〈89年8月 W-15ストリート〉

 引き金通りは常に影が落ちているようなところも多いが、まっすぐな日光に晒される場所もちろんある。通りに車で乗り込んでしばらくは、ちょうどそんな具合だった。太陽はまだ高く昇ってゆく途中で、夏の日差しは容赦なく目を刺す。本来それほどサングラスが必要ない黒い瞳のビレンもさすがに掛けているし、碧眼のビリーなど言わずもがなだ。
「ボンネットでハムエッグが焼ける」
 青みがかったミラーグラスに手のひらを被せ、助手席に座るビリーがうんざりして言った。
「やめろ、私の車だ」
 視線は前に向けたまま、ビレンが眉を寄せる。フロントガラスから注いだ日光が、黒いハンドルをも少し温かくしていた。
 こうして引き金通りの様子を見ることは、日課とまではいかないものの、彼らの生活に組み込まれている。この日もそうだった。見回りをしても、大抵はそう大事もなく済む。引き金通りで起こるいさかいは基本的に個人間のものだからだ。日の高いうちはことさら閑散としていて、それに遭遇することすら少ない。そもそもなにかを発見するためというよりは、警察や、それに準ずる彼らが引き金通りをうろつくことで、秩序の乱れを一定程度抑制することが目的なのだ。
「ちょっと止めろ」
 視界をほとんど覆っていた手をはずしたビリーが、窓の外に視線を移した。ビレンもその方向を見遣りながら、緩やかにブレーキを踏む。
「ヘイ! じいさん!」
 ビリーは窓を開け、上半身を乗り出して外に向かって叫んだ。むっとした熱気が、エアコンの効いた車内に入り込んでくる。
 ビリーが呼びかけた先にいたのは、みすぼらしい身なりの老人だ。朽ちたビルの入り口に腰掛けていたが、ビリーの声に気付いて車へ近づいてくる。ビレンたちは彼の名前も知らなかったが、しかし彼の存在は以前から知っていた。
「あんたらか。なにか用か」
 その老いた黒人は、まだらに白くなった短い髪をばりばりと掻き、皺だらけの顔の奥で目を細めながら言った。表情を険しくしたようにも見えるし、笑ったようにも見える。
「じいさんこそどうしたんだ。こんな昼間っから珍しいな。あんたらは大抵夜行性だろ? え?」
 両肘を窓の縁に掛けてビリーが尋ねた。その表情はビレンからは見えなかったが、声の調子で笑っていることがわかる。情報収集も兼ねた世間話は、ビレンよりもビリーのほうが断然得意だった(ビレンが苦手としているのだとも言えるが)。だから仕掛けることも続けることも、ビリーの担当だ。ビレンはハンドルを握ったまま老人や周囲の様子を窺い、そして黙って聞き耳を立てる。
「たまにゃあ、お天道様に当たらんとなぁ」
「あんたのテリトリーはもっと奥のほうだろ」
「今、あの辺はちっとばかり居心地が悪くてなぁ」
「そりゃどういう意味だい」
「あぁ……」
 老人は曖昧な声を漏らし、またばりばりと頭を掻き毟った。考えているのではなく、勿体つけているのだ。ビリーは懐から煙草を取り出し、その一本を相手に向けた。老人がそれを取って咥えるのを見計らい、同じく出したライターで火をつけてやる。
「で?」
「なんぞ、物騒な連中がおる」
 煙草を深く吸い、たっぷりと味わうように煙を吐き出してから老人は言った。
「もうちょっと詳しく頼むぜ」
「建物ひとつ、まるまる占領しちまったやつらがおる。ありゃあ、何人くらいいるんかね……関わりたかねぇから、よう知らん。多分新参だよ。引き金通り《ここ》の空気ってものを知らんようだからな。ああいうのは困る。武装して、一個勢力気取っとるよ。道《Road》の主《Lord》にでもなる気か知らんが、困ったもんだ。あんたらでも警察でもいいから、とっととどうにかしてくれ」
「東洋人じゃないだろうな」
 ビレンが思わず警戒の色を滲ませ、一言だけ口を挟んだ。
「いや、いや。白人だろう、あれはよ。マフィアの類ではなさそうだがな。わしは知らん」
「ただのごろつきか?」
「わしら皆ごろつきだ」
「違いねぇな。ありがとよ」
 ビリーはにやりと笑い、煙草をもう二本取り出して老人の胸ポケットに押し込むと、手を挙げて話が終わったことを示す。老人は胸ポケットをニ、三度確かめるように叩いてから、のそのそとその場を立ち去っていった。
「で、どうする?」
 老人を見送って窓を閉め、ビリーはビレンのほうへ向き直る。
「今の話だけでは漠然としすぎているな。もう少し情報が欲しい。遠巻きに様子を見に行くか」
「規模のわかんねぇ武装集団かよ、気が進まねぇなぁ」
「奥に行けば、ほとんど日陰だぞ」
「それがせめてもの幸いってやつだな」
 今度は両手でミラーグラスごと視界を覆うビリーを尻目に、ビレンはゆっくりとアクセルを踏んだ。


 ←BACK  NEXT→

TRIGGER Road
novel
top