〈83年11月同日 W-14ストリート・ロングフェロー診療所〉

 十四番街の南に、詩人と同じ名を持つ診療所がある。
 一行は無事に引き金通りを抜け、車でここまでやって来たのだ。診察も一応の処置も終わり、彼らは皆二階の病室にいた。
「少し危ないところでしたが、まぁ命に別状はないし、高熱の後遺症が残ることもないでしょう。ただしばらくは安静にしてもらう必要がある。衰弱しているしね」
 そう言った彼はそこの所長で、ロバート=ロングフェローという名の黒人だった。
 短く清潔に整えた髪を後ろへ撫で付けており、銀縁の眼鏡を掛けた顔はいかにも知的で、そして優しげだ。
 兄の横たわるベッド脇の椅子から医師を見上げていた少女は、彼の言葉を聞き、笑み顔とも泣き顔ともつかない安堵の表情を浮かべた。
 解熱処置の施された少年も、先ほどまでよりは呼吸も静かで、寝顔が安らかになっている。
「このまま入院させたほうがよさそうだな、ロブ?」
 コートを脇に抱えたワルターが言った。
「そうですね。この子たちがいた部屋へ戻すのは、医者として反対だし、それに人道的にも賛成しかねます。彼はなにか病気を持っていた?」
 ロバートは手に持っているカルテから視線をはずし、身を屈めて少女に問う。
 少女は少し考えたあと、髪を揺らして首を左右に振った。それから、でも、と続ける。
「リードは、兄さんはからだがよわくて……すぐに疲れちゃうの。かぜも、よく引いてたし……」
「なるほど」とロバートはまた背筋を伸ばしてワルターとビレンのほうを向く。
「越してきたばかりだそうだから、環境の変化によるストレスや疲れが溜まった結果の発熱でしょう。身体の弱い子供にはよくあることだし、しかもその引越し先が十五番街では無理もない」
 ロバートはあまり引き金通りという名称を使わなかった。医師としてその存在にうんざりし、心を痛めているからだ。
「栄養失調の気はありますが、持病はないようだし、感染症の類の心配もおそらくないと思います。もちろん、さらにきちんと検査もしてみますが」
「ああ、よろしく頼むよ」
 ワルターの言葉にロバートは頷いて、カルテに一見すると読めない独特の筆記で文字を書き綴った。
「連絡先はひとまずそちらでよろしいですか、ワルター」
「それでいい。事務所か私の自宅に。いや、事務所のほうが誰かがいる可能性が高いな、まずそちらに頼む。あぁ、そうだ、お嬢さん」
「は、はい」
 兄の手を握ったまま大人たちのやり取りを見ていた少女が、少し言葉を詰まらせながら返事をした。
「君の兄弟の名前はリードだ。しかし君の名前を聞いていないな、カークのお嬢さん。カルテに書く必要がなくとも教えてくれるだろう?」
 ワルターの言葉に、少女は一瞬面食らったように大きくまばたきをしたが、声を発するためにこくりと一度息を飲み込んだ。
「ヴァ、ヴァレア……、……ヴァレア=カーク、です」
 子供の声で告げられたそれに、ビレンを除く大人たちは微笑を浮かべる。
「僕はロバートだ。君のお兄さんのことはきっと元気にするよ。だから安心して任せておくれ」
 白衣のポケットにペンを入れながらロバートがことさら穏やかな声で言う。ヴァレアはまた泣き顔のように眉の下がった、しかしそれでいて安堵の色濃い小さな笑みを見せた。
 続いてワルターが、片手をヴァレアのほうへ差し出し握手を求める。ヴァレアは少し戸惑ったように視線をワルターの顔と手に行き来させたが、おっかなびっくり、その大きな浅黒い手を握った。
「私はワルター=バーンズ。そちらの彼はビレン=ガートラン」
 ワルターの紹介にヴァレアがビレンのほうを窺うと、ビレンは無言で軽い会釈をした。ワルターたちと違い、不安な立場に置かれる子供を安心させようとするための、優しげな表情や振る舞いはない。彼がそういう人物だと充分知っているワルターは苦笑するだけで、とがめることもしなかった。ヴァレアとの握手を解きながら、彼女へ掛ける言葉を続ける。
「ヴァレア、君に色々と聞きたいことがある。よければひとまず私たちの事務所へ来て欲しい。なに、ここからすぐだ。いつでもリードの顔を見に来ることもできる。構わないかね?」
 ヴァレアは少し考えて、小さく頷いた。ワルターの言うことを疑い、警戒している様子はないようだった。
「ありがとう、感謝する。さて、私は少しロブと相談がある。入院の手続きだのなんだのでね。すまないが、先に事務所へ行っておいてくれるかね」
 ヴァレアはまた少し考え、心配そうにベッドの兄のほうを見たが、それでも結局は素直に頷いた。椅子から静かに飛び降りるようにして立ち上がる。
「ビレン、彼女を頼む。車は乗って行ってくれていい」
「はい」
 ビレンが指名されたのを聞いて、ヴァレアが少し心細さを滲ませてワルターを見上げた。ワルターはそれに笑いながらヴァレアの背を押す。
「彼は別に暴力的な人間じゃない。恐がる必要はないよ。さっきは君の"先手"に反応しただけで、いたって紳士的な男だ。そうだろう、ビレン?」
 笑みの混じるワルターの言葉に、ヴァレアのほうは自分の行ないへの羞恥と罪悪感に顔を赤らめ、ビレンのほうは自分へのからかいを感じ取っていささか複雑そうな顔をした。
 二人の様子にワルターは目を細め、それ以上はなにも言わずヴァレアの背中を軽く叩いて退室を促す。
 ビレンも黙って病室のドアを開け、脇へ退いてヴァレアが出るのを待った。
「あ……ミ、ミスタ、バーンズ」
 ドアへ向かいかけていたヴァレアが思い出したように立ち止まり、ぎこちない『Mr.』の発音でワルターを呼ぶ。
「なにかね」
 汚れたワンピースのポケットを探り、ヴァレアは先ほどワルターから渡された紙幣を取り出した。それは何度もヴァレアが強く握ったせいですっかり皺になっていた。
「こ、これ……」
「あぁ、そのことかね。それは君に支払ったんだよ、ヴァレア。君の持っていた銃の代金としてね。受け取っておきたまえ」
「でも……」
「君に思うところがあるのもわかるが――まぁ、その辺りの話も事務所に戻ってからしよう。ひとまずは預かっておいておくれ」
「……はい」
 ワルターの穏やかな声にヴァレアは俯き、その紙幣を見つめてからまたポケットにしまった。そうして次に思い出したのはビレンを待たせていることで、少し慌てた様子の早足でドアの外へ出た。廊下へ一歩出たその場で室内に向き直る。
「あの、兄さんのこと……おねがい……」
「心配ないよ」
 ロバートの優しい微笑みを受け、ヴァレアは胸に手を当てて頭を下げた。
「それでは所長、ドクター。失礼します」
 ビレンも病室に残る二人に短い挨拶を告げると、部屋から出て静かにドアを閉めた。ドアが閉まる直前まで、兄を案ずるヴァレアの眼差しが覗いていた。


 ←BACK  NEXT→

TRIGGER Road
novel
top