〈85年6月同日 W-14ストリート外れ〉

 そこは十四番街の外れにある、使われていない倉庫だった。その一帯は引き金通りとの曖昧な境目のようなもので、ひとけも少なく、空っぽの建物も多い。彼女たちは、そういった建物にもぐり込んで時間を過ごすことが多々あった。子供もあまりおらず、白人と黒人がほとんどのこの地域では、ヴァレアでさえ比較的目立つ存在だ。東洋人の特徴を具現化したようなホンファなど言うまでもない。だから彼女らは人目を避けていた。
「さすがに、いつもより気つかったね」
 ホンファが呟きながら、握っていたヴァレアの手を離す。最初はもう少し先まで行くつもりらしかったが、「やっぱり疲れた」と言い出し、結局訪れたことのあるこの場所を提案したのだった。
「うん……」
 ホンファとともに倉庫の中を進みながらヴァレアも頷いた。漠然と人目から逃れていればよかった昨日までと異なり、今は"確実にホンファを探す存在"がいる。その警戒の質はまったく違う。
 二人は汚れたコンテナの間をすり抜け、倉庫の中央付近に出た。出入り口は二つあり、その場所はいずれの出入り口からもコンテナや他の資材が邪魔してすぐには見えない。見つかりにくく逃げやすい、かっこうの場所だった。
「ホンファ、大丈夫?」
 ヴァレアもようやく一息をついて、傍らのホンファに尋ねた。何度か疲れたと口にしていたホンファは、実際今も気怠げな顔をしていた。
「まぁ、だいじょぶよ。やっぱりひさしぶりのお仕事、疲れるね。もうちょと遠くまで行きたかったけど。あぁ、こんなのも暑苦しくてきらいだわ」
 ホンファは被っていたベースボールキャップを脱ぎ、そして髪を覆い包んでいたバンダナを払うように解いた。とたん、あの人工的な、しかし美しい紅色の髪があらわになって揺れる。蒸れたような汗の匂いと、髪油の香りが混じった空気が振りまかれる。不思議とそれは甘く、不快な臭いではないのだった。
 ヴァレアは胸の奥が疼くのを感じ、そしてそれを抑えながら、ほんの少しでも相手の負担を減らそうとホンファの帽子とバンダナに手を伸ばした。ホンファも笑顔でそれらを手渡す。
「……仕事は、その。どう?」
 受け取った帽子をあまり潰さないよう脇に挟み、バンダナの皺を伸ばしながらヴァレアが尋ねる。声音は少し遠慮がちに暗かった。しかし身なりの煩わしさから一部解放されたホンファはまるで気にした様子もなく、むしろ上機嫌だ。髪に風を通す心地良さを楽しむように頭を振ってから、黒いワンピースを翻してくるりとその場で一度回る。
「別に変わらないよ。今日のお客は、今日で最後だったけどね」
「どういうこと?」
 近くのコンテナの埃を手で払ってきれいにしてから、ヴァレアはそこに帽子とバンダナを置いた。
「うん? そうね、もうおカネない言ってたからね」
 ホンファは風を求めてか、両腕を広げくるくると回っている。ホンファの仕草はひとつひとつが美しかった。伸ばした指の先までが美しかった。男を誘惑してカネを得るために作られた艶やかさが、殻となって少女を覆っているようだった。やはりそれはあるべき子供の姿ではないのだが、ヴァレアはそれに魅了される。ホンファが美と存在感を備えていることは事実だった。たとえるなら舞台芸術の役者のような、独特のそれを持っているのだ。
 ヴァレアは手の埃を自分のジーンズで拭う。手のひらには汗も滲んでいた。
「……そっか。おカネないと、駄目だもんね」
「そうよ。それに」
 ホンファは回るのをやめ、ヴァレアの傍まで大股で一歩一歩跳ぶように近付いてきた。ヴァレアは言葉の続きをしばらく待ったが、ホンファは指先でバンダナの皺を戯れに伸ばしているだけで、話を続ける様子はなかった。
「なぁに?」
「なにがね?」
 首を傾げるヴァレアの問いに、ホンファは顔を上げて首を傾げ返す。ヴァレアは面食らったようにまばたきを何度もした。
「えっと……それに、って言ったから。それに、なんなのかなと思って」
「それに、なんて言ったか、わたし?」
「うん」
「そんなつもりなかったよ。やっぱりまだ、言葉む"つ"かしいね」
 結局化粧を落とす機会もなかった顔で、ホンファはいつものうっすらとした微笑を浮かべて言った。ヴァレアはその笑みにまた心臓の鼓動を早められただけで、彼女の真意はまったくわからなかった。もっとも、ヴァレアがホンファの本心を感じ取れたと思ったことなど、ほとんどなかったのだが。
 ヴァレアはそんな自分をごまかすように、相槌だけ打つと顔を俯けてその場に座り込んだ。コンテナを背にして膝を抱える。ホンファもそれに倣い、ヴァレアのすぐ隣に腰を下ろした。そしてヴァレアに身体を預けてくる。ヴァレアはそのホンファの重みが好きだった。肌の感触も。
「……ねぇホンファ、本当にごめんね」
 抱えた膝に少し指を食い込ませてヴァレアが呟く。ホンファはヴァレアの肩に頭をもたれさせ、心地よさそうに目を伏せていた。
「なにが。わたしのこと、ばれたいうことのことか?」
「うん……」
「別に。しかたないことね。でも、まぁ、さすがに、潮時、いうやつかもしれないけどね」
 ホンファの言葉に、ヴァレアは身体がびくりと一度痙攣することを押し止められなかった。
「し、潮時ってどういうこと……どこか、どこか、遠くに行っちゃうってこと?」
 ヴァレアは膝を強く強く抱え込む。逃げるということはつまりそういうことなのだと、ヴァレアも理解していたつもりではいた。しかし実際は、思考が繋がりきっていなかったのだ。その事実が急に目の前で結びついて、ヴァレアは視界が揺れたように感じた。
「そうなるね」
 事も無げな肯定に、ヴァレアは縮めていた身体を起こし、そして肩先にあったホンファの頭を腕に抱きこんだ。急な動きにホンファも一瞬息を詰まらせるような微かな声を漏らしたが、すぐにその手をそっとヴァレアの背中に回した。
「やだ、いやだ、ホンファと会えなくなるなんていや!」
「ヴァレア……」
 ヴァレアは興奮――それはおそらく別離への恐怖だった――で両目を見開いたまま、ホンファを強く胸に抱きしめ、声を絞り出すように叫ぶ。
「だって初めてのお友だちなの! はじ、初めての……あぁ、いや、いやよ! 私のせいなんだわ、ごめん、ごめんなさい、どうしたらいいの? ど、どうしたらホンファと離れずに済むの? これからも、もっと沢山お話したいの、遊びたいの、こんなふうにこそこそするんじゃなくて、もっと……もっと一緒に。勉強したり、ご飯食べたり、買い物したり、もっと……」
 ヴァレアの言葉は徐々に弱くなり、小さく身体を震わせながらその顔をホンファの肩口に埋めた。ヴァレアの背中を撫でるホンファの手は、下から上へと緩やかに移動してゆく。
「キスを、したり……抱き合ったり、……もっと……」
「それなら、そんなにむ"つ"かしいことないよ、ヴァレア」
 震える肩から垂れる黒髪に辿り着いたホンファの指先が、それを絡めて優しく弄ぶ。服の隙間に入り込むようにうなじを撫でる。いつものように。
「わたしのところへ来れば、ずっと一緒ね」
 ホンファは少し頭を浮かせて、ヴァレアの側頭部に頬を押し付け、耳元に唇を当てて囁いた。


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