【Chapter 9】

 サルーンの中に客の姿はない。外の明るさだけが光源の空間で、主人である鷲鼻の女が酒瓶やグラスやビール樽の点検をしている。
 踊り子ローラはまだ身支度前の簡素なドレスを着てカウンター傍のテーブル席に座っており、寄せられた眉の下では思考に浸る瞳が床を睨んでいる。彼女が乱暴な手櫛を赤毛に通したところで、スイングドアの軋み音がする。
 慌ててカウンターを出る店主を視界の端に、ローラは視線を落としたまま上の空で顔だけをわずかに上げ、そして弾かれたように入り口を振り向いた。
 臙脂の上着に、首を飾る派手な金と赤のネックレス、飾り彫りの入った金の留め具のガンベルト、そこに収まるコルト・キャバルリー。スイングドアに手を掛けて佇む、町の支配者たる姿のフェルネス・アトキンズ。
「これはフェルネスさん、なにか御用で……その、今月分はもうお支払いしたはずですが……」
 駆け寄り、手を組み合わせて怯え混じりに言う店主の肩を、フェルネスは首を横に振りながら手の甲で押し退ける。
「すまないなぁ、僕はちょっとローラと話があるんだ……お前は外しててくれないか」
 言葉は店主に向く。しかしぞろりとした黒髪の間から覗く異様な輝きの三白眼は、初めからローラを貫くように見つめ続けている。
 サルーンの主人はフェルネスとローラを戸惑いの表情で交互に見てから小刻みに数度頷くと、壁際の掃除桶を掴んで外に逃れ消える。
 前後に揺れるスイングドア、その上部からの逆光でフェルネスは影に沈む。ゆっくりとローラに近づく、拍車の金属音と硬いブーツの足音。ローラは喉を微かに鳴らし、フェルネスを真っ直ぐに見返したまま、スカートを両の拳で握って立ち上がる。
「なんの御用かしら、フェルネスさん」
 少しすました様子で顎を斜め前に傾げて言った。フェルネスは三歩分ほどの距離を保って立ち止まり、左手をカウンターに置いた。黒髪を掻きあげ視線を一度手元に落とし、唇辺に微笑を浮かべる。
「ローラ、お前とも長い付き合いだ。この町じゃ、お前が一番古くから僕を知ってる。僕もお前を一番古く知ってる。彼女以外ではね」
 肩に掛かる赤毛を後ろへ払い、少しぎこちないが強気の笑顔を作る。
「たかだか五年かそこらよ」
「それでもさ。だからまぁ……腹を割って話そう。僕が言いたいのはそういうことだ」
 ローラが自分から一歩、フェルネスに近づく。
「まわりくどいのは会った頃からの貴女の欠点ね。フェルネス、訊きたいことがあるならはっきり言ってちょうだい」
 その言葉にフェルネスは顔を伏せた。声は出さずに肩だけで少し笑ってから、首を振る。
「いいとも、いいとも。そうしよう」顔をあげ、左右の目を非対称に細め歪めてローラを見る。「お前は、あのよそ者とどんな関係なんだ?」
 ローラは眉にぴくりと恐れを走らせた。しかしすぐに細い指先を額に添えて、薄い微笑みとともに問い返す。視線はフェルネスから外れている。
「よそ者? あの変な女のこと? 妙なこと言わないで、私はあの女に馬鹿にされたのよ。思い出しただけで腹が立つわ」
「そんな女を部屋に泊めたのかい」
 言葉尻に被せるような冷たい声に、今度こそローラの表情がはっきりと強張る。額の手を下ろし、顔を背ける。
「なんの話なの」
「明け方、その妙な風来女がお前の部屋から出てきたそうじゃないか。窓からこそこそとさ。モノーが見たそうだよ」
 ローラは目を伏せ、深く大きく息を吐く。呆れの溜息のようでもあり、緊張を散らす深呼吸のようでもある。
「なによそれ。あの女、こそ泥までやってくれたのかしら」
「知らないうちに潜り込んでたとでも?」
「だって、私は朝までここにいたのよ。ずっと歌って踊って、酔っぱらいどもに愛嬌振りまいてたわ!」
 フェルネスは酷く緩慢な動きで二、三度頷き、カウンターを離れた。テーブル席の椅子に手を掛け、ローラのほうへ向きを変えてから、そこに腰を下ろす。浅く座り、しかし背は背もたれに。
「そうか、まぁいいよ。じゃあ、その女にJを紹介したのはなんでかな。あまり良い冗談じゃないね。彼女が銃を抜けもしないのは、お前もよく知ってるだろう」掌を上にした右手をかざして、付け加える。「僕の次にね」
 ローラはつま先をフェルネスの方へ向け、それでいてやはり顔は彼女から逸らした。
「だから……だから、あのよそ者だってすぐ諦めて出て行くと思ったのよ」
「でも実際そうはならなかったし、そのうえお前はそいつを引き止めた」
「なにが不満なのよ!」赤毛が大きく広がるほどの勢いでローラはフェルネスを振り返り、声を張り上げた。「誰かがジョディに関心を持つのがそんなに気に入らないの!」
 フェルネスの唇が閉じ、瞬きが止まる。ブラウンのぎょろつく三白眼が、ローラの顔を絡め捉える。
 ローラは一瞬我に返ったように身体を硬くするが、スカートを強く掴み上半身を乗り出して、再び口を開いた。
「なにが怖いの、ジョディがいなくなること? それとも落ちぶれたジョディの『正体』を、ひとに知られること?」
 その言葉を受けたフェルネスの双眸に微かな驚きが灯り、次に明確な険しさが宿る。
 溜息を吐き、眉間に皺を刻み、重い動きで立ち上がって、ローラの傍へ戻る。
「……人間ってやつは余計なことをひとつ知るだけで……随分多くの他のことを忘れる。慎重さ、思慮深さ、誠実さ、敬意、友情……色々だ。僕はよくそう感じるよ」
 フェルネスはカウンターに辿り着く。身体の向きを変え、背中を預けてもたれる。
「ローラ、お前はどうだい、わかるかい? 僕の言ってることが」
 表情と違って、フェルネスの口調にさほどの変化はない。瞳が帯びる狂気や、身に纏う不吉な威圧感が生む印象に比べると低くはない声。涼やかですらあるその声が、静かにローラに語りかける。
 ローラは硬い瞳をわずかに震わせながら、失言を悔いるように、あるいは抗いを貫くように唇を結ぶ。
 フェルネスは首を垂れ、すぐ髪を振り払うようにして天井を見上げる。
「まぁ、いい。まぁいいよ。構わない」
 これみよがしで、そして曖昧な独り言めいた呟きを零し、軋むに似た動きでフェルネスはローラを見る。
「ローラ、もう二階へお戻りよ」
 濃いアイラインに縁取られたローラの両目が、大きく、大きく開く。
「どうした? さあ」
 カウンターから身体を剥がし、フェルネスが口元だけで微笑む。ローラは首を動かさず、視線だけを横へ向ける。視界に捉えることは出来ない真後ろの階段へ意識を向ける。
 何度か瞳を彷徨わせ、半歩だけ後退る。靴のヒールがこつと小さく音を立てる。
「ちゃんと前を向いて歩くんだ。そのまま階段を上る気か? 危ないよ。ドレスを着た人間が転んじゃいけない」
 それを、微笑を浮かべ、穏やかな物言いを崩さぬフェルネスが咎める。揃えた指先は階段を示す。
 ローラの赤い唇は噛み締められて白いグラデーションを描き、鼻孔が膨らみ、頬も震えを伝える。上下する回数の増える睫毛の奥で、瞳は哀と憎を湛え、フェスネスを睨む。
 しかしフェルネスの言葉も状況もなにひとつ翻らず、ローラは最後に肩で大きく息をした。今度は床を蹴るような強いヒールの音をさせて、くるりと身体を反転させる。まっすぐ階段へ歩き、ドレスのスカートを掴んで裾を上げる。
 硬い眼差しを上階へ向け、一段一段、ゆっくりと階段を踏みしめ上る。
 その踊り子の背中を、フェルネスの三白眼が射続けている。



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星空のガンマン
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