〈83年11月同日 W-15ストリート・アパートメント一室〉

 存外に速い足で走る少女の後をワルターとビレンは追う。少女が向かった先は、外壁がところどころ朽ちかかったアパートメントだった。
「兄さん!」
 一足先に戻るべき場所へ戻ったらしい少女の声を頭上に聞きながら、二人はむき出しのコンクリートの階段を駆け上がる。
 辿り着いた部屋はかびのすえた臭いがしたが、それが血臭でないだけましだろう。
 狭い部屋の中に粗末な最低限の家具が置かれ、少女は既に、隅にあるベッドの傍にいた。一応の警戒の視線を室内や開け放した扉の向こうへ向けながら、二人もそこに近づく。
 彼らが見下ろした先の安っぽいベッドの上には、ひとりの痩せた少年が横たわっていた。髪こそ栗色に近いが、面差しは少女と重なる。ただ病的な赤ら顔で、擦り切れた毛布に隠れる胸を苦しげに上下させていた。意識はないようだ。
 ワルターが一歩踏み出て、少年の喉元を手で探る。少女はベッドの脇に膝をつき、少年の手を握ったままワルターを見上げた。
「随分熱いな」
「熱がさがらないの」
 答える少女の声はやはり涙で震えている。
「ずっと、熱がさがらなくて、でももう食べられるようなものもないし、お薬もないの! お父さんもお母さんもお医者さんをさがしにいったのに、でもずっと帰ってこない」
 その言葉にワルターとビレンは同時に少女を見て、そしてまた互いに視線を交わす。帰ってこない、ということの意味が明白だからだ。
「おねがい! さっき、さっきのおカネなら返します、お医者さんのおカネだってはたらいて返すわ、なんだってするから! このままだと兄さんが死んじゃうの、いやなの、ぜったいいやなの! おねがいします、おねがいだから! おねがいだから、兄さんのこと、助けて……」
 二人の無言のやり取りに、少女は見捨てられるかもしれないという不安を抱いたのだろう。また溢れてくる涙を少しでも堪えようとするように顔を強張らせて叫んでいたが、言葉の終わりは弱くなり、そのまま兄の手を握る自分の手の上に顔を伏せてしまった。
 ワルターは少年の首元から手を引き、その手を少女の肩に乗せる。大きく無骨な手だが、その挙動は静かだった。
「お嬢さん、そう悲観しなくていい。なにも厳しいことを言うつもりはないよ」
 穏やかな声に少女は涙で赤く焼けた顔を上げた。悲痛さの中にほんの少し希望の色を滲ませた少女を、ワルターは脇へ退きながらそっと少年から引き剥がす。少女は膝立ちのままよろけて、ワルターにしがみついた。
「……この国の国民として、成人は子供を守り救う義務がある。我々は特に法を重んじ、義務を遵守する立場にある」
 彼らと入れ替わるように、ビレンが自分のコートを脱ぎながらベッドのすぐ傍に立った。ワルターのそれとは違い、淡々とした声で並べられる言葉に、少女が不可解さからくる不安でまた眉を寄せた。わりあい背は高いが、少女の歳はせいぜい十歳というところだ。おまけに彼女の言葉には幼さがあった。
 ワルターはおかしさに思わず一度笑う。
「ビレン、お前は相手の年齢を考えてものを言う癖を付けたほうがいいな」
 腰を屈め、脱いだコートを少年に掛けていたビレンが動きを止める。肩越しに軽く振り返ってワルターを見、そして少女と目を合わせた。その表情はまったく変化していないようでもあり、わずかばかりばつが悪そうでもあった。
 ビレンは結局無言のまま首を戻す。ワルターが声を出さずに身体を揺らして低く笑った。
 少女は少し不思議そうに視線を行き来させ、最終的にまたワルターを見上げる。
「――君が我々を信用するならばの話だが。私たちは君たちを助ける。心配しなくていい。そういうことだ」
 ワルターは小さく微笑を浮かべ、ゆっくりとした明瞭な発音で少女にそう告げた。
 受けた言葉を染み渡らせているようなぼんやりとした間を置いて、徐々に少女の表情が歪んでゆく。その顔はこれまでの、少しでも感情を抑えようとしている様子が含まれたそれとは違っていた。実際のところはともかく、少女は少女なりに、兄を助ける目的のため感情だけに身を任せないよう努力していたのだ。少女がワルターたちに銃を向けた短絡的な行動も、方法を見つけあぐねての結果だった。
 だがようやく少女は支えを得た。救いの手を掴むことができた。だから、大声を上げて泣き出した。正真正銘の子供の泣き顔だった。

 ベッドの少年を毛布ごとコートにくるんで、ビレンが抱き上げる。かなり痩せているうえ、年齢は少女と一つ二つ程度しか変わらない様子の少年だ。ビレンにとってはひどく軽かった。
「どうします。ロバートのところへ?」
「ああ、それがいい。さぁ、お嬢さん、早く君の兄弟を助けてあげなければならない。歩けるかね?」
 頭を撫でられ、少女は大きくしゃくりあげながら頷き、しがみついていた手を離した。鼻をすすり涙を袖で拭いて、ふらつきながらも立ち上がる。
 そんな少女の背中に手を添えて、ワルターは部屋の外へ向かう。少年を抱いたビレンがそれに続く。
「さて、この状態で引き金通りを歩くのはさすがにいささか緊張するな。気を張って行こうか」
 部屋を出る直前、ワルターがビレンを振り返り少し笑って言った。
 彼らの能力とそして立場なら、車へ戻るまでに大きな危険に遭遇する可能性はさほどないだろうが、それでも緊張を強いられることは確かだ。
 ビレンは目を伏せ、無言で頷いた。


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