〈85年6月中旬 W-14ストリート・WBI事務所・キッチン〉

 テーブルの上では空になった皿が隅に寄せられ、三者の前には、食後のものとしてそれぞれ別のカップとグラスがある。
「そろそろ連中の燻り出しも終わりだってな」
 コーヒーに砂糖を入れてかき混ぜながらビリーが言う。
「ああ。私はもう少しやってもいいんじゃないかとは思うが……仕方がないな」
 ビレンがティーカップを口に運びながら答える。彼はコーヒーがあまり好きではなかった。
「例のドラッグの出所もわかんねぇままか。連中が持ち込んで、それを酒に溶かしてちびちび売ってたわけだ。蓄えがなくなりゃ、はなから引き揚げる気だったのかね」
「かもしれん」
 引き金通りにいると言われていた東洋人の素性は、結局明確にはわからなかった。警察がある程度の数を引き金通りに投入して、十日ほどの間に十数人の東洋人を見つけたが、その誰もが、本来の引き金通りの住人とさほど変わらない存在だった。
 彼らはみな密入国者で、同じ船で来たと言う者たちもあれば、そうでもない者もいた。仲間内から回ってくるドラッグ入りの酒を売るなり飲むなりしていたが、はっきりと誰から渡されるとわかっているわけでもないらしかった。そこにある程度のコミュニティーが存在することは確かだったが、少なくとも彼らから組織的なものを確認することはできなかったのだ。
「連中全員が、偶然引き金通りに来たってことはありえねぇ。手引きしてた連中がいたに決まってる。だけどそいつらも、なにか目的があったのか? 結局、警察の目につきにくいスラムを見つけて、単純にそこに隠れることにしただけか?」
「なんとも言えんな。そんな気もする。連中があの国の人間だったことで、どうしてもコミュニストを警戒してしまうが……それが既に過剰な警戒なのかもしれん。見つかった連中は、知的レベルも低いただの貧困層だ。なんらかの工作や活動を行なえる存在ではない。ただ、逃げおおせた連中もそうだったのかどうか、だ。……船も何度か出た。もうこの国からも出ているだろう」
「頭痛ぇなぁ、ちくしょうめ」
 ビリーはカップを片手に、こめかみに手のひらを押し当てた。
「まぁいい。いなくなったんだから、それでよしとしようぜ。またどっかでなにかがあったってんなら、そのときはそのときだ。仮にアカ共が絡んでくるなら、国の連中も動くだろうしな」
「そうだな」
 ビレンは相槌をうち、それから横目でヴァレアを窺った。ヴァレアはテーブルの上のアイスティの入ったグラスを両手で包んだまま、先ほどからじっと押し黙っている。
 見つかった東洋人の中に、ホンファはいなかった。つまり彼女は、"逃げおおせた側"の人間なのだ。ヴァレアはその事実に心を痛めているだろうか。それともあの少女が捕らえられなかったことに安堵を覚えているだろうか?
 少しの間、会話が途切れる。
「ねぇ、ビレンとビリーって、いつから銃が使えたの?」
 口を開いたのはヴァレアだった。しかしその内容は、二人が予想していたものとはまったく違っていた。
「なんだ、急に」
 ビリーが空になったカップを置き、肘をついてヴァレアのほうを向く。
「教えて」
 ビレンとビリーは一度顔を見合わせて、それからビリーが答えた。
「いつから、ってなぁ……所長のところに来てからだから、触りだしたのは十六かそこらだろ」
 なぁ、と確認するようにビリーがビレンに同意を求め、ビレンもそれに頷く。
「どうやったら使えるようになるの? 子供ではだめ? 自分や誰かを守るって、どうすればいいの。物理的によ。私に、どうやったらそれができるようになる?」
 ヴァレアが低く抑えたような声で並べる言葉の意味を、ビレンたちは理解した。
「私たちのように、なりたいということかい」
 ビレンも静かにカップをソーサーに置き、ヴァレアを見下ろす。ヴァレアが顔を上げ、ビレンを見つめて頷いた。
「いいんじゃねぇのか。俺はそのつもりだぜ」
 答えあぐねる気配を見せたビレンにかわって、ビリーが即座に口を挟んだ。ヴァレアもぱっと彼のほうを向く。
「ビリー、しかし」
「言っただろ、鍛えりゃものになりそうだってよ。せっかく本人にその気があるんだ、英才教育やってやりゃいい。考えてもみろ、こいつになにをやらせる? ただひたすらに事務仕事か? それも確かに重要だ、役には立つが、仮に俺やお前なら、それで満足できたかよ。今現在じゃない。ガキの時分、働きの実感が欲しくてたまらなかった頃の話だ」
 そう言われて、ビレンも言葉が出なかった。ある程度の年齢に達すれば、地道な仕事こそ重要で、それに徹することも大いに大切だとわかりはするが、少年少女の年齢ではそれも難しい。情熱を伴う大きな目的があり、そのための手段がいくつかあるならなおさらだ。求めるのは、より端的な実感を得られる道だろう。
「それに、最終的にどう働くにしたってよ。銃云々はともかく、最低限護身くらいはできなきゃ話にならん。だろ?」
「……そうだな」
「私にもできる?」
 ヴァレアが二人の顔を交互に見ながら言った。弱く縋るようなそれではなく、無理矢理に食らいつくような強さを持つ声で。
「――それは君次第だ。すぐに力を持てると思ってもらっては困る」
「だが教えてやる」
 二人は続けて言った。ビレンは目を伏せ、ビリーは唇の端で笑って。
 ヴァレアの瞳に希望が浮かんだ。
 表情そのものはけっして喜びを湛えたものには見えない。おそらく恐怖の象徴であった銃を、力の象徴に置き換えてその手に取ろうというのだ。それが喜びであろうはずがない。しかし無力な自分に対するもどかしさから解放される可能性は、ヴァレアにとって希望であるに違いなかった。

 ホンファと袂を分かったことで、ヴァレアの定める曖昧な将来は一段階狭められ、明確な道を形成しつつあった。ヴァレアは自分が求め、自分に必要なものがなんであるのかを知ったのだ。
 たとえ、なにかが既に手遅れであったとしても。それを知るのが、何年も先のことになるのだとしても。


〈85年6月 船底〉

 暗く息苦しいコンテナの中で、やつれた女が声を殺して泣いている。
 波に揺れる感覚が、国から離れてゆくことを実感させるからだ。命よりも大切な者たちの安否もわからず、そしてもう二度と会えないだろうということが、果てしなく強固な現実として突きつけられるからだ。
「泣いても無駄よ。もう遅い」
 傍にある別の影が囁くように言った。女は大きくなりそうな嗚咽を必死に押し殺し、肩を震わせながら身を縮めた。
 影は女の姿を少し見つめてから、視線を遠くへやった。コンテナの壁を越え、船を越え、自分たちが逃げてきた町があるであろう方向へ。
 今の囁きは、本当は傍にいる女に向けたものではなく、その視線の先にいる誰かに向けたものだったから。
『……来れば会えたのに。馬鹿ね』
 不自由な言語を捨て、自国の言葉で、薄ら笑いを浮かべた少女はそう呟いた。


〈4〉85年5月――少女は少女と出会い、そしていくつかの何かを知る。(了)

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