〈83年11月同日 W-14ストリート・WBI事務所・所長室〉

 所長室にある来客用のソファで、ヴァレアは小さく縮こまっていた。揃えた膝をすっぽりと隠すように衣服を緩く引っ張る。
 シャワーを浴び終えた彼女が身に付けているのは、白のワイシャツと黒のセーターだ。明らかに成人男性のサイズであるそれらは、少女の身体にはいかにもそぐわない。丈から見ればワンピースのようでもあるのだが、シルエットがどうにもだぼついていていて、あまり見目のいいものではない。
 ヴァレアが落ち着かない様子であるのは、ひとつは慣れない空間と上等なソファに気後れしているからで、もうひとつは下着を身に着けていないからだった。さすがに下着の代用品はない。着ていたものはすべて、まだ地下にある洗濯機の中で水流に揉まれているはずだ。
 ヴァレアは何度も座る位置を小さく調整しながら、さらなる緊張の原因である姿を遠慮がちに見上げた。
 服の持ち主であるビレンはなにをするでもなく無言でソファの後ろに控えている。手を背後で組み、まっすぐと姿勢良く立つ姿はやはり少女にとって威圧感がある。
 彼は仕事のできる状況で無駄に時間を潰すことはしたがらない性質だったが、一応客人である少女の前で書類整理はできないと考えているらしかった。かといって、完全に少女をひとりにしてしまうこともできない。ビリーはワルターの帰りを待って、受け付け机のところに座っているはずだった。
「……なにか」
 ヴァレアの視線に気づいたビレンが、少し視線を下げて言った。ヴァレアはかちあう視線にまた少し慌てながら、さっきも同じ言葉を、同じ角度から聞いた気がする、と思った。
「……あの、いえ」
 ヴァレアは一旦言葉を区切って、自分の着ている服を見下ろし、またビレンを振り向き仰ぐ。
「服……ごめんなさい」
「いや」
 ビレンはそれだけ答えて、あとは扉のほうへ顔を向けてしまった。ヴァレアは少ししょげたように俯く。
 ワルターは自分たちを取り敢えずは――話がある、と彼が言っていたことがヴァレアに少しの不安をもたらしてはいたものの――助けてくれたし、ロバートは優しい医師そのもので、ビリーは口は悪いけれど親しみを感じられる雰囲気を持っていた。
 だがこのビレンという人物だけは、いっこうに取り付く島がない。
 おそらく自分のやったことにやはりまだ怒っていて、それで冷たいのだろう、とヴァレアは思った。どうしたら許してくれるだろう、とセーターの裾を揉みながら考えていた。
 実際のところビレンは腹など立てておらず、必要がなければ元来こういう態度しかとらない人物であることをヴァレアは知らないからだ。
 ヴァレアがそれを知るのはもう少し後のことだったし、彼女がビレンという人間のことをそれ以上に深く知る存在になるのは、もっと先のことだった。


 ヴァレアがひとりで気を揉む時間をしばらく過ごしていると、玄関のほうから話し声が聞こえ始めた。
 間もなく所長室の扉がビリーによって開けられる。脇に退く彼の横をすり抜けるように、ワルターが部屋へと入ってきた。ビレンが目礼し、ワルターも片手を上げてそれに応える。ビリーは自分も中へ入り、扉を閉める。
「すまない、待たせたかね」
 ワルターはコートを脱いでコート掛けに掛けながら、ソファに座ったヴァレアに声を掛ける。ヴァレアは慌てて立ち上がり礼をする。
「あまり堅くならなくて構わない。楽にしてくれていい」
 ワルターはヴァレアに近づき、少女に握手を求めた。ヴァレアは顔を上げ、ワルターの目を見つめながらその握手に応じた。
 さきほど病院で交わした握手よりは、随分と落ち着いたものになっていた。ワルターはそのことに穏やかに目を細める。
「いや、それにしても、随分可愛らしいお嬢さんだったのだね」
 そして握手を解きながら、笑みを交えて言った。ヴァレアは一瞬面食らって、さっと自分の頬に片手を当てる。頬は赤く染まり、恥ずかしげに眉を下げる表情は泣き顔にも近かった。ワルターは笑ってヴァレアの肩を叩き、彼女が座っていたソファの向かいに腰を下ろした。
 ワルターは別段からかいを口にしたわけではなく、実際ヴァレアは愛らしい少女だった。
 入浴を済ませた彼女からは、汚れと一緒に緊張や不安もある程度流れ落ちたのだろう。瞳の色が心持ち落ち着いて表情に少し柔らかさを与え、そのことがそれまでと印象を変えていた。
 肩までまっすぐに下がる黒髪は子供特有の柔らかさで、表面に艶やかな光の波を作っている。派手な印象はない顔も、鼻は高すぎず筋が通り、顎の輪郭と口のバランスも良い。東洋系の特徴としてさほど彫りは深くないが、水色の虹彩を内包する目は大きい。もちろんすべては成長過程の子供の危ういバランスでしかないのだが、それでも長ずれば、控えめではあってもそのぶん落ち着いた美人になるだろうと期待させるだけの面立ちだった。
 もっとも今は、ワルターの言葉に動揺しているだけの少女にすぎない。この国では、褒め言葉にここまでシャイな反応を示す人間は珍しい部類にさえ入る。
 そのせいか、壁にもたれて腕組みをしているビリーがさもおかしそうに口元をにやつかせていた。
 ビレンは相変わらず、面白いことなどなにもないといった様子で、どこを見るでもない視線を一度左から右へ流しただけだ。
「いや、いや、失礼。少々不躾だったかな。まぁ座ってくれたまえ」
 ワルターも微笑ましげな表情をヴァレアに向けながら、片手を伸ばして着席を促す。ヴァレアはそこでやっと、再びソファに腰を沈めた。
「コーヒーでもお淹れしましょうか、所長」
 ビレンが後ろで組んでいた手を解いてたずねる。
「そうだな、頼む。君はどうするかね、ヴァレア?」
「う、ううん、わたしは」
 二人の返答を聞き、ビレンがコーヒーを淹れに隣の部屋へ向かう。
「それなら俺のもだ」
 扉のところにいるビリーが、片手を軽く上げて言葉を割り込ませた。ビレンは足を止め、ビリーのほうを少し睨む。
「よろしく」
 ビリーは動じることもなく、笑みを浮かべて言った。ビレンは結局否とも応とも答えず、そのまま隣室に消えた。
 本来、ビリーはワルターの来客があるときに自分から飲み食いするような真似はしなかった。ビレンやビリーにとって、仕事上ワルターは明確に目上の存在であり、ワルターの客であるということはその客人もまた同じだ。それゆえ来客のいる場に同席するなら、基本的にビレンと同じように黙って控えている。
 だが今この場にいるのは普通の客ではない。不安な状況に置かれる子供なのだ。ビリーの言動は、そんなヴァレアの気を少しでも紛らわせる意図だったのだろう。
 含み笑いを一度漏らしたワルターはそのことに気がついていた。ビレンも、認めたがらないかも知れないが気づいているはずだった。
 彼ら三人は、互いに互いを深く知っているのだ。
 ヴァレアだけはビレンが不機嫌な様子を見せたことを心配してか、ビリーのほうを窺ったが、当のビリーはそ知らぬ顔だ。ワルターのほうを見ても、少しおどけたような曖昧な笑みが返されるだけだった。
 ヴァレアは少しおろおろと視線をさまよわせてから、ついに困ったように、けれどおかしさを含んで俯きながら小さく笑った。
「さて、では本題に入ろうか」
 ヴァレアが笑ったのを確認してから、ワルターは膝の上で両手を組み合わせて切り出す。その言葉にヴァレアも笑いを拭うように口元を手の甲で擦ってから顔を上げた。


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