〈85年6月同日 W-15ストリート近く〉

 ビレンは取り敢えずヴァレアを後部座席に押し込み、自分もその隣に乗り込んでドアを閉めた。運転席のほうへ身を乗り出し、自動車電話でビリーの車に連絡を入れてから、改めて座席に腰を下ろす。ヴァレアはまだひくつくような呼吸に息を詰まらせていたが、なんとか泣き止もうとしているようだった。服の前襟を引っ張り上げて顔を拭っているので、ビレンは自分のハンカチを渡し、ヴァレアが落ち着くのを待った。
「ごめん、なさい」
 しばらくして、ヴァレアが消え入るような声で言った。
「……謝るのは後にしよう。お互いに。まずはなにがあったのか、それを聞かせて欲しい」
 ビレンは最初から、自分に気の利いた対応ができるとは思っていなかった。できた溝を埋めなければならないとは思っていたが、その手段が頭にあるわけでもなかった。
「……うん」
 幸いと言うべきか、ヴァレアも確執を持ち出しはせず、鼻をすすり上げて頷いた。それでもすぐに言葉は出てこないようなので、ビレンは膝の上で両手を組み、また無言で彼女が話し始めるのを待った。
「……ホンファにね、一緒に来ないかって、言われたの」
 ヴァレアは涙の滲み込んだハンカチを握り、途切れ途切れに言った。それは充分衝撃的で、ビレンは組んだ手に思わず力が入った。だがヴァレアがここにいることと、先ほどからの様子は、彼女がそれを受け入れなかったことを示しているのだとビレンは自分に言い聞かせるように目を伏せ、そのまま続きを促す。ヴァレアはハンカチを握った手の甲で鼻の下を一度擦った。
「でも、私は、私はその、行けなかったの。だって……だって」
 ヴァレアの声がまた震える。ビレンは困惑に眉を寄せ、少し視線を外へ向けてから、静かにその片手をヴァレアの背中に回した。ビレンは自分の行動が、彼女を慰めようという意思の表れであることに気付いた。それは初めての経験であるようにも思えた。
 ビレンは、自分がこの少女にどういう思いを抱いているのか、少しずつ考えていた。
「だって、ホンファと一緒に行くっていうことは……それは、みんなを裏切るってこと、なの。それは、私でもわかるの。そうでしょう?」
 ヴァレアはビレンの手のひらの体温に少し勇気付けられたのか、再び泣き出すことはなく、そう続けた。だが感情自体は昂ぶりつつあるようで、ハンカチを握り込んだ手がぶるぶると微かに震えている。
「そんなことできない、そんなことできないわ、だって私決めてるもの。ワ、ワルターのために働くって決めてるもの。ワルターを裏切るなんて絶対できない、ホンファのことは大好きなの、一緒にいたいの、でも絶対できないの!」
 ヴァレアの声はオーディオのボリュームのように徐々に、しかし急激に大きくなった。目を見開き、前へ向けられた眼差しは凝り固まっている。ヴァレア自身が定めた将来のように。
「……そうだな」
 ビレンはヴァレアの肩を抱き寄せた。年齢のわりに背は高いとはいえ、それはまだ小さな子供の身体だった(ふと鼻についた慣れない香りがあの東洋人の少女の移り香だと気付いて、ビレンは不快感を覚えたが、それはすぐに打ち消した)。
 ヴァレアは引き金通りの一室から救い上げられたあの日以来、"ワルターのために"という、酷く漠然とした、しかし揺るぎない目標を持ち続けている。自分自身が定めたそのことに囚われているとすら言ってよい。
 ワルター自身は、それをいささか懸念している節もある。ビレンも初めはそれがよいことかどうか考えもした。
 しかし今はもう、そんなヴァレアの考えを解きほぐしてやる必要もないと思っていた。ビリーも同じ考えだろう。なぜなら、彼らもそうだったからだ。
 彼らはヴァレアのように、幸福な家庭を壊され泣いていた子供ではなかった。むしろ自分から捨てたいと望む家庭に育った少年たちだった。境遇は大きく違ったが、ワルターに出会うことで目標と幸福を得たという事実は同じだ。誰かのために自分は存在すると感じて行動する、依存と自立という矛盾を内包した幸福を。
 ビレンは自分に共感能力などほとんどないと思っていた。事実そうだった。だが、ヴァレアの痛みはわかるような気がした。この小さな、ある面ではおそらく一般よりも精神的に幼い少女が、大切ななにかのために別の大切な存在を諦めるという痛み。昔、似た選択をしたビリーに対してすら、そんな痛みの理解はできなかったというのに。
「ホンファはどこか遠くに行くって言うわ。でも私は、こ、ここから、引き金通りから、離れちゃいけないの。リ、リードと、兄さんと一緒にお父さんとお母さんを待つのよ。どうなったかわからないままなんて、絶対いやだもの! それに、それにホンファとは一緒にいたかったわ、でもワルターとも、ビリーとも、リサとも、……ビレンとも」
 ヴァレアはビレンの腕におさまってその身体をもたれさせたまま、俯いて小さく呟いた。
 ビレンは、それですべてを納得した。そして返事をするかわりに、ヴァレアを抱き寄せている片腕に少しだけ力を込めた。
 自分がヴァレアに抱いているのは、ひとつは現在ビレンとビリーを結びつける絆と同じもの、つまり同志としての共感が生む親愛だ。だがもうひとつは、庇護欲の伴う愛情なのだ。守る必要のある存在から好意を向けられれば情が生まれうることを、そして既にそれが自分に生まれていたことを、ビレンは理解した。
 ビレンにとってそんな存在は初めて接するものだった。庇護する立場になど立ったことがなかった。兄弟も、もちろん子もなく、特に動物を可愛がった経験もない。今、身体的にはワルターを守りはするが、精神にまでそれは及ばない。あくまでワルターが"父"であり、ビレンは"子"であった。
「ビレン……」
「……君が決断してくれたことを、嬉しく思うよ。ヴァレア」
 ビレンがそう言うと、ヴァレアは声を詰まらせて拳からはみ出したハンカチをまぶたの上に押し当てた。
「君の友人を侮辱したことは謝ろう。だが私にとって、やはり彼女は受け入れることのできない存在だ。それは理解してほしい」
「……わかったわ。ううん、たぶん前からわかってるの。ホンファのことを、あんなふうに言われたことは、すごく嫌だった。今も昨日のビレンの言葉を思い出すとすごく辛い気分になるわ。でも、ホンファがビレンたちと一緒にいられないってことは、理解できる。だから私は」
 ホンファとともに行けなかったのだと、おそらくそんな言葉を飲み込んで、ヴァレアは声を震わせる。だが涙を押し戻すように首を振り、唇をきゅっと噛み締めた。
「謝ってくれて、ありがとう。私も、ごめんなさい」
 ヴァレアはビレンを見上げて言った。それからすぐに、近い距離を意識したのか少し顔を赤らめ、再び俯く。ビレンはそんなヴァレアの反応に、ひっそりとほんのわずか困ったような笑みを浮かべたが、なにも気付かぬふりをして抱き寄せていた腕を離した。
「ああ。それも、もういい。ただ、皆にもあとで謝っておいてくれ。ビリーも君を探したし、リサなどは随分心配していたからね。ワルターには二人で謝罪しよう。私と君で」
「……うん。本当にごめんなさい。……ホンファのこと、もう聞かないの?」
「聞けば教えてくれるのかい? 居場所やなにかを?」
「……ううん、知らないの。町を出るとは、言ってたけど。……それに、そうね。たぶん、知ってても言わないと思うわ。せめて、それだけは」
 ビレンは少しからかうように言った。そして予想通りの答えがヴァレアから返ってきたことに、不思議と嬉しさのようなものも感じた。短く相槌を打ち、ヴァレアの背を軽く撫でるように叩く。それから腕を伸ばして助手席を倒し、できた隙間から運転席へ移った。
「君の友人だからといって、見逃すことはできない。彼女がやはり取り締まるべき連中の一員であることは確かだからだ。直接追い回すようなことは私たちの仕事ではないが、わかることはすべて警察に伝え、彼らに託す。君に色々と聞きもする。構わないね」
 車のエンジンを掛けながら、彼なりに極力穏やかな声音になるよう気を配ってヴァレアに告げる。ヴァレアはさすがにイエスと言葉で答えることはできない様子で、しかし俯いたとも、頷いたとも取れる動きで顔を伏せた。おそらく意図的に。だからビレンもそれを汲み、肯定と受け取った。
 車をUターンさせ、ゆっくりと引き金通りから離れる。ヴァレアは流れる景色も見ず、たたんだまま皺くちゃになっていたハンカチを膝の上で伸ばし始める。
「私、はやく大人になりたいわ」
 視線を手元に落としたまま、ぽつりと、しかし痛切なほどの真剣さをもって呟くヴァレアを、ビレンはバックミラーの中に見た。
 今、ビレンがヴァレアに対して抱くものは、けっしてヴァレアがビレンに対して抱いているであろう想いに応えることのできるものではない。
 だがヴァレアが庇護される立場から抜け出したとき、それはいったいどう変化するのだろうかと、ビレンは思った。


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