〈83年11月同日 W-14ストリート・WBI事務所〉

 ビレンは俯いたままの少女を連れて、事務所の玄関扉をくぐる。
「ビリー!」
 少女が中へ入るまでは片手でガラス扉を押さえ、事務所の奥へ向かって声を張り上げた。
 ヴァレアはいまだ神経過敏とでも表現できそうな状態が続いているらしく、その声にまた身体を震わせる。しかし同時にそれは、彼女がようやく顔を上げるきっかけにもなった。ビレン自身はそこに意識を至らせていないとしてもだ。
「ビリー、いないのか?」
 ビレンの手が離れたことで、建物の中へ入ったばかりのヴァレアの後ろで扉がゆっくりと閉まる。
 ヴァレアは振り返り、ガラス越しに外の通りを見つめた。改めて見る風景は少女の故郷とはまったく違っていたが、あの恐怖に震えていた場所とも、明らかに違っていた。
 見知らぬ場所への不安と、見知らぬ場所であるがゆえの安堵が混じる溜息を少女は吐く。
 そしてちょうどそれと重なるように、ようやく事務所の奥へ続くドアがひとつ開いた。
「はいはい、お疲れさん」
 少し面倒そうな声で返事をしながら姿を現したのは、ビレンと同じ二十代半ばごろの青年だった。金髪碧眼の典型的白人種である。
 ビレンとともにワルターの部下として働くビリー=マイヤーだ。
 身長はビレンよりもわずかばかり低いものの、その分体格はがっしりしているふうだ。ただ、ややくすんだ明るい髪の長さは肩にかかる程度まであり、それを後ろでひとつに縛っている。だからきっちりとオールバックにしているワルターや短く整えているビレンと比べると、随分印象が違う。スーツも少し着崩しているし、口に咥えた煙草の先では紫煙がけぶっていた。
「いるなら早く出てこい」
 ビレンが不機嫌そうに眉を寄せながらコートを脱ぐ。
「すぐに手が離せねぇときもあるだろうが。無茶は控えめに頼むぜ」
 ビリーは悪びれた様子も、また気分を害した様子もなく軽い口調で返す。そうしてその言葉の途中で、まだ受け付け机の辺りにいるヴァレアに気づいた。
「あぁ、こいつか」
「もう聞いたか」
「さっき所長から電話があった」
 ビリーは煙草を壁際にある筒状の灰皿に押し付け、ビレンと場所を入れ替わるように足を進める。自分の真正面まで大股で近づいてくる青年の姿に、ヴァレアはやはり少し怯えたような表情を見せた。不安な子供にとって、見知らぬ大人というのは一種の恐れを抱くに足る存在だ。特にそれが成人男性であればなおさらである。
 ともすれば後ずさりをしそうなヴァレアの前に、ビリーはしゃがみこんだ。目線の高さはビリーのほうが少し低くなる。
「『引き金通り』からの生還おめでとう、お嬢さん。幸運なあなたのお名前は?」
 唇の片端だけを上げて笑う様子は、明らかにヴァレアをちゃかしていた。
 シニカルさを含む声はからかうようであり、同時にどこか冷めているようでもある。不謹慎な物言いなのだが、なぜか愛嬌がある。
 ビリーはビレンと違い、顔立ちの整ったタイプのハンサムではない。眉はつり目は垂れている。しかし目鼻立ちそのものははっきりしているし、自分に対し適度な自信を持つ者独特の余裕のある表情が、けっして彼を冴えない印象にはしない。
 そういった種々の奇妙なバランスの上で、ビリーという人物は安定して存在していた。
 ヴァレアもそんなビリーの空気に呑まれたのか、怯えの色を少し薄める。
「……ヴァレア……です」
 視線を一度はずし、そしてビリーに戻す動きを挟んでから、ヴァレアは小さな声で名を名乗った。
「オーケイ。俺はビリーだ」
 ビリーも手短にそう言い、ヴァレアの額を押すように手のひらで軽く叩き撫でながら立ち上がる。
「所長が戻ってくるまで、どこで待たせる」
 自己紹介が終わったのを見計らって、ビレンがビリーの後ろに来る。その影に、額を擦りながらビリーを見上げていたヴァレアが条件反射でまたびくついた。
「……お前なんかしたの?」
 ビリーが眉を上げながらビレンのほうへ顔を向け、問いに答える前にそのことに触れた。これもからかい混じりの口調だ。
「……彼女の基準で考えれば、多少のことをおそらくいくつか」
 ビレンはビリーと視線を合わせず、ヴァレアのほうを見下ろしながら答える。やはり表情はほとんど変わらないが、見ようによっては決まりが悪そうでもあった。不愉快さを示す以外のビレンの表情の変化は、基本的にその程度のことが多いのだ。
「あんまりビビらせんなよ」
 ビリーは口元をにやつかせ、手の甲で後ろにいるビレンの胸の辺りを軽く叩く。
「そういう意図じゃない」
 ビレンが眉を寄せてビリーを睨むと、ヴァレアが慌てた様子で会話に割って入った。
「あ、あの、わ、わたしが悪いから……!」
「あん?」
 不機嫌そうなビレンを笑っていたビリーがヴァレアに視線を移す。
「わ、わたしが悪いことをした、から、……だから、です」
 ヴァレアは罪悪感と気まずさでまた俯いて、両手を組み合わせ強く握る。
「そう、基本的に非は彼女にある」
 それを見たビレンもヴァレアを庇うでもなく、端的に口にする。
「ふぅん」
 ビリーは相槌をひとつ打って、また少女を見下ろした。ビレンが他人に非を押し付けるような言い逃れを無意味にする人間でないことをビリーは知っていたから、両者の言い分が一致するならそれが客観的事実であるのだろうと判断したようだ。
「ならもう説教も済んでんだろ」
 そのうえでヴァレアの肩を軽く叩いて、それで済ませてしまう。
 ヴァレアはビリーにも叱られると思っていたのか、少し意外そうに、そして遠慮がちに視線だけを上げた。二人は構わず会話を再開する。
「で、なんだ?」
「所長が戻ってくるまで、彼女をどこで待たせる」
「所長室でいいだろ。他に客が来る予定も聞いてねぇし」
 そこまで言ったビリーは、思い出したようにまたヴァレアを見る。観察するような少々無遠慮な視線だ。
「お前、汚れてんなぁ」
 そして顎をなでながら、呟くようにそう言った。ヴァレアは大きくまばたきをして、自分の身体を見下ろした。
 劣悪な環境で十日近く生活していた少女は、確かに薄汚れていた。青いワンピースはすすけているし、入浴などももちろんできなかったから肌も埃や垢で薄らと黒い。
 ヴァレアが髪に指を通してみても、それは絡まっていて簡単には梳ききれなかった。
 これまではそれどころではなかったのだろう。しかし改めて身なりを自覚し、ヴァレアは途端に羞恥に襲われたようで、俯いて顔を赤くした。二人の前から慌てて一歩大きく下がる。
「まぁ、引き金通りで身奇麗にできる人間のほうが少数派だ。シャワーでも浴びさせようぜ」
 ビリーは指摘はしたものの厭わしく思うわけではないらしく、また、行動をともにしていたビレンにしてもいまさらであるのか気にしたふうもない。明らかに落ち着かない様子で、身体を捻ったりスカートを払ったりしているヴァレアをよそに彼らは会話を進める。
「着替えはどうする」
「ガキの服なんてねぇからなぁ。リサに電話して買って来させ……いや、駄目か」
「今から連絡しても、所長が帰ってくるまでには、まず間に合わないからな」
「まぁいいか、なんか適当に着せときゃあよ。おい、ヴァレア」
「あ、は、はい」
 呼ばれた名前に答えるヴァレアの声は、少し動揺に揺らいでいた。
「取り敢えず、所長が帰ってくる前に風呂でも入れ。案内してやるからついて来い」
 ビリーは上向けた人差し指でヴァレアを招く仕草をすると、踵を返して先ほど出てきた扉を開けた。
「は、はい」
 玄関の小部屋には、玄関扉の他にドアが二つある。
 ビリーが出てきた部屋は、彼ら二人ともうひとり――今は不在だが、週に何日か主に事務仕事のためにやってくるリサ=ロイドという女性の、合わせて三人が主に使う仕事部屋だ。書類棚や事務机などが置かれている。
 ちなみに引き金通りに出かける前、ワルターとビレンがいた場所が所長室である。文字通りワルターの仕事場で、来客の応接もそこで行なう。
 どちらの部屋も、建物のさらに奥、ビレンたちの生活空間へ扉が繋がっていた。その扉へ向かい、ビリーとその少し後ろにつくビレンが、並んだデスクの横を進んで行く。ヴァレアは彼らから少し距離をとって続く。あまり周りを見回す余裕もないようだった。
「お前服を洗濯しといてやれよ」
「……私にそれを押し付けることができるくらい、お前は仕事を片付けたんだろうな?」
「わ、わたし自分でやりますから……!」
 にやつくビリーと不機嫌そうなビレンの後を、ヴァレアが手櫛で何度も必死に髪を梳きながら、恥ずかしそうに声を上げて追って行った。


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