〈89年8月同日 W-15ストリート〉

 引き金通りの奥まった一角に、三階建てのビルがある。打放しコンクリートの古い代物だが、造りはしっかりしているので、そこをねぐらにしている人間は何人もいた。先ほどの老人もそのひとりだった。だが、確かに今は様子が違って見えた。
 建物から五百フィート(およそ百五十メートル)ほど離れたところに立つ、高いコンクリートブロック壁の陰に、二人は車を止めていた。路地裏を回り込めば件のビルからは死角となるまま辿り着ける位置だ。ちょうど目線の高さにブロックが抜けて穴が開いている。観察には格好の場所だった。
「どうだ」
 車から出て双眼鏡で様子を窺うビリーに、運転席に座ったままのビレンが問う。
「三階の窓際に五人、二階にも三人見えるな。一階はほとんど不可視だ。……プロのテロリストでもないだろう。若い不良どもに見える。武装は……今のところ、派手にしてるようには見えねぇな。少なくともライフルやSMGをちらつかせちゃいないようだ」
「どうしたものかな」
「さっきのじいさん《レーズン》の話の通り、そこまで物々しい連中じゃなさそうだが。警戒すべき連中がいるってことは確かだろうさ。取り敢えず警察に」
 双眼鏡を覗いたままのビリーの言葉が、不自然に途切れた。その緊張は瞬時にビレンにも伝染する。
「ビリー?」
「まさかな……一階からだ、いや、やべぇ――ヘイ、逃げろ!」
 ビリーがそう叫ぶと同時、ビレンは素早くドアを開けて車外に飛び出した。低くなった体勢を一度片手で支え、一足飛びにビリーと同じ方向に退避する。二人が十フィート(およそ三メートル)も車から離れたその瞬間に、硬質な轟音が彼らの耳朶を殴りつけた。
 コンクリートのブロック壁が撃ち抜かれたのだ。
 灰色の粉末を含む衝撃風と飛び散る破片から身を庇っている間に、同じ音が続けて三度轟く。破裂するようにコンクリートが砕け、空の車を押し潰してゆく。車体がへこむ金属音とひび割れて散るガラス音を伴って。
「アンチ・マテリアルか!」
 ビレンは忌々しげに吐き捨てた。コンクリートを撃ち抜くこの威力と、爆発物とも異なる破壊のさまは、対物狙撃銃《アンチ・マテリアル・ライフル》によるものだ。そんなものの存在はまったくの想定外だった。
「冗談じゃねぇ、ここは戦場か? どこの馬鹿野郎だ、ちくしょう!」
 頭を低くし壁際を並走しながらビリーも毒づく。いまだ彼らとあのビルを隔てるのはたった一枚の壁だ。普通の小火器なら盾になっても、対物ライフルの存在がある限り足を止めていられる状態ではない。
 少しの間を置いて、同じ場所がもう二回追撃されたが、彼らにそれを振り返っている余裕はなかった。


 二人は近くにあった廃墟じみたがらんどうの建物に転がり込み、乱れる息を整えながら(走った距離はそれほどでもないが、生命の危険を感じながらの退避行動では消耗の度合いが違う)、つい今まで自分たちのいた場所を改めて見た。
「くそ、私の車だぞ」
「俺のじゃなくてよかった」
 故意なのか命中させる技術がないのかはわからなかったが、弾はほとんどブロック壁の破壊に向けられていて、車が炎上しているような様子はない。しかし崩れた灰色の塊に、ビレンの車はほとんど覆われていた。
「どうする、そうゆっくりはしてられねぇぞ。様子を見に来るかもしれない。"あそこ"が空っぽだとわかりゃ、他に向けてぶっ放す可能性もあるぜ。ここも危ねぇ」
 夏の暑さゆえのそれと、冷や汗の混じった額を乱暴に拭い、ビリーが言った。
 ビレンはじっと車のほうを見つめる。引き金通りにとっては異端であるべき火器がもたらした結果を。
 その表情を見たビリーが、隠すことのない溜息とともに片手で顔を覆った。ビレンがどういう状態にあるか、付き合いの長い彼は瞬時に知ったのだろう。
 つまりビレンは、"いたく頭に血が上っているのだと"。
「なるほど、確かに"どうにかする"必要のある連中だ。忌々しい掃き溜めにある、なけなしの秩序を乱す連中は、報いを受けてしかるべきだ。そうだろう」
 低く抑えた、しかし怒りの感情そのものはまるで押し殺す様子もない声でビレンは言う。
「二人であっちに乗り込むってのか?」
「車があの状態だ、応援を呼ぶ手段もない」
「向こうの正確な人数も装備もわからねぇんだぜ。得策じゃない」
「なら徒歩で引き金通りの外まで出て、応援を連れて戻ってくるか? どれだけ時間が掛かる。その間に連中が暴走でもしたらどうする。『他に向けてぶっ放』したらどうする? 多分、お前の双眼鏡の反射かなにかで知ったんだ。"自分たちを窺う存在"をな。それだけでアンチ・マテリアルを持ち出す奴らだぞ。ここいらに車で乗り込んでくるのは、基本的には我々か警察くらいのものだ。我々の存在はおそらく知らないだろう。とすると奴らは警察に対してぶち込んだつもりなのかも知れない。――明らかに、引き金通り《ここ》に居ることを許容できる存在じゃない。この通りに住む連中以下の無法者どもだ」
 ビレンが連ねる言葉を聞いて、ビリーは再び大きく溜息を吐いた。
 生真面目で神経質な雰囲気を持つビレンと、口調からして粗雑で大雑把な雰囲気を持つビリーは、ひとからなにかと対極に見られがちだ。そのとおりではあるのだが、その中身は事実と異なっていることも多い。たとえばビレンが慎重かつ冷静で、ビリーが大胆かつ過激である、といったように。
 実際にはビレンのほうが気難しくあるがゆえに激昂しやすく、そのぶん強硬な手段にも出やすい。飄々として本気で腹を立てることも滅多になく、感情に捕らわれずビレンを制御する側に回るのがビリーなのだ。少年時代にさかのぼって更なる本質を覗くなら、自他への無頓着が向こう見ずで危険をかえりみない言動となって表れがちだったビレンを、自覚する臆病を武器に慎重に立ち回るビリーが抑えていたのだった。
 長じて彼らもそれぞれに性質が変化してきたが、それでもこの立ち位置は変わらないと、ビリーは頭が痛かったに違いない。
「あぁ、ちくしょう、気が進まねぇ。進まねぇが。オーライ、こういうイレギュラーこそ俺たちの仕事だな」
 片手を大きく振り回し、呆れと諦めの混じった表情でビリーは言った。
「そのとおりだ」
「実際のところ、俺にも妙案があるわけじゃねぇからな。だけどヤバそうだったら退却最優先だぜ」
「当然だ。私も犬死にをするつもりなぞ毛頭ない。場所が場所だ、期待はできないが、今の騒ぎから警察が駆けつけるまでの時間稼ぎをできればそれでいい。せめてあの厄介なアンチ・マテリアルや、他にもあるかもしれない冗談の範疇から外れた代物をどうにかしないと、やって来た警察車両も餌食になる」
 ビレンは埃まみれの床を踏みつけて歩き始めた。ビリーもそれに続く。
「それが一番難物だがね。お前、装備は?」
「いつものM10だ。オプションもない」
「俺もいつものだけだ。あとはナイフ。とにかく、遠くから安全に片付けるなんて真似はできないわけだ」
 そう言ってビリーは懐から銃を取り出す。彼の銃はスタームルガーのP85だ。信頼できる銃ではあるが、ビレンのS&W・M10と同じくハンドガンでしかない。遠距離から、正確で威力のある狙撃は技術と無関係に不可能だ。
「しかも悪いことに、予備のマガジンを車に置いてきちまった」
「私もローダーはいつも通り二つきりだ」
「乗り込むにはちょっとばかり心許ないな。まずは手持ちを増やすところからか」
「そうだな」
 ビレンも上着を掴み、肩のホルスターから持ち慣れたM10を抜いた。弾倉を確認し、銃に戻す。ビリーとともに警戒の視線を巡らせながら、慎重に建物の中を進んでゆく。いくつかの建物を出入りしながら進めば、あのビルに接近することは可能だろう。
「"秩序"の中で図に乗るだと。クズどもめ、その難しさを思い知らせてやる」
 憤りの滲む、低い呟きをビレンは口にした。


 ←BACK  NEXT→

TRIGGER Road
novel
top