〈87年4月 W-14ストリート・WBI事務所・トレーニングルーム〉

 WBI事務所の地下には、トレーニングルームが置かれている。あまり近代的な設備ではなく、さして広くもないが、一通りの器具は揃っている空間だ。そのトレーニングルームの床で、筋力トレーニングを終えたヴァレアが、身体をほぐすために柔軟体操をしていた。
「そろそろ、射撃を始めてもいいかもしれないな」
 壁際で水分補給をしながら、その姿を眺めていたビレンが口にした。ほとんど呟きのようなものだったのだが、ヴァレアは耳ざとく聞きつけて、ぱっと顔を上げる。ポニーテールに結った黒髪が跳ねた。
「本当?」
 その顔はけっして――たとえば父親の猟銃に憧れて止まなかった少年が、それに触れる許しをもらったときのような――興奮と喜びに満ちたものではなかった。だが希望を湛えていた。他者を傷つけうる力を持つ決意をしてから早二年近く、ひたすらに身体トレーニングや学習を続けてきたヴァレアにとって、ビレンの今の言葉は自らの歩みが進んだことを証明してくれるものだったのだろう。
「ああ。立って」
 ビレンはヴァレアに近づき、仕草を交えてそう促す。ヴァレアは開いていた脚を閉じながら慌てて立ち上がり、姿勢を正してビレンを見上げた。目線の高さが、いつの間にか随分近くなったとビレンは思った。
 もともと高かったヴァレアの身長は、このごろいっそうすらりと伸びて、背中も脚も、人体としてきれいにまっすぐだ。子供の頃からハードトレーニングがすぎると成長に影響が出るかも知れないからと――ただでさえ情熱を抱いた人間は無茶をしやすいのだから――ビレンたちは気を配っていた。まだまだ成長期で気を抜けないとはいえ、これまでの抑制はよい方向に働いているようだった。
「肩も、大分しっかりしてきたようだし」
 ビレンはそう言って、ヴァレアの右肩を軽く掴んだ。ヴァレアがほんのわずかに身体をびくりと震わせる。ビレンは一瞬、掴んだ場所が痛んだのかと思ったが、その反応をビレンにも自分自身にも隠そうとするようなヴァレアの少しばかり赤くなった顔と、伏目に落ちた視線が揺れる様子に、そうではないのだと理解した。
「真面目な話だよ、ヴァレア」
 小さく苦笑をして、ビレンは手を離す。
「あ、ご、ごめんなさい、なんでもないの、触っても大丈夫」
 ビレンの指摘に羞恥を色濃くその表情に滲ませながら、ヴァレアが焦ったように顔を上げた。ビレンは離した手と首を軽く左右に振る。
 ヴァレアは今も、ビレンに憧れを抱き続けているようだった。この国の平均的な女性と比べて、かなりシャイな部類に入るヴァレアは、それをビレンに直接伝えてくるようなことはしない。かといって、想いを意識して態度に表すことでビレンのほうからなんらかの反応を返してくれることを期待する様子でもない。
 だからこれはやはり、依然ヴァレアが持ち続けている表面的な憧れでしかないのだろうと、ビレンは受け止めていた。映画スターに焦がれる感情と本質的には変わらないもの。いつか夢が覚めるように消えてなくなるものだと。
「とにかく、肩は意識して大切にしてくれ。衝撃を制御するのに欠かせない場所だ。――行こう」
 気恥ずかしさを必死に押し殺そうとしているヴァレアの様子を、ビレンはいつものように見ないふりをして歩き出した。


〈87年4月同日 W-14ストリート・WBI事務所・射撃場〉

 トレーニングルームと隣り合うように射撃場がある。敷地と資金の都合上、ブースが二つきりの小規模なものだが、使う人間はビレンとビリー、そしてワルターの三人だけなので、充分事足りていた。軍隊のように時間を定め、全員が揃って訓練を行なうわけではないからだ。
 だから、もうひとりこの射撃場を使う人間が増えても、少し窮屈にはなるかもしれないが、さほどの問題ではないだろう。
 ビレンは部屋の隅にある、金属製の銃の保管庫へ向かった。ヴァレアもその後をついていく。
 ビレンが手の中の鍵で保管庫の扉を開けると、中にはいくつかのハンドガンが並んでいた(ハンドガン以外の銃はまた別の保管庫だ)。
「さて、まずはどの銃を使うか決めよう。もちろん、特定の銃でなければまるで使いものにならない、というようなことでは困るが……自分にとって使いやすいものを選ぶことは大切だ」
 扉に手を掛けたまま、ビレンは少し脇に退いてヴァレアに場所を譲りながら言った。ヴァレアはやはりというべきか、少し怯えた様子で保管庫の中を見つめている。
「……当然だが、どれにも弾薬は入っていない。ひとりでに暴発したりはしないよ」
 とにかくひとを気遣うということがあまり得意でないビレンは、少し考えた末に真面目な口調でそう言った。それでもヴァレアは勇気付けられたのか、怯えた自分を恥じるような表情で頷いて一歩前に進んだ。
「……どういうのがいいのかしら?」
「そうだな……あまり小型では少し頼りないな。かといって大型のものも、君の性別や体格を考えると現実的ではない。まぁ、我々の仕事ではそれほど火力は重視しなくていいから、わざわざ大型を選ぶ必要もない」
 保管庫の中に手を伸ばし、ビレンは一丁のリボルバーを取る。愛用しているS&Wのモデル10だ。もっとも、彼自身のものは彼の部屋に保管されているので、これは別の銃なのだが。
「たとえば私が使っているのはこれだ。持ってみるかい」
 鈍く黒い光を放つ銃を、ヴァレアに手渡す。彼女はそれを両手で受け取って握ってみせた。
「やっぱり、結構重いのね」
「少し辛いかな」
「よくわからないわ」
「まぁ、色々と持ってみるといい。重さもそうだが、握りも大事だ。それに重さは、どうせ弾を込めるとまったく変わる」
 ヴァレアの手からM10を取り、保管庫の中を横切るように指を指し動かす。
「重くなるがオートでも構わない。私は感覚が古いのか、オートは精度の点で頼りがない気がどうしてもしてしまって、リボルバーのほうが性に合うが。最近は警察でもオートがほとんどだ。装弾数が多いのも、単純に強みになるだろうからね。慣れないうちは、六発かそこらでは心許なく感じるかもしれない。装弾数が多いからと言って撃ち過ぎは困るから、その辺りは抑制できるだけの技術と理性は必要になる」
 ヴァレアはビレンの話を聞きながら、並ぶ銃を真剣な表情で見つめ、手に取って握っては戻すことを繰り返している。
「敵を殺すことが最たる目的ではないんだ。重要なのは、より正確な技術だ。我々は人殺しではない。もちろん、射殺せざるを得ない状況もある。命を奪うことに怯えるようでは駄目だ。その怯みは自分自身を危険に晒すからだ。だが、できる限り殺さない。やみくもに胴体に数発打ち込めば、まず相手は死んでしまうだろう。だが、たとえば手や足を正確に打ち抜けば、殺さずとも無力化できる。それはなにも倫理や善意や感傷じゃない。それが必要だからだ。生かして捕らえることが。そしてそのまま警察などに引き渡す。我々に求められるのは、主にそういうことだ。もう、うるさいほど言っていることだが」
「ううん。何回でも言って。きっと何回も何回も、言い聞かせないといけないことなんだわ。……だって銃ってあんなにも怖いのよ。それを自分が持つのだもの、自分の怖さを消すために、相手にぶつけてしまうかもしれない。それは駄目なことなのよ。だから、うんと冷静でいないといけない。……そうよね?」
 ヴァレアはビレンを見上げた。そしてビレンがまだ持っていた、M10に視線を注いだ。四年近い前のあの日、覗いた銃口の恐怖をヴァレアはまだ鮮明に覚えているのだろう。そしてそれを制御しようとしている。気丈なことだとビレンは思った。
「そのとおりだ」
「私、頑張るわ。……ね、これ、少し軽いね」
 ヴァレアはまっすぐビレンの瞳を見つめて言った。それは一瞬のことだったが、なんらかの意志が含まれているとビレンに感じ取れるだけの眼差しだった。だがビレンがそこにある感情がなんであるのかを考える前に、ヴァレアは手元に視線を落とした。その手には一丁のオートマチックが握られている。
「あぁ、グロックかい。ポリマーフレームだからね」
 ヴァレアが手にしていたのは、グロック19だった。ビレンの声音が少し苦いものだったので、ヴァレアは眉を下げた。
「あまりよくない銃?」
「うん? あぁ、いや、そんなことはない。この国の警察でもよく使っている。私はどうも、プラスチック性のものはあまり肌に合わなくてね。ただ単に好みの問題だよ。……うん、そうだな。君にはいいかもしれないな。引き金が軽いし、引きも浅い。それだけ照準がぶれなくて済む。19なら17よりも少し小型で、ちょうどいいだろう。それにするかい?」
 M10を保管庫に戻しながらビレンが尋ねる。ヴァレアはしばらく両手で握ったグロックを見つめて、それから小さく頷いた。
「よし、それならそうしよう。扱ってみて合わないようなら、また変えればいい。しばらくは装填や分解を自分の手で練習して、それからひたすら撃ち込むことだ。何百発、何千発、いくらでもいい。とにかく数多く。それが重要だ。当分は指導者なしで勝手にはやらないように。理由は?」
「危ないから」
「もうひとつ」
「変な癖がつかないように」
「そのとおり。我流の癖に任せるのが一番上達しない。基本的には私が毎日指導しよう。ビリーでは、任せてしまうには銃のほうはいささか頼りない。所長に頼むのもはばかられる。まぁ、もし所長が指導してくれると言ったら、そのときはもちろん受けるといいけれどね。年季も技術も確かなものだ。私も基本は彼に習った。私がどうしても都合のつかないときは……仕方ない、ビリーに頼もう。なに、一からの指導を任せるのに不安があるだけで、あいつもちゃんと基本は身に付けている」
「ビリーだと、スパルタ教育されそうだわ」
 銃を握った両手を身体の前に下げて、ヴァレアが小さくにやついた笑みを浮かべた。
「私もスパルタだよ」
 ビレンもそれに呼応するように、唇の片端を微かに上げる。
「痣ができる?」
 ヴァレアは顔を上げ、眉をしかめた笑顔でジョークを言った。格闘術やナイフ術などをビリーに習うヴァレアが、よく痣を作っていることをビレンも知っていた。
「君が衝撃に負け銃を跳ね上げて、それを顔にでもぶつけない限り大丈夫だ」
 ビレンがそう答えると、ヴァレアは笑って「それならいいわ」と言った。
「――とにかく先は長い。もっとも、君の年齢では銃の携帯許可も取れないからちょうどいい。射撃場の中でひたすら慣れ、技術を磨いていくんだ」
 冗談のやり取りが終わったことを示す間を置いてから、ビレンが言う。ヴァレアももう笑みは消して、再び手の中の銃を真剣な瞳で見つめながら頷いた。
 無力な子供でしかなかった少女は、着実に力をつけてゆく。


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