【Chapter 4】
顔に痣を作り、口元に血をこびりつかせたJ、ジョディは、不規則な靴音を立てながらフェルネスの屋敷の裏口を出る。扉をくぐったところで壁に背を預け、唇を結び目を伏せて、肩を大きく上下させる。腹部を押さえことさら深い呼吸をひとつ、そして聞こえたメロディーに重い瞼を上げる。
身体を起こして首を回した先、屋敷の傍に置かれた荷台の上に、先ほどのおさげ髪の若い女が乗っていた。積まれた藁に埋もれるように座り、くるりとした垂れ目で空を見上げ、軽快な調子の口笛を吹いている。
「あら、あーらあら、こりゃまた随分な」
女はジョディに気づくとぴたりと口笛を止め、ぱちぱちと瞬きをしてそう言った。気づく様子そのものが少しわざとらしくもあった。
ジョディはすぐに女から目を背け、重い足を引いて歩き出す。
「ねえねえ大丈夫? 肩貸そうか?」
慌てて荷台を飛び降り、女がジョディを追いかける。まとわりついた藁屑が道に散らばる。ジョディは女を無視し、背中を丸めて道の端を進む。
耳につきそうなほど肩をすくめたおさげ髪の女は、藁屑を派手な動きで払いながら、ジョディの斜め後ろにぴったりとついてくる。
「あたしも取り敢えず待ってたんだから、ついてっちゃうよ。転んだら支えるくらいはさ?」
ジョディはうるさそうな眼差しを少し背後に流しただけで、身体を引きずるように歩き続ける。
町の外れの小屋に戻ったジョディは、隅に置かれた桶から左手で水をすくって口元を洗い、袖で拭う。粗末な木の寝台に引っ張り込まれるように腰を下ろす。
「一人暮らし?」
サスペンダーに指を引っ掛けて、ひと通り狭い小屋の中を見回した若い女が尋ねる。しかし答えは期待していないようでもあったし、実際ジョディもなにも答えない。
ジョディは寝台に仰向けになった。手袋の右手を腹の上に置き、ゆっくりとした深呼吸をする。
「薬とかは?」
膝を伸ばしたまま歩いて寄ってきて、その若い女は言った。
「ここにはないし、必要もない」目を閉じて、苦痛に掠れる声で答える。「それより……もう一回聞かないと駄目か? 何の用だ、お前は誰だ」
女は寝台の脇に立ち、サスペンダーを指で弄びながらジョディを見下ろす。考えるように唇を尖らせ、瞬きをしてから口を開く。
「あたしは――よく知られてる《Known》……」
女の言葉にジョディが怪訝そうに目を開く。
「なんだって?」
「あ、違うよ、違う違う。そのまんま。名前なんだ。ノウン。K-N-O-W-N。ノウン……有名じゃないけどね。全然」
ノウンは首を傾けておどけた苦笑いをした。ジョディは鼻で息を抜き、向けていた視線を外す。
「有名だろうと無名だろうと、私はお前を知らないし、お前も私を知らないんだろう」
「ま、そうなんだけどさ……ねえ、でもあんたって……」
しかしノウンの問い掛けは外の物音で中断された。突如として現れる、荒々しい人間の声。
『ジョディ!』
外からの呼び声に身体を起こそうとするジョディを片手で制し、ノウンが忍び足で窓に向かう。
『いるんでしょう、出てきなさい!』
ぼろぼろのカーテンの陰から外を覗くノウンの傍に、結局起き上がったジョディが近づく。身体を屈め、ノウンの下から外を見る。
外にはならず者ふうの女が二人いた。ひょろりと背の高いカウボーイハットのブロンドと、どんぐり目の小柄なメキシコ人だ。ブロンドのほうは鼻筋の通った面長、メキシコ人のほうは背が低く頭が丸く、上下の顎が前にせり出していて、猿のようだった。
「リン・バガアスとモノーだ」
「知り合い?」
「フェルネスの下にいる奴らだよ」
「あ、あー、ああ、そう」
ノウンは少し気まずげに外とジョディの顔を交互に見て浅く頷く。ジョディは片眉を上げ、ノウンに視線を流す。
『どうせよそ者を匿ってるのはお前でしょう、そいつと一緒に早く出てくるの!』
小屋の外では赤いシャツと黒いズボンの金髪女――リン・バガアスが低い声で怒鳴っている。
「……なにをやった」
ジョディの問いに、ノウンは窓際から少し離れながら答える。
「いやぁ、あんたを待ってる間にちょっとふらふらしてたらさ、ちょっかい出されたもんだから……お返しにからかってみただけなんだよ」
ジョディが改めて外の二人を見ると、リン・バガアスの頬は赤く腫れ、モノーの顔には痣ができているようだった。おまけに二人とも髪が濡れている。
ノウンを再び振り向く。彼女は垂れた目を大きくして愛嬌のある瞬きをしながら肩をすくめた。
ジョディは鼻から深く息を吐き、顎で小屋の裏口を指し示し、そして依然足を引きずりながら扉を開ける。
「よそ者はどこ?」
小屋を出たジョディにリン・バガアスが不機嫌な声で怒鳴った。無言のモノーはその横でライフルを構えている。
「知らない」
「お前と一緒にいたって話を聞いたのよ」
壁にもたれたジョディが答え、リン・バガアスは畳み掛けながら大股で無遠慮に小屋へ入る。後に続いて、横を通り過ぎるぎりぎりまでライフルの銃口を突きつけていたモノー。そして突きつけられていたジョディ。
リン・バガアスは腰に手をあて小屋の中を見回す。すぐ裏口に気づきモノーに確認を促すと、自分は椅子を蹴り飛ばし、シーツを引っぺがして、寝台の下を覗く。ジョディはただ黙ってその様子を見ている。
「いた?」
裏口周辺を探って戻ってきたモノーにリン・バガアスが尋ねた。ライフルを抱えるモノーは首を横に振る。
「言ったろう、知らないんだ……確かに声は掛けられた、だけど変な奴だった、だから相手にしなかった」
ジョディはやはり壁に身体を預け、喘ぐような声で言った。リン・バガアスは髪を耳に掛けながら、窺う目つきで睨む。
「時間の無駄だ」
目を伏せ、ジョディが溜息を吐く。歩み寄ったリン・バガアスはその頬を平手で打つ。
「言葉遣いに気をつけなさいよ。腰抜けの乞食のくせに」
引き攣った口元から吐き捨てられる言葉。顔に落ちた髪の間から覗く無気力な老狼の瞳。
少し顎をあげ、眉を歪め、リン・バガアスは硬い笑みを唇に浮かべて、壁際の棚の引き出しから銃を取り出した。古びた一挺のS&W。
中央のテーブルまで歩き、銃を乱暴にそこへ置いて、顎でジョディを呼び寄せる。自分のベルトから弾をいくつか抜き取り銃の横に叩きつける。
「弾を込めてご覧よ」
挑発が向けられる。ジョディは呼吸二つ分銃を見下ろし、おもむろに左手を伸ばす。
「“右手で”よ、うすのろ」
嘲りが重ねられる。ジョディが視線を上げた先には酷薄な瞳があり、視線を横下方へ滑らせた先には強制するライフルの銃口がある。
ジョディは再びリン・バガアスの顔を見、テーブルの銃を見る。銃を見て顔を見る。銃を見る。手袋の中に木屑を詰めて形を保っているかのような右手をゆっくりと持ち上げて、銃の上にかざす。瞳が再びリン・バガアスに向く。相手は唇だけで笑っている。
右手をさらに銃に近づける。微かに震える指先が触れる。琥珀の瞳が揺れて、少し忙しなくリン・バガアスと手元を行き来する。なにかに耐えるようにその唇を噛み締める。そして耐え切ったなにかを飲み込んで、ジョディは右手を銃ではなくテーブルに置いた。
リン・バガアスが息を零して短く笑い、次の瞬間には険しい表情でジョディに唾を吐き掛ける。それ以上は口もきかずに、フェルネスの部下二人は小屋から立ち去っていった。
二人の気配が遠ざかって、ジョディは唾液で濡れた頬を拭う。
『おーい』
そのジョディの耳にくぐもったノウンの声が届く。怪訝に眉を上げ振り向いて、声の出どころを探す。
『ちょっとー、お願い、引っかかっちゃったよー』
ガタガタという物音とともに聞こえる、情けないがどこか呑気な声。寝台向こうの隅で、樽の上に重ねられた空のズタ袋が蠢いている。ジョディがそれを剥がすと、樽の底まで尻からはまり込んでいるノウンがいる。
「逃げたんじゃなかったのか」
「いやぁ、下手に逃げるとすぐに見つかりそうだったし」
鼻で長息を吐いて、眉に呆れの表情を乗せるジョディ。樽の中から悪びれない笑顔を返すノウン。
「それより頼むよ、ちょっと、出して」
そう言って内側から揺らされる樽をジョディはしばし見下ろしたあと、床に蹴り倒した。間抜けた悲鳴が混じるなか、樽のふちに片足を掛け、左手でノウンの足首を掴んで引っ張る。
「やぁ、どうもどうも……ありがとさん」
格闘のすえ樽から抜け出したノウンが、倒された拍子に飛び出た帽子を掴んで頭に載せながら笑う。肩で荒い呼吸をするジョディは苦しげに喉を鳴らし、手をぞんざいに振る。
「いいから、早く失せろ……これ以上、面倒に巻き込まれるのはごめんだ」
しかしくるくるとした目のおさげ髪の女は、口角をきゅっと上げて大きな笑みを作る。そしてテーブルに歩き、置かれているS&Wの横に手を添える。
眩しげに目を細め、少しの間、その一挺をじっと見つめる。
「……あんたさぁ」
硬い眼差しを注いでいたジョディが、なにかから逃れるように背を向ける頃、ようやくノウンは口を開く。
「ジョディじゃなくて、“ジュディ”じゃないの」
静かで穏やかな声音。老いつつある女の動きが止まる。
「ジュディ……ジュディス。こう見えてもさ、結構できるんだよー、読み書き。だから綴りだって知ってる、J-U-D-I-T-H――ジュディス」ノウンは貴重な美術品を前にしたときのような遠慮のためらいめいた様子で手を宙にさまよわせ、しかし結局テーブルの銃を取る。「Judith。美しく、敬虔で、勇気に溢れた英雄の名前だよね。子供の頃、いろんな意味でどきどきしながら読んだもんだよ、あの寡婦の話をさ」
ことさら大仰な口調で言ってから袖を伸ばし、銃身を磨き擦って、すぐまた丁寧に置く。
「そんでもってジュディスってのは」ノウンの声は賛美の優しさを含む。「その英雄と同じ名を持った、西部の英雄の名前だよ」
サスペンダーに親指を掛け、背を向けたままの女に向き直る。女から返るのは、顎が少し上がったときの後頭部の角度の変化。ノウンはむずつくような嬉しげな笑みで目一杯薄くした唇を開く。
「あんた、ジュディス・ネックだ」
中年の女はゆっくりと肩越しに振り返る。絡まる焦げ茶色の髪の向こう、虚ろな陰を持つ横顔で、琥珀の瞳が鈍く、しかし確かに光る。
←BACK NEXT→
△星空のガンマン
△novel
△top