〈85年6月同日 W-14ストリート・WBI事務所〉

 ビレンは三階にあるヴァレアの部屋に彼女を放り込んだ。飛び出してくる前に素早く扉を閉める。
「どうしたって言うの?」
 外から鍵を掛けるビレンの背後でリサの声がした。手を動かしたままビレンが振り返ると、階段の手すりの向こうから心配そうに顔を覗かせている。尋常でない二人の様子に、何事かと見に来たのだろう。
「見ての通りだ」
 ビレンは不機嫌な声色で答えて、乱暴に鍵を引き抜く。ヴァレアはまだ子供だったので、彼女の部屋は外側からしか鍵の開け閉めができないようになっている。
「わかんないわよ」
 リサは顔をしかめながら残りの数段を上り、ビレンの傍まで来る。ビレンは耳障りな音を立てて揺れる扉を険しい目で見つめていた。ヴァレアの叫び声と扉を叩く音は、ずっと鳴り止まず続いているのだ。
「ただのお仕置きだ。残りはあとで説明する。ヴァレア、しばらくそこで頭を冷やすんだ! アルバイトも休んでもらう。いいと言うまで出るな!」
 リサに対し素っ気なく答えてから、ビレンはヴァレアの出す騒音に負けないよう声を張り上げて言った。
『いや、いやー! 出して!』
 ビレンが激昂することはそれほど珍しくもなかったが、ヴァレアのわめき声はリサにとっても初めて聞くものだった。さきほどからまばたきの回数が多いのはその驚きのせいだろう。
「黙るんだ!」
 ビレンはひときわ強く怒鳴りながら、一度扉を拳で叩いた。力の差がそのまま表れているような、ヴァレアが叩くものとはまったく異なる重く大きな音がする。さすがにそれに驚き怯えたのか、物音も声もぴたりと止んだ。
 少し沈黙の間を置いて静かになったことを確認すると、ビレンは扉の前から踵を返した。構わないようにとリサに手で示し、階段を下り始める。
 リサは心配そうに眉を寄せながら扉とビレンに交互に視線を送ったが、結局そのまま彼の後を追った。事情も聞かないまま、安易に慰めの言葉を掛けるわけにもいかないと思ったのだろう。癇癪を起こした子供には、確かに少しひとりで落ち着かせる時間が必要だ、とも。
 ビレンの早足のせいで、二人が会話を交わす前に二階に着く。そしてそこにはビリーまでもが、煙草をふかしながら立っていた。リサと同じく様子を窺いに来たのだろう。
「派手にやってんなぁ、おい」
 ビリーは相変わらずどこか超然とした態で、呆れとからかいの混じるシニカルな笑みを浮かべて言った。ビレンがあからさまに顔をしかめ、口を開こうとすると、リサがその背中を後ろからなだめるように軽く叩いた。ビレンは眉間の皺を消さないままリサを振り向き、それから気分を静めるように深く息を吐く。それでもおさまるのはビリーへの苛立ちだけだった。
「それで、どうしたの?」
 リサがビレンの前に回りこんで尋ねる。階段の手すりにもたれるビリーと並ぶ格好だ。
「……ヴァレアが会っていたのは、あの東洋人の小娘だ。ホンファとか言うな」
 ビレンは首を左右に振ってから、忌々しげに答えた。ビリーは軽く片眉を上げ、リサは大げさに驚いた表情をした。
「うそでしょう、どうして?」
 知らないと答えたくなるのを、ビレンは組んだ腕の上腕を強く握ることで堪えた。その間にビリーが口を挟む。
「二人きりにしたときに、"仲良くなっちまった"んだろ」
「……そのようだ」
「失敗だったな」
 ビレンは唇を噛んだ。ビリーに言われるまでもなく、彼もそう思っていた。あのとき、あの少女のはったりをねじ伏せさえすれば。あの少女への不快感を堪えさえすれば。そして、押さえ切れない期待を滲ませたヴァレアの瞳に折れさえしなければ、と。
「とにかく、もっと警戒すべきだった。あの子供が逃げ出したことに対して。まだこの辺りにいて、まさかヴァレアに接触してくるとは思わなかった……いや、向こうから接触したかどうかはわからない。偶然出会っただけかも知れないし――考えたくはないが最初から落ち合う予定だったのかもしれない」
「でも、どこで会ったのかしら? まさか引き金通り?」
「さすがにそりゃねぇだろ。いくらなんでも、ヴァレアがひとりで引き金通りまで行くか? 人一倍あそこにびびってるんだぜ、あいつは」
 ビリーが細く勢いよく煙を吐き出してから言う。
「それもそうよね……」
「なんにしろ、あの東洋人がまだこの近辺にいることだけは確かだ。所長に報告しよう」
 ビレンは話を一旦切り上げ、階下へ向かって歩き出した。ワルターは既に帰宅していたが、際立った私用でもなければ、連絡はオフィスの電話からする習慣だった。
「ヴァティはどうするの?」
 リサが手すりから身を乗り出して聞いた。ビレンは足を止め、彼女を見上げる。
「しばらく謹慎だ。基本的に部屋から出さないようにしろ。特に建物の外には絶対だ。悪いが、食事は適当に君かビリーが運んでやってくれ。私では臍を曲げて受け付けてくれない可能性がある。アルバイト先には私が連絡しておく」
 それだけ告げ、ビレンは階段を下りて行った。リサは頷いたあと、困惑の溜息を吐きながら天井を仰いだ。ビリーは取り出した携帯灰皿に煙草を押し込むだけだった。


 翌日の正午ごろ、ヴァレアに昼食を運びに行っていたリサがオフィスに駆け込んできた。
「なんだ」
 その慌てた様子に、ビレンがペンを置いて少し強く言った。
「ヴァティがいないわ!」
 反射的にビレンは椅子を蹴るように立ち上がった。ビリーもさすがに、少し驚いたように眉を歪めている。
「どういうことだ」
「どういうこともなにもないわ、食事を運んでいって、ノックしても声を掛けても反応がないのよ。それで鍵を開けたらもぬけの殻だわ!」
「部屋の中に隠れているということは?」
「隠れられそうなところは一通り見たけど、いなかった。でも窓が少し開いてたのよ!」
 ビレンは扉のところにいるリサを押しのけるようにオフィスの外に出た。その後をリサも、そしてビリーもついて行く。
「鍵は掛けて来ただろうな?」
 階段を早足で上りながらビレンはリサに念を押す。部屋のどこかに隠れておいて、見に来た者が動揺してその場を離れた隙に抜け出す、などという方法は定石中の定石だ。
「もちろんよ!」
 そう言って、リサはビレンのほうへ鍵を投げ上げた。ビレンはそれを受け止め、三階まで駆け上がる。ヴァレアの部屋の扉横には、リサが運んで来たのだろう、ナプキンの掛かったトレイが置かれていた。
 ビレンは荒い手つきでヴァレアの部屋の扉を開ける。部屋の中には確かになんの気配もしなかった。
「ヴァレア! いないのか?」
 ビレンは無駄だと感じつつも、そう呼びかけながら室内に入る。周囲を見回しても、リサが探した痕跡はあるが、ヴァレアの影など見えるはずもなかった。
「いつからいないんだ。いつ消えた?」
「朝には間違いなくいたぜ。ベッドの中で不貞腐れてたが、口にクラブサンドを突っ込んでやったからな」
 ビリーが扉の縁に肩をもたれさせて答えた。
「その後の施錠は」
「ちゃんとやったに決まってんだろ」
 ビリーは確かに面倒くさがりで大雑把な男だったが、ある面ではきちんとした厳格さを持っていることをビレンも知っていた。
「……窓から出たとしか考えられんな」
 ビレンは溜息を吐いて、大きく開いたままの窓に近づいた。リサが開けたのだろう。下を覗いてみるが、もちろんなにもない。
「だって三階よ?」
 リサが両手を広げて言う。ビリーがその横をすり抜け、ビレンの隣までやって来る。窓から身を乗り出して上を見上げた。
「むしろ三階だからこそ、だな。こっから屋上に登りやがったんだよ。掴む場所も足場も、その気になりゃ充分ある。できないこたぁねぇ」
 リサは両目と口をこれ以上ないというくらい大きく開ける。信じられない、というように首を振った。
「窓はどのくらい開いていた?」
「少し……少しよ。四インチ(約十センチ)程度」
 ビレンの問いにリサが答える。ビリーが頷いた。
「抜け出してから、足である程度蹴り閉めたんだろ。物音にも敏感になってただろうからな、あんまり強くは蹴れなかったってことだ。もしくは閉めるつもりもなくて、たまたま足場にする関係で中途半端に閉まっただけかもしれねぇな。どっちにしろ同じだ。あいつはここから出たんだ」
「ヴァティがそこまでするなんて、信じられないわ……」
「確かに。あいつ、結構な度胸と身体能力の持ち主じゃねぇか。鍛えたほうがよさそうだな。モノになりそうだ」
 ビリーが呑気な感想を漏らす横で、ビレンの思考は暗く沈んでいた。ヴァレアはここまでするほどに、あのホンファという少女を求めているのだろうか? それとも押さえつけられたがゆえに、ただ意地になっているだけなのか。どちらにしろ、これまでの素直で内気なヴァレアを考えれば、この反乱がにわかには信じがたかった。
「……屋上に、まだいるとも思えんが。一応見てきてくれ」
 少し弱くなったビレンの言葉に、リサが頷いて部屋から出て行く。それと入れ違いになるように、ワルターが姿を現した。
「随分騒がしいな。どうしたんだね」
 ワルターは部屋に足を踏み入れながら問いはしたが、状況を見れば出来事は把握できているはずだ。その言葉はどちらかと言えば、どこか意気消沈しても見える――それは、おそらくワルターやビリーでなければ気付かない程度の変化だったが――ビレンに向けられていた。
「……ヴァレアが、逃げ出しました。おそらくは、あのホンファという少女に会いに行ったんでしょう。昨日の時点で、『明日も約束している』というようなことを言っていましたから。警戒が足りませんでした」
 ビレンは窓脇の壁に背をつけ、静かな調子で事実だけを答える。ワルターは少し眉を寄せ、葉巻の煙を鼻から吐き出した。
「なるほど。自棄になって判断力を失われては危ない、早く探しに出たほうがいいな。……彼女は窓から逃げたのかね?」
「そのようです」
「……うっかりしていたな」
 ワルターは相槌を打ってから、葉巻を指に挟んだまま親指の付け根を額に押し当てて呟いた。
「なにがです?」
 窓を閉めながらビリーが言う。ワルターは小さく苦笑した。
「リードから聞いた話なんだがね。なんでも以前の彼女は、随分とおてんばだったそうだよ」


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