〈83年11月 W-14ストリート・WBI事務所・所長室)

 ワルターは受話器を肩と顎の間に挟みながら、葉巻の先をカッターで切った。それを咥え、銀に鈍く光るガスライターで火をつける。
「あの後も少し調べてみたが、やはりあの一家は君が懸念している存在ではないようだ。だが、引き金通りに何某かの――組織だったものかどうかはまだわからないが、それでも特定の集団が入り込んではいるのかもしれない。何度か部下にも探ってもらったが、そういえば東洋人を時折見かける、という話をちらほら聞いたと言っていた」
 葉巻に片手を添え、受話器を持ち直すと所長室の椅子に深く背中を預けた。
「そうだ。これまでそんな話は皆無に近かった。引き金通りには東洋人どころか東洋系もまずいなかったはずだ。だから事実なのだろう。ただ、東洋人の集団が実際に確認できたわけではないのだ。私自身も見かけない。ドラッグや火器の流通が変わったようにも思えない。――そうだな、意図的に潜伏しているのかもしれない。君はどう思うかね、ネッド」
 受話器からは、男の声でなにかが語られている気配だけが漏れている。


〈85年5月 W-14ストリート・WBI事務所・オフィス〉

 WBI事務所の所長室の隣は、所員が詰める仕事部屋だ。さして広くはなく、また少人数であるため、パーティションなどで区切られもせず机が並ぶ。
 そこでは今、ビレンとビリーがそれぞれ仕事をしていた。ビレンは壁際のデスクでパソコンに向かい、ビリーは部屋の中央にあるデスクで煙草をふかしながら、顔写真の添付された書類束をめくっている。
 隣の所長室からは、ワルターと女の話し声が微かに聞こえていた。
「しかし、本当に東洋人が増えたもんだ。ちょっと前に比べりゃ、目立つこと目立つこと」
 煙の昇る煙草を上下に揺らしながら、ビリーがぼやくように言う。彼が見ているのは警察署から提供されたものだ。引き金通りで見つかった死体と、そして"運悪く"逮捕された人間の二種類のリストである。
 ビレンがキーボードから手を離し、眼鏡をはずしながらビリーのほうを向く。彼は目に問題はなかったが、銃を扱う関係上、目の疲れや視力の低下を嫌い、パソコンなどを使用する際にうっすらと色のついた特別な眼鏡を掛ける。自分に合うようにあつらえたものだ。
 神経質な彼らしいそれをビリーが時折からかうが、ビレンは取り合わないようにしていた。
「具体的には」
「まぁ、数としちゃたいしたもんじゃない。一割かそこらさ。だが何年か前まではゼロに近かったからな。目立つぜ」
「相変わらず連中の素性がはっきりしないな」
 ビレンはいささかうんざりした顔で脚を組み、膝の上に乗せた手は眼鏡のフレームを弄ぶ。
「向こうさんのマフィアなら、ある意味話は早ぇんだがなぁ。厄介なことはこのうえねぇが」
「マフィアなら引き金通りを選ぶ意味がわからんからな。あそこはしょせん隔離された貧民窟《スラム》に過ぎない。わざわざあの手の連中が海を渡ってまでビジネスに来るほどの旨味はないはずだ。あの環境では利益は広がらん」
「そこが難しい」
 ビリーが書類をデスクの上に放る。
「引き金通りの連中にとって大事なのはその日を生き延びることと、あとは酒とドラッグ。もうちょっと余裕のあるやつはそれにセックスだ。だから周りのことなんて興味がねぇ。聞き込んでもたいした情報は得られやしねぇ。まったく、あのクズどもめ」
 ビリーはそう言って、短くなった煙草を灰皿に突っ込む。言葉とは裏腹に、引き金通りの人間に対する嫌悪や軽蔑の色は彼から滲んでいなかった。
「私にはお前のように、ああいう連中に寛容でいるのは無理だ」
 ビレンが再び眼鏡を掛け、パソコンに向き直りながら言った。
「俺がなにかに溺れる人間に甘いのは昔からさ。仕方ない。それにお前は寛容じゃないんじゃなくて、関心がないんだろ、この人嫌いめ」
 ビリーはにやつきながら立ち上がり、コーヒーを淹れに部屋の隅にあるカウンターに向かった。ビレンが黒い画面に白く浮かび並ぶ文字を見つめたまま口を開く。
「そういえば、ヴァレアの親らしい人間は」
「いないね」
 ドリップコーヒーの箱を開けながらビリーが答える。今もなお、ヴァレアたちの両親は見つかっていなかった。生きた姿でも、死んだ姿でも。
「あれからもう一年半か」
「ああ。いまさら死体が見つかるってのもあんまりねぇ話だな。あそこじゃわざわざ頭と労力使って死体を隠す奴なんてまずいねぇ。かといって生きてる可能性も低そうなんだがねぇ。なんともわからんね。早々に殺されて、下水にでも放り込まれちまったってのが一番現実的と言えば現実的だな」
 ビリーはカップの中にコーヒーが滴る様子を見下ろしながら言った。声はいたって淡々としている。感傷で目をそらすよりも、現実の可能性を考えることが、彼らが生きるべき日常だからだ。
「そうだな」
 ビレンは呟くように言い、背もたれに体重を掛けた。その椅子の軋みにビリーが彼のほうを振り向く。
「あいつに同情するか?」
「……まさか」
 ビレンの声音に変化はないが、そのわずかな間にビリーが無言で唇の片端を上げる。
「同情したところで、彼女が救われるとでも?」
 ビレンもその沈黙に感じるところがあったのか、首を後ろへ回して少し不機嫌そうに言う。ビリーは鼻から息を抜いて笑うと、砂糖を入れてかき混ぜたあとの、湯気の立つカップを片手にビレンの後ろに近づいた。
「あいつは素直だからな。救われはせずとも、お前と違って不愉快には思わねぇだろうさ」
「とにかく同情はしない」
 ビレンは機嫌の悪さの色を濃くし、作業を再開する。キーを一度強く叩くと、白い文字がざあと画面を流れていった。
「そういや、勉強ははかどってんの?」
 ビレンの様子に構わず、彼が座る椅子の背もたれに手をつき、ビリーはコーヒーを一口すすって尋ねる。
「ヴァレアのか」
 ビレンは片手で頬杖をつき、もう片手をキーボードに添えた体勢で、画面から目を離さずに答える(彼がしているのは過去のファイルの整理だ)。
 彼は折々、求めによってヴァレアの勉強をみている。ヴァレアは学校に通っていなかった。
「そう」
「悪くない。というよりも、むしろ彼女は優秀であると言うべきだな。もう年齢相応の能力は身に付けているように思う」
「それはそれは」
「物覚えもいいし、そう的外れな質問もしない。意欲もある。いい生徒だよ」
「学校に通ってりゃ優等生か。もったいないことで」
「仕方ないさ。彼女の望みでもある。社会勉強はアルバイトで補ってもらおう」
「まったくよくやるよ、あいつも。感心するぜ。まだガキのくせに、たいした忠誠心だ」
 そこでビレンは顔を上げ、ビリーを斜めに仰ぐ。珍しく、微かに口元に笑みが浮かんでいる。ジョークを言うような、皮肉めいた笑みだ。
「私たちも、同じだっただろう?」
 ビリーはビレンを見下ろし、眉を上げて目を細めた。こちらはいつも通りの笑みを見せる。ジョークを言うような、皮肉めいた笑みを。
「俺たちは、十五にはなってただろ」


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