いたのはノウンだ。二人は掴み合いになり、床に転がる。何度か上下が入れ替わり、不利への傾きが大きくなるのはどうしても、利き手の動かぬジュディスになる。
 ジュディスの右手を掴んでノウンが身体を起こした。右脚で身体を押さえつけ、左の膝で右腕を床に釘付けにする。
 肘のあたりを杭で打たれるような形の負荷にジュディスが呻きを漏らし、そしてすぐにその顔が別の苦に歪む。
 ノウンの手が、ジュディスの黒い手袋に掛かっている。
「火傷だったっけ?」
 ノウンの声は常の通り軽く、それでいて鋭利な響きを確かに含む。
 ジュディスは両目を見開いてもがく。身体を捻り、右腕を暴れさせるが、縛めを外すことはできない。
 右腕を床に押し付けたまま、ノウンは抵抗の中で目的を遂行する乱暴さでもって、黒の手袋を剥ぎ取る。
 ジュディスの右手が――白く、なんの皮膚の乱れも見えない右手があらわになる。
 引き攣る表情を尻目に、ノウンは間を置かず自分の銃を抜いて銃身を握り、床の掌に向けてハンマーの要領でグリップを思い切り振り下ろす。
 作り物のように動かなかったはずのジュディスの右手は、反射的に強く握られる。
 ぎりぎりのところで銃を止めたノウンが唇を笑みでむずつかせる。
 銃をホルスターに戻しながら手を離し、脚を退けて、しゃがんだままジュディスから一歩距離を取る。
 ジュディスは表情を固め、噛み締めた唇を震わせ、剥いた両目で自分の右手を凝視する。
「人間、四十過ぎて……目が悪くなってくる、体力も力も落ちてくる、女は身体の具合だって色々変わっておかしくなる……。どれもガンマン稼業にゃ影響のあるハナシ」
 まだ横たわったままのジュディスに視線を近づけるように、片膝をついたノウンが更に背中を丸めて語りかける。
「あんたはなにより怖かったんだ」声は静かで淡々として、そして柔らかである。「いっぺん上がった名声の前で、自分の衰えを晒すときが来るのがさ」
 声が流れるなか、ジュディスは暴かれた右手をぎこちなく広げる。動揺に揺れる視線はそこに注がれ続け、一瞬たりともノウンへは向かない。
「だけど事故なら仕方ない、怪我なら仕方ない……どのみち無能の木偶扱いされて笑われるんだとしたってね。言い訳がきくほうがマシさ。あんたはそう考えた」
 時折鼻血を啜る音が混じる。答えぬジュディスは左手をついてゆっくり顔を伏せ、重い身体を引き摺り上体を起こした。裸の右手は隠すように庇うように、腹に抱え込まれる。
「あんたはジュディス・ネックの名前も捨てたかったんだ。いつからか、きっとずっとね。その証拠に重っ苦しい伝説の名前を隠すようになってた。予定通りだったのか魔が差したのか、利き手を“潰し”て、いよいよあんたは『ジョディ』になった」
 髪が重く落ちて顔のまったく見えないジュディスに対し、ノウンは語り続ける。見つめて間を置くこともあったが、ジュディスが言葉を挟むことはなかった。
「そんでもって、そのゆっくり消えてくジュディス・ネックの最後の証人が、あのフェルネスって女だ。だからあんたはこの町から離れられない。望んでんのか脅されてんのか、もっと複雑なもんがあるのか、そこはわかんないけどさ」
 二人の身体は正面から向き合っている。しかし片膝を立て、手を床に置いたまま頭を深く垂れるジュディスは動かない。
「とにかくあんたは伝説から逃げたかった」ノウンの静かな声が力と重さを帯びる。「だけど逃さないよ」
 そこで初めて、ジュディスの頭がわずかに持ち上がる。暗い髪の僅かな隙間から琥珀色の瞳が覗く。虹彩の位置からして、ノウンを見てはいない。
「死んでるようなもんだって?」
 ノウンはそう、いつかのジュディスの言葉を繰り返してから、鼻血を両掌で交互に拭い、見せつけるように広げて差し出す。
「こいつを見てよ。酷いザマだ。あんたがやったんだよ」
 まだらに赤く汚れた両手を自分でも一度ずつ眺めてから、その手を床について更に姿勢を低くする。影に沈むジュディスの顔を覗き込む。
「伝説なんていつだってお伽話だよ。でもジュディス・ネックに憧れなかった子供なんていない」
 ノウンは浮かべ、絞り出す。道化のそれではなく、縋るような笑顔を。軽快なそれではなく、祈るような声を。
「あんたまだやれるよ。見せてよ」
 ジュディスの顎が上がって、見える顔の範囲が広くなる。浮かぶ老狼の双眸はまだ力無く、しかし目の前の若者を捉えに動く。
 二人の身体は正面から向き合っている。その瞳も真っ直ぐに交わっている。
 睨み合い見つめ合う両者の空気は、動きはせずともけっして凍ってはおらず、底から徐々に押し上げられるようななにかが渦巻き続ける。



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星空のガンマン
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