〈83年11月同日 W-14ストリート・WBI事務所・所長室〉

「聞くべきこと、話すべきことは色々あるが、まず確認したいことがある。それで我々の対応も変えなくてはいけないのでね。いや、君に"こちらから"危害を加えるような真似はしない。その点は安心してくれていい」
「……はい」
 言葉を並べるワルターの顔には、つい先ほどまでと違って笑みはない。声音は穏やかだが、どこか厳しさがある。しかしそれは非難などの感情に起因するものではなく、言うなればプロフェッショナルが持つ独特の厳しさと言ってよかった。
 そのことがヴァレアも徐々に分かりつつあるのか、それとも単純に覚悟を決めただけなのか、滲みそうになる怯えを呼気と一緒に飲み込み、表情を引き締めてみせた。
「まず、君はあの『引き金通り』に来てからどのくらいになる?」
「引き金、通り……あそこのこと、そう呼ぶって知らなかった。……たぶん、十日くらいまえ」
「あの通りがどんな場所だか知らなかった?」
「……うん。わたしは、知らなかった。兄さんはわからない……お父さんとお母さんは、知ってたかもしれない、です。ひっこすとき、こわい顔をしてたし、わたしたちに何回もあやまってたから」
「引っ越してきたのは君たちだけかな?」
 ワルターの問いに、ヴァレアが少し不思議そうに首を傾げた。
「つまり、君たち一家だけで引っ越してきたのかね? それとも、他にもっと――たとえばある程度の集団でやってくるような話であったとか」
 ワルターの補足にヴァレアは即座にかぶりを振る。
「わたしたちだけです」
「そうか……」
 ワルターは息を吐き、顎に手を添えながらソファの背もたれに深く背中を預けた。彼らが危惧していた東洋人集団の一員である可能性は幾分下がったように思われた。
「それでは君たち家族は一体どこから来たのだね? どういった理由があって。――あぁ、ありがとう」
 言葉の終わりで、ちょうどビレンがコーヒーカップを持って戻って来た。湯気の立つそれをワルターは受け取る。
 ビレンはもうひとつのカップを持って、ビリーのほうに歩いて行った。
 砂糖が入ってない、と小声で不満を言うビリーと、それを黙殺するビレンの様子にヴァレアは一瞬気を取られる気配を見せたが、なんとかワルターの問いに集中したようだ。
「ええと……ここが、その、どこなのか……わたしの家は、農家だったんです。こんな建物のあるところじゃなくて、もっと、ひろい、ところに住んでて……そこからトラックと列車に乗って来たわ。こんな街、来たことなくて……。それで、ええと……」
 ヴァレアは言葉を選び選び、苦心して説明しようとしている様子だ。
 ワルターは急かすこともなく、答えを待ちながらコーヒーを啜る。
 少女は年齢と比較して、発音が幼く、物言いがたどたどしい部分がある。おそらくは田舎での孤立した暮らしで人も世間も知らず、学校へも通っていなかったのだろうとその場にいた者たちは推測した。
 そして事実そのとおりだった。
 ヴァレアが大人たちに怯えがちだったのは、なにも単純な不安だけが原因ではない。
 ビレンの感じた違和感――つまりは引き金通りやそれに類する環境に少しでもいたのなら、身に付けていて然るべきしたたかさや狡猾さをヴァレアが持ち合わせていなかったのも、そういった育ちに起因するのだ。平凡な社会集団すら縁遠かったのだろうから。
「農家、だったんですけど……でも、なんだか急に、出て行かなきゃいけないって……そういうことになって。なんでだか、よくわからない。お父さんにもお母さんにも、教えてもらえなかったし……。でも、ひっこす前、お父さんやお母さんが、誰かと何回もケンカしてたと思うわ。めったにかかってこない電話も、よくかかってきたし……」
「誰かというのは?」
「わかり……ません。何人か、いたかもしれないけど……わたしと兄さんは、そういうときは絶対寝室から出ちゃだめだって言われて、それでわたしたち、こわくてずっとベッドにもぐってたから」
 ふうむ、とワルターが低く唸るような相槌を打つ。
「ヴァレア、君は少し東洋の血が混じっているようだが。ずっとこの国で育ったのかね」
 難しい顔をしたままのワルターから発された問いに、ヴァレアがまた少し理解しかねる様子で首を傾げた。あまり人種に関して意識をしたことがない、そんな様子に見えた。
「……よく、わからないけど。お母さんの、お母さんが、別の国のひとだって聞いたことはあるわ。でもほとんどこの国で育ったし、お母さんもこの国で生まれたって」
「なるほど」
「三世か四世ってとこですかね」
 扉のところから、コーヒーカップを片手にビリーが口を挟んだ。ビレンは観察と警戒を兼ねた様子で黙ってヴァレアを見ている。
 ワルターはカップを目の前のテーブルに置きながら頷いた。
「そうだろうな。やはり彼女は、彼女ら一家はおそらく無関係だろう」
 ヴァレアが三度、頼りなさげに首を傾げた。
「いや、いいんだ、ヴァレア。これで君を心置きなく助けてあげることができる。ヴァレア、君は君たちのご両親について、理解しているかね」
 ワルターが上体を起こし、膝の上でまた手を組んだ。そして少女に残酷な現実を突きつけることを承知で、そう問うた。
 ヴァレアは少し俯き、セーターの裾をぎゅっと握った。沈黙が落ちる。ワルターは思案を交えて細く静かに息を吐く。
「ヴァレア、ご両親が一体どうなったにしろ、"今現在"不在であるのは事実だ。そのことからは、目をそらすことはできない。わかるね」
 ワルターの言葉に、ヴァレアが少しの間のあと、小さく頷く。
「君たちのご両親のことは探そう。後で特徴などを教えてもらうよ。しかし、ご両親と、"君たちの望む姿で"再会できる可能性は、正直に言って低い。もちろんゼロではない、希望を捨ててしまう必要はない――しかし、低い。それも受け入れられるかね」
 ヴァレアが強く唇を噛みながら、それでも震えて頷いた。
「よろしい。君は強い子だ。――リードはしばらく入院が必要だ。では君はどうするか。本来ならば、君たちのような子供を受け入れてくれる施設に行くべきだ。だがそういった施設は、生憎この町にない。ここから離れることになる。"ご両親がいなくなった場所から離れることになる"。それは、受け入れられるかね?」
 ワルターが強調した言葉に、ヴァレアはびくりと身体をわずかに震わせた。顔を上げる。その眉は切なげに歪んで、瞳は苦しんでいた。
 微かに顎が左右に揺れる。明確に首を振ることはできない、けれど拒否したい思いの表れだった。
「それではひとつの提案だ。ここは、私の事務所は、引き金通りに近い場所にある。この通りのすぐ隣は、もう君たちがいた部屋のある引き金通りだ。なにかあればすぐに飛んで行ける。リードのいる診療所から近いのも、言ってあるね。――ここで暮らすといい、ヴァレア。なにも永住しろと言うんじゃない。取り敢えずは、そうだな、リードが退院するまでは君も休息を兼ねて落ち着きたいだろう。その後のことはその後で一緒に考えよう。どうだね?」
 ワルターの申し出に、歪んでいたヴァレアの表情がきょとりとしたものに変わってゆく。何度もまばたきをする。
「私はここに住んでいるわけではないが、ここにいる時間は長い。それに彼らはこの建物で生活している。二人とも紳士だし、頼りになる男たちだ。なにかあっても必ず君を守ってくれる」
 そう言ってワルターは扉のほう、まるで兵士のように扉の両脇に並び立つビレンとビリーを視線で示した。
 ビレンは相変わらずだったが、ビリーはコーヒーカップを掲げ、シニカルな笑みをヴァレアに向けてみせた。
「で、でも……」
 ヴァレアは一度唇を開いたが声が出ず、唾液を飲み込んでから言った。
「なにか問題があるのなら、遠慮なく言うといい」
「で、でも、なんで……なんでですか、なんでわたしに、そんな。おカネだって、持ってないのに、あんなこともしたのに」
 ヴァレアが少し身を乗り出して、困惑の色を滲ませて言う。ワルターは微笑を浮かべ、片手でヴァレアの頬を包んだ。
「君が我々を信用するならば、君たちを助ける。心配しなくていい。そう言っただろう、ヴァレア? 救いを必要とする子供は救わねばならない。当然のことだ」
 ワルターの言葉にヴァレアは唇を震わせ、喉から嗚咽が漏れた。
 そして、父親に縋る子供のように、彼に抱きついた。
 数時間前のように泣き声こそあげなかったが、それでもおそらく泣いていたのだろう。ワルターは穏やかな表情でヴァレアの背中を撫でる。
 ビレンとビリーは、そんな二人の姿を無言で眺めていた。
 少女の姿に、それぞれがかつての自分を重ねて見ていた。救われた子供の姿を見ていた。
 この小さな少女もまた、自分たちと同じになるのだろうと、そう思った。


 少女はこの日、確かに救われた。
 狭く埃にまみれたアパートメントの一室で衰弱する兄を見る苦しみを味わい、あげく自分も飢えて死ぬ可能性はなくなった。
 引き金通りの中で、一時間先を生きる保障もない環境に適応する必要はなくなった。
 いなくなった両親に対する思いの整理もできぬまま、遠くの地で暮らすことはなくなった。
 少女がこの先得るいくつもを考えれば、失ういくつかを差し引いても、この日彼女の前に開き、そして自ら選んでゆく道は、おそらく確かに幸福だったのだ。
 単純な喜び、痛むほどの苦しみ、深く大きな哀しみ。
 そういったあらゆるものがあったとしても。


〈1〉83年11月――少女は転落を免れる。(了)

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