〈85年6月同日 W-15ストリート近く〉

 一種の隔離区画である引き金通りに通ずる場所はいくつもない。その入り口のひとつの傍に、ヴァレアは立っていた。そこも既に安全とは言えない場所だが、それでも引き金通りの"外"だ。
 ヴァレアはひとりだった。ホンファがいつもと同じ「またね」という挨拶を残して引き金通りの中へ消えて行ったのは、もう三十分以上も前のことだ。挨拶の言葉こそこれまでと変わらなかったが、いつも交わしていた別れのキスはなかった。
 身体にはホンファを抱きしめ、ホンファに抱きしめられた触れ合いの体温と独特の熱が残っているようで、しかし同時にそこからすべての温度が奪われ冷え切っているようでもあった。
 ヴァレアは、ホンファと決別してしまったことを感じていた。恋人同士が、些細な言動の変化から別れが近いことを察したときのような、どうしようもない焦燥と、諦観と、そして痛みを伴う悲しみが、ヴァレアの胸を刺し抉っていた。
「ホンファ……」
 その場にうずくまってしまいそうな身体を支えながら、ヴァレアはホンファの名を口にする。ホンファの様々な誘いの言葉が何度も頭の中で繰り返される。ヴァレアはひたすら葛藤に悩み、結局、ホンファの差し伸べた手は取らなかったのだ。
 ヴァレアには捨てられないものがいくつもあった。ワルターたちを裏切ることはできなかった。兄のリードと違う世界に生きることはできなかった。両親の消えてしまったこの引き金通りから、離れてしまうことはできなかった。
 ホンファはヴァレアに向ける数々の言葉の中、ただ一度だけ「パパとママはいいの?」と言った。その意味がヴァレアにはわからなかった。良くないからこそ、ここから離れられないのではないか? ヴァレアはそのままそれを伝えたが、ホンファは、そう、と相槌を打っただけで、それ以上のことは言ってくれなかった。ヴァレアもいくつもの悩みと混乱に引きずられていて、それを追求することはできず、ホンファの真意が読めなかった経験が増えただけだった。
 あるいは自分に、ひとりで引き金通りの中に入っていけるだけの勇気と、身を守る力があれば、なにかが違っていたかもしれないとヴァレアは思った。自分自身の五感をもって、求めることを知り、行動する能力さえあれば。
「でも、だって、そうだったとしてどうなるの」
 ヴァレアは頭を抱えて、浮かんだ考えを否定するように低くうめいた。どちらにしろ、そんなものを今現在持っていない事実は変わらないのだ。考えが混乱して頭痛すらするようだった。ヒステリックな感情の激流が襲って、今にも喚き散らしてしまいそうな衝動が突き上がってくる。
「おかあさん」
 誰を求めればいいのかわからなかった。誰を選べばいいのかわからなかった。もはや理性的な思考が働かないヴァレアが口にしたのは母の名だった。おおよその子供と同じように、温もりと安心の象徴である母という存在を、ヴァレアは呼んだ。母親の名がニ、三度繰り返され、そこに父親の名が混じり、交互に口にされるそれらが完全な子供の泣き声となる頃、それに車が急停止する音が被さった。
「ヴァレア!」
 車のドアが開く音と同時に聞こえた、自分の名を呼ぶ声にヴァレアは振り向いた。自分を知っている、そして自分が知っている声に安堵という波が押し寄せて、それがまたいっそう涙を押し出した。涙で滲む視界を手で擦るが、なかなか晴れない。
 彼への反感も、大切な存在を侮辱された悲しみも、対立の意地も、自分の罪悪感も、その瞬間はヴァレアの中からいっさいが忘れられていた。子供の不安というものはそれだけ大きく、そしてヴァレアはまだ、まさしく子供でしかなかったのだ。
「ビレン……ビレン!」
 ヴァレアは駆け寄ってきた人物の名を呼んで、すがるように彼に抱きついた。ビレンは少し戸惑った様子を見せたが、無事を確かめるようにヴァレアの頭だけを軽く引き剥がし、涙焼けしたその顔を見下ろした。
「ヴァレア、どうしたんだ、なにがあった?」
「わた、私、行けないの、中に、行け、だからなにもできな、……あぁ、お母さん!」
 ヴァレアはその問いに答えようと努力したが、思考はまるでまとまらず、なによりしゃくり上げてしまって言葉をまともに発することができなかった。
 ビレンも、そんなヴァレアを落ち着かせるのがまず第一だと思ったのだろう。肩を叩いて言葉を押しとどめた。そして手を引いて歩き出しかけたが、泣き止むことができないでいるヴァレアの足取りが覚束ないのを見て、手を離した。ヴァレアは一瞬でもひとの存在が離れたことに、反射的に不安げな顔をしたが、それは次に感じた浮遊感ですぐに消えた。
 ビレンに抱き上げられたヴァレアが感じたのは、ときめきでも、羞恥でも、喧嘩に起因する反発や気まずさでもなく、ただただ安堵感だけだった。鼻をすすり、落ちないようにビレンの首にしがみつく。
 ビレンはそんなヴァレアを複雑そうな、しかしけっして不機嫌さは含まれない表情でちらりと見遣ってから、車へ戻るべく足を進めた。


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