〈85年6月同日 W-14ストリート〉

 窓から屋上へよじ登ったヴァレアは、こっそりと、しかし急いで事務所を抜け出した。少し迷ったのは確かだったが、彼女はもともと高いところも得意だったので、それほどの勇気を必要としたわけでもなかった(部屋の窓から屋上にかけての高さは、今までに彼女が登った一番大きな木と同じくらいか、少し高い程度だった)。
 それよりも抵抗があったのは、ビレンの言いつけに背くことだった。自分が悪いことをしているという自覚も、ヴァレアにはあった。だがそれでも、ビレンのあの言いぶりが受け入れられなかった。叱られたことへのショックより、ホンファを侮辱されたことが悲しかった。ビレンに対して初めて覚えた反発心は、一晩経っても消えなかった。
 ヴァレアはビレンのことが好きだった。それは友人としてでもあったし、それだけではない感情もあった。
 初めて出会ったときから彼に対し『怖い』という感情を何度も抱き、それがなくなった今でも、取っ付き辛さを度々感じていることは事実だ。しかしヴァレアは、ワルターやビリーやリサといった、本当に素直に好きだと思える人々の言葉や振る舞いから、ビレンが悪人でないことを理解している。彼はただひどく偏屈で気難し屋なのだ。
 これまで偶然にもそういった人物に接する機会のなかったヴァレアには、その人柄が新鮮に感じられた。厭うのではなく、親しくなりたいと思った。そしてビレンもある程度それを受け入れてくれた。
 だからともに暮らすうち、ヴァレアの中にビレンに対する特別な感情が生まれるのに、そう時間はかからなかった。彼の容姿もヴァレアが惹かれる要因のひとつではあっただろう。ある程度のハンサムでさえあれば、他者に免疫のない少女が憧れを抱くには充分というものだ。それに加えて彼の気難しい性格が、かえってヴァレアに打ち解けたいという欲求をもたらしたのだから、結果など考えるまでもない。些細なきっかけから始まり、積み重なり、あとは勝手に育ってゆく。恋心とはそういうものだ。少なくとも、まだ自我も成立しきらぬ子供が一方的に焦がれるだけの恋愛というものは。
 なるべく人目を避けるため、建物の間を出入りしながらヴァレアは走る。その胸には罪悪感が重く圧し掛かり、距離の離れていくWBI事務所に後ろ髪を引かれる思いもある。皆に心配と迷惑を掛けることについてももちろんだったが、あれだけ怒っていたビレンが、果たしてこうやって抜け出した自分をどう思うか、考えただけでヴァレアは実際に胸に痛みを感じるほど苦しかった。それでいて、ビレンに対する反感も消えはしないのだ。
 ヴァレアは比較的スタミナもあり、走ることも得意だったが、それでも随分息が切れるほど走ってようやく、いつもホンファと待ち合わせている場所が近づく。ホンファと会えると思うと、ヴァレアはそれまでの苦悩を忘れてしまうような気すらする。
 彼女は確かに身体を売っていたが、それでもビレンが忌むような汚らわしい売春婦などではないと、ヴァレアは信じていた。


 いつかのようにヴァレアは勢いよく路地裏に飛び込む。建物の角を曲がって、道からは直接覗けない通路が待ち合わせの場所だ。ホンファはそこにある、大きなゴミ箱の上に座っていた。
 人目をごまかすためだろう、人工的な紅色の髪をバンダナで覆い隠した上に帽子を被り、少年のような格好をしているのが常だったが、今日は黒いワンピースを着ていた。ただ、帽子だけはいつもと同じベースボールキャップで、少しミスマッチだ。
「おそかったね」
 ヴァレアに気付いたホンファが顔を上げて微笑んだ。今日は化粧もしている。初めて彼女らが出会ったときと同じ、年齢不相応に濃い蠱惑的な化粧だ。久しぶりに見るその美しい面に、ヴァレアの心は波立った。
「ごめん、なさい、ちょっと……色々あって」
 ヴァレアはホンファの傍まで駆け寄って、乱れた息を整えながら、少し視線をそらして言った。ホンファを真正面から見つめると、なんとも言えず恥ずかしい気分になることがよくあった。
「まぁ、かまわないよ。わたしも、ちょっと遅れそうなったからね」
 相変わらず片言の発音と文法で話すホンファは笑いながら、ゴミ箱から飛び降りるように立った。その動作はとても軽やかだった。そしてヴァレアの片手を取って握り、軽く背伸びをして、唇にキスをした。もう片方の手はヴァレアの耳元に触れる。ヴァレアは少し身を硬くして首を縮め、口付けを受ける。既に習慣化している行為だ。はたから見れば明らかに挨拶のキスとは異なるそれは、しかし彼女らの間では挨拶なのだった。
 苦しい呼吸をいっとき口付けで遮られ、ヴァレアは大きく息を吸う。他愛ない会話で始まるいつものひとときを過ごしたかったが、もはやそうはいかないのだ。
「ホンファ、ホンファごめんね」
 ヴァレアはホンファに握られた手を強く握り返して言った。窺える狼狽の色に、ホンファが首を傾げる。 
「どうした?」
「ばれちゃった、ばれちゃったの。ホンファと会ってることばれちゃったの! きっと警察にも言われちゃったわ!」
 そのヴァレアの言葉に、ホンファの唇が一瞬引き締められ、それから小さく舌打ちをする。
「それでか。今日は少し警察見かけたよ。そろそろしよう思って、仕事したところだったから、ちょっと焦ったね」
「ごめんね、ごめんなさい、私のせいなの。ホンファ、逃げて、逃げなくちゃ駄目よ。また捕まっちゃうわ」
「そうね、少し考えないとだめね。やっぱり警察きらいきらいだもの。ご主人に報告して、考えてもらうよ」
 ホンファの言う『ご主人』というのは、要は彼女の行なうような商売の元締めのことだと思われた。しかしヴァレアはホンファからその単語を聞くだけで、それがどういう人物なのかは知らなかった。彼らが普段どこにいるのかや、組織立ったものなのかも、いっさい知らなかった。聞かないようにしていた。それを聞き出してしまえば、いっそうワルターたちに背いているという事実が目の前に覆い被さってくるからだ。彼らとホンファの間で、今よりももっと板ばさみにならなければいけなくなるからだ。
「まぁ、それはそれでいいわ。今日はどうするね? お散歩するか。それとも、もうどこかもぐりこむか?」
 ホンファが表情を変えたのは最初の舌打ちだけで、あとは普段と変わらずそう切り出してくる。ヴァレアはうろたえた。
「すぐに帰らなくて……逃げなくていいの?」
「すぐ帰ろうが、どっちだろうが、危ないのはいっしょよ。なら遊びましょ。お化粧おとすひまなかったのと、き"か"えるひまなかったのはちょっとタイミング悪いね。どっか水道ないか?」
 ホンファはそう言うと、ヴァレアの手を引いて歩き出した。ヴァレアは戸惑いを表したまま、その後に続く。どちらにしろ、こんな路地裏に長く留まることも危険だと思ったからだ。
「でも、ホンファ……」
 不安げにしぶるヴァレアに、ホンファが振り向く。やはり何事もなかったかのように微笑んでいた。
「ヴァレア、今日はちょっと遠くまでお散歩しましょ。どうするか、十四番街《ここ》からも出るか。だいじょうぶ、心配しなくても引き金通りには行かないね」
 ヴァレアは握った手のひらが感情の高まりで汗ばむのを感じた。そして頷き、足を速めた。
 ヴァレアはホンファの微笑に抗うことが、いつもできなかった。ただ流されるのではなく、惹き込まれ、魅了され、自分から受け入れてしまうのだ。その瞬間は、なにもかもを忘れてしまうほどに。


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