〈83年12月中旬 W-14ストリート・ロングフェロー診療所〉

 ヴァレアはその明るく白く清潔な診療所の建物の中を、駆け出しそうになる足を辛うじて早足にとどめて進んでいた。顔なじみになった看護婦や職員に声を掛けられるたびに挨拶を返すが、表情はどうしてもはにかむようなそれになる。ほとんど家族しか知らなかったヴァレアにとって、それ以外の人々と関わることはひどく新鮮に感じられた。
 落ち着かないような、それでいて胸の奥をくすぐられるような独特の高揚感を抱えたまま、少女は階段を上る。
 まっすぐな廊下の並びの奥に、目的の病室がある。辺りに人影がないか、悪戯前の警戒のごとく見回してから、足音を忍ばせて小走りにその部屋に駆け寄る。
 マフラーごと口元を押さえ、病室のドアをノックする。中から少年の声が返る。ヴァレアの顔が明るく輝いた。
「リード!」
 いつものように呼びかけながら、ドアを開けて病室に飛び込む。明るい日差しを身体に障らない程度に遮る白いレースのカーテンを背景に、ベッドの上に座る少年が、若干弱々しいながらも笑みを浮かべていた。
「やぁ、ヴァレア」
 ヴァレアはその優しげな顔立ちをした少年、兄のリードのもとへ駆け寄る。
 リードはもともと痩躯だったが、入院当初の病的なやつれは改善されつつあった。衰弱して起き上がることも困難だったのが、今ではベッドの上で身体を起こして過ごしていることも増えてきたし、体調がよければ軽い散歩もできた。栗色の髪は少し伸び気味で、まだ頻繁には洗えていない様子だったが、それでも少年の顔色は随分と良くなってきている。だからヴァレアは、日々そうやって少しずつでも元気になってゆく兄の姿を見るのが嬉しかった。
 ベッド脇の椅子に座り、マフラーを解く。
「起きててだいじょうぶ?」
「平気だよ。さっきまで寝てたんだ。でも本を読みたくて……うつ伏せじゃ苦しいし、あお向けじゃ腕が辛いから」
 リードは苦笑しながら、膝の上に置かれていた本を撫でる。リードはもともと身体が丈夫でなかったせいもあり、ヴァレアが外を走り回り、木に登り、水遊びをする傍ら、木陰でそれを静かに眺めたり本を読んだりしていることが多かった。両親に絵本を読んでもらう程度のことは好むものの、どうしても外で動き回ることへの関心のほうが上回っていたヴァレアと違い、読み書きもそれなりに身につけている。
「その本どうしたの? リサ?」
 WBI事務所の事務方のリサは、ロバート医師と夫婦でもあった。それに元来の子供好きが加わって、仕事の合間を縫っては、ヴァレアのみならずリードの世話も焼きに来ているのだ。
「うん。昨日買ってきてくれたんだ」
「おもしろい?」
 そう尋ねながら、ヴァレアは見せてと本へ手を伸ばす。リードはそのまま本を妹へ手渡した。
「とても。海の冒険小説だよ。僕は海って知らないからどきどきする」
 海! とヴァレアは弾んだ声をあげ、それからしばらく無言でページをめくる。時折、言葉を追うように口がぎこちなく動く。
「あ、この街から車でしばらく行くと、ふと、ふとう……?に行けるって聞いたわ」
「埠頭かぁ。いつか行ってみたいな」
「リードが元気になったら、たのんで連れて行ってもらおうよ」
 文字を追いながら喋っていたヴァレアだが、結局本の内容はほとんどわからないらしく、眉を寄せて本を閉じた。リードはヴァレアの言葉に頷いてから、その様子に弱く笑った。
「……わたしも、勉強しなくっちゃだめね」
 閉じた本のタイトルをなぞるように表紙を撫でてから、それを兄へと返す。
「……そうだね。勉強はやっぱり、したほうがひとの役にも立てる。今までの生活と違ってさ」
 リードは本を受け取り、静かな声で言った。それは妹へ向けてというよりも、自分自身に対する独白に近い調子だったが、それでもその言葉はヴァレアにも届いた。
「役に立つ……リードは、だれの役に立ちたい?」
 床に着くか着かないかの脚をゆらゆらと動かしながら、ヴァレアが尋ねる。"誰かの"ではなく、"誰の"役に立ちたいかを。
 リードはその言葉を受け、思案の沈黙を落とした。答えそのものを考えるというよりは、答えを口にすべきかを考える、といった様子だった。
「僕は、ロブ先生の役に立ちたいよ」
 そして少年は静かな、それでも明確な意志を含んだ声で答える。少女はそれを聞き、穏やかな笑顔を浮かべる。
「そっか。わたしはね、ワルターの役に立ちたいんだ」
「うん」
 幼い兄妹は、親密に過ごしてきた家族独特の意思疎通の気配を持って微笑みあった。
「僕もバーンズさんたちに助けてもらったんだし、その恩返しはいつかしたい。僕の入院費だって、保障があるって言ってもほとんどバーンズさんが負担してくれてる。そのお金は絶対返さなきゃいけない」
「うん」
「でもロブ先生には、どれだけ励ましてもらったかわからないんだ。それにリサにも。……ヴァレア。もしこのまま、お父さんもお母さんも見つからなかったら。僕たちは、そういう施設に入らなきゃいけないよね。もしかすると、"見つかっても"」
 リードは膝の上の本を両手で強く握りながら、声を少し強張らせた。ヴァレアも視線を下げる。
「僕も、いつかはそれを受け入れなきゃいけないんだろうと思ってた。……でも、ロブ先生がこないだこっそり言ったんだ。『施設に行って、運がよければ子供として引き取ってくれるひとが出てくる。それなら少し手間を縮めて、僕たちのところへ来るのはどうかな?』ってさ」
 リードの表情は、嬉しさと、悲しさと、苦しみの混じるそれだった。いっぽうのヴァレアは目を見開いて、それから身を乗り出し、リードの両手を握った。その顔には喜びがあった。
「リード! それってすてきだわ!」
 そう声を上げ、そして「おめでとう!」と言葉を続けた。"自分のことではなく"兄のこととして。
 リードは少し困ったような、同時にやっぱりと納得するような、そんな笑みを見せた。
「ありがとう、ヴァレア」
「リサもきっと喜ぶわ」
「うん……そうだといいな。ロブ先生は、まだリサには話してないって言ってたけど」
「でもリサのことだから、きっとわかってるんじゃないかしら」
「そうかもしれない。……ねえ、ヴァレアは、どうするの?」
 リードは、それでもやはり言葉にして妹に問いかけた。ヴァレアに握られた手は、皮膚が触れ合うことで少し汗ばみつつあった。
「わたしは……ワルターのところにいるわ」
 ヴァレアは少し間を置いたものの、まっすぐに答えた。
「先生は、ヴァレアさえよければ兄妹一緒にって言ってたよ」
「でも、いくら先生たちのところに子供がいなくたって、ふたりも引き取るのは大変だわ」
 ヴァレアは握っていた手を離し、少し姿勢を正す。
「ワルターとね、話をしたの。これからどうするかって。わたしが、いつかワルターの役に立ちたいです、って言ったら、ワルターは笑ってくれたわ。『なら、ここに居るといい』って、言ってくれた。だからわたし、あの事務所にいるの。これからもいるの。まだなにもできないし、なにをしたらいいかもわからないけど――勉強はしなくちゃだめね――いつかなにかできるようになって、ワルターために働く」
 ヴァレアの言葉の迷いのなさは、あるいは世間知らずの子供ゆえの頑なさなのかも知れない。それでも今の彼女にとって、それは必要な目的であった。
「……そっか」
「来年、十一歳になったらね、新聞配達でもしようと思うの。この通りのあたりは、新聞を取ってるところが結構多いんだって。どうせすぐには、ワルターのやってるような仕事を本当に手伝えるようにはならないんだもの。だから生活費くらいは、ちょっとでも自分で稼がなくちゃ。ワルターも賛成してくれたわ」
 ヴァレアはそう言うと、シーツに覆われたリードの膝の上に甘えるように上半身を投げ出した。ベッドの向こう側まで両腕を伸ばす。リードもそんな妹の様子につられてか、優しげに笑った。
「新聞配達って大変なんだろう?」
「わたし、元気だもの。がんばるわ。リードも、早くよくなってね」
「うん。がんばるよ。――ねえ、ヴァレア。お父さんとお母さんに、会いたいね」
 リードはヴァレアの髪を撫でながら、呟くように言った。ヴァレアも頷いた。
「わたし、今でも夜ベッドに入ると、つらくて、さびしくて、いつも泣いちゃうわ」
「僕もだよ」
「一緒ね」
 それでも兄妹は微笑んでいた。
 彼らはけっして両親を失ったこと――あるいは喪ったことを、事実として認め、諦め、受け入れることができているわけではない。
 もしかすると両親と生きて再会できるかもしれないという希望と、もはや一家が揃うことは二度とないかもしれないという絶望が、常に彼らの中に混在している。それらは彼ら兄妹を、不安という足元の不確かな場所に置く。
「愛してるわ、リード」
「愛してるよ、ヴァレア」
 けれど、互いだけは確かに目の前に存在している。愛する家族のために、二人は敢えて悲しみだけに囚われない努力をした。
 そして今はいない両親に代わる支えであり、同時に自立するための目標である存在を、彼らはそれぞれに見つけたのだ。
「そうだわ、クリスマスね、ワルターが一緒に過ごそうって言ってくれたの。いつもね、ワルターとね、ビリーと、ビレンで過ごしてるらしいんだけど、わたしも一緒にいいって」
「よかったじゃないか」
「うん。でも病院にも来るわ。お昼ごはん一緒にたべられるかな? なにか食べたいものある?」
「ありがとう。そうだなぁ……サンドイッチなんかがいいな」
「それじゃあ、チキンのサンドイッチを作ってくるわ! だいじょうぶか、あとでロブ先生に聞かなくちゃ」
「楽しみにしてるよ。最近、やっと食欲が出てきたんだ。そういえばビレン……えっと、ガートランさんだよね。あのひととはうまくいってるの?」
 リードの問いに、ヴァレアの表情が少し強張る。リードの膝の上で顔を伏せて、椅子から垂らす脚を軽くばたつかせた。
「……まだ。まだだけど! でも、ちゃんともっとあやまって、きっと、な、仲良くしてもらうの!」
 リードは静かに笑いながら、ヴァレアの後頭部を撫でる。
「覚えてないんだけど、僕を運んでくれたの、ガートランさんだったんだろう? だからちゃんとお礼言いたいな」
「許してもらって、仲良くなって、わたしがつれてくるから! そのとき言って!」
「うん、頼むよ、ヴァレア」

 その兄妹は楽しげだった。
 二人はともにいる時間の中では、敢えて深刻さを回避する傾向があった。幸福な家族として過ごすことをできる限り望むからだ。
 それはこれからも変わらないだろう。
 そうであるからこそ、彼らは幼いながらも互いの絆を信じ、異なる環境に身を投じることを決める勇気を持つことができたのだから。


〈3〉83年12月――幕間/兄妹は考え、将来を決める。(了)

 ←BACK  NEXT→〈4〉-1へ

TRIGGER Road
novel
top